『チビちゃん』は小さくてふわふわの子猫です。
お母さんの元を離れてペットショップに来て今日が一日目。
コロコロと遊びまわる兄弟たちから離れて、一人で気持ちよくお昼寝をしていました。
大好きなタオルにくるまってうとうとしかけたとき、ふとガラスにへばりついている影に気付きました。
『……なんかいる』
薄目を開けてそれを見ながらちょっとだけそう思いましたが、でも、チビちゃんの目には「どうでもいいもの」に映ったので、すぐにまた夢の中に戻りました。
人影は30手前のサラリーマン。
見た目はまあまあでしたが、顔が緩んでいました。
でも、チビちゃんにとってはそれもどうでもいいことだったので、何も見なかったことにして、また楽しいお昼寝に突入したのです。
ええ、その時はまだそれがわが身に降りかかってくるなんて思ってもいなかったので。
なのに。
気持ちのよい夢の真ん中にいる時に、チビちゃんはいきなり起されて、店員さんに抱き上げられました。
「今、ちょっと機嫌が悪いみたいですけど……普段はおとなしくていい子ですから」
勝手に起こしておいてその言い草はないだろう、とチビちゃんは思いましたが、面倒くさかったので何も言いませんでした。
隣にはさっきチビちゃんが「なんかいる」と思った緩んだ男が、さらに緩んだ顔で立っていました。
「可愛いな、俺の麻貴ちゃん。でも、ちょっとゴキゲン斜めでちゅね〜」
チビちゃんにも自分の新しい名前が「麻貴ちゃん」になったということはなんとなくわかったのですが、その前についていた「俺の」という所有格がとても気になりました。
いえ、正確に言うなら「気になった」のではなく、「気に入らなかった」のですが。
『……けっ』
それでも「今だけのガマンだ」と思って、それなりにいい子にしていました。
なのに。
「んー、本当に可愛いな。今日から麻貴ちゃんと二人暮し。一緒に風呂入って一緒に寝ような?」
嫌な予感は見事に的中し、その緩んだサラリーマンの家の子として迎えられてしまったのです。
しかも、サラリーマンに言わせると、「未来のお嫁さん」として。
『チビちゃん』改め『麻貴ちゃん』となったチビ猫にとって、それはあまり楽しいことではありませんでした。
でも。
「今日からここが麻貴ちゃんの新しい家だよ」
そう言われて入れてもらった部屋はとてもキレイに片付いていて、ふかふかの布団がありました。その上、とても美味しいご飯がたくさん出てくる素晴らしい場所だったのです。
そんなわけで、麻貴ちゃんにとって、ゆるゆるサラリーマンの家の居心地は案外悪くありませんでした。
問題があるとするなら、
「んー、なんでこんなに可愛いんだろうな?」
飼い主であるはずのその男だけだったのです。
そうなのです。
「麻貴ちゃん、『ちゅ〜』しようか?」
ゆるゆるサラリーマンはかなり鬱陶しい性格でした。
さらに緩んだその顔を見上げながら、麻貴ちゃんは思いました。
『じゃま』
麻貴ちゃんは『ちゅ〜』なんてしたくありませんでした。
だから、男の顔を思いきり蹴飛ばしてみたのです。
麻貴ちゃんが生まれた家では、兄弟にネコキックを浴びせるたびに「そういうことをすると嫌われるわよ」とお母さんに怒られていたからです。
なのに。
「んー、麻貴ちゃん、アンヨも可愛いなあ」
ゆるゆるにとけまくった挙句、もっと好かれてしまったので、麻貴ちゃんはとても納得がいきませんでした。
『……なんかちがう』
麻貴ちゃんはまだ小さな子猫ですが、この時すでに自分の飼い主である男が少々変わっていることに気付いてしまいました。
そして……もうお分かりですね。
その日から麻貴ちゃんの「一番欲しい物」は「新しい飼い主」になり、それはすっかり王子様待遇になった今もまだ当たり前のように続いているのでした。
「森宮、そんなこと言うけど、こんなに尽くしてくれる飼い主、よそにはあんまりいないんだよ?」
下僕その2にそう言われても、
「いらない」
麻貴ちゃんの決心が変わることはありませんでした。
そんなわけで。
麻貴ちゃんはゆるゆる飼い主がいない間に、「本当に危ないネコパンチ」と「最強ダメージ呪文」を編み出すため、日夜努力を続けているのです。
―――めでたし、めでたし。 end
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