<北極ごっこ>
玄関のドアを開けた途端、心地よくひんやりとした空気が流れ出してきた。
廊下とリビングの間にはちゃんと仕切りがあるから、中はもっと涼しいだろうと思って開けたら。
「……樋渡、何してるの?」
涼しいなんていう形容詞ではまったく足りないほど中は冷え冷えしていた。
てっきりエアコンが壊れたんだろうと思ったのに。
「北極ごっこ」
締め切った窓から外を見ている体勢で顔だけ振り返った樋渡は満面の笑みでそう答えた。
「それって……」
聞くまでもない。
クーラーを最強にして寒い部屋で過ごすことなんだろう。
「森宮、カゼ引くんじゃ……」
だが、樋渡がこの世で一番大切な森宮の心配をしないはずはない。
「麻貴ちゃんはここでちゅよ。はい、麻貴ちゃん、進藤にご挨拶しような?」
森宮は樋渡が着込んでいたフリースの襟元から面倒くさそうにちょっとだけ顔と手を出した。
「たおる」
「そう、進藤な」
「ぱんち」
「ああ、中西もいたのか」
くどいようだけど樋渡の世界の中心は森宮だから、中西なんていてもいなくても関係ない。
森宮が来るまでは無二の親友だったはずなのに。
それってどうなんだろう。
やや複雑な気持ちに陥った俺に、森宮がわりと可愛い顔で尋ねた。
「おやつ」
それはとても子猫らしい感じだったけど。
要約するまでもない。
「麻貴ちゃんがおやつ出せって」
「……ごめん。持ってこなかった」
と答えたものの、「ごめん」で済む森宮ではないだろう。
そう思った俺の予想はとても正しくて。
森宮は「ちっ」という顔で以下のような言葉を吐いた。
「いらない」
この場合、いらないのは「おやつ」じゃなくて俺と中西だ。
それも言うまでもないことだけど。
「……買ってくるよ」
こうして、俺と中西は再び炎天下のアスファルトの上に放り出されたのだった。
「うわー、あぢー。死ぬかもしれないー」
うだうだ言いながらのたうつ中西と再び北極のドアを開けたのは10分後。
「ただいま」
森宮からはもちろん「暑いのに大変だったね」などという労いの言葉もなく、それどころか「おかえり」の一言さえない。
さらに、袋に入れられたたくさんのおやつを見て愛らしく喜んだかというとそんなこともなく。
樋渡がそれらを無造作に「麻貴ちゃんの宝箱」に入れるのをじっと見ていただけだ。
もちろん中の一つはちゃんと森宮のお腹に収まったんだけど。
相変わらず俺たちの存在は限りなく薄い。
「どうでもいいけど、慣れてくるとこの部屋ちょっと寒いよなぁ」
「もっと温度上げてもいい?」
「ダメに決まってるだろ」
嫌なら出て行けとまで言われても。
俺はともかく退屈しのぎに来ている中西が帰るはずはない。
「じゃあ、毛布貸せー」
寝室から持ってきた毛布に包まるついでに俺も巻き込んで満足していた。
「でも、これって身体に悪いんじゃないの?」
樋渡の衣服の中にいる間はいいけど。
ちょっとでも外に出たら、小さなネコなんてすぐに冷えてしまう。
でも、樋渡は満面の笑み。
「いいんだよ。麻貴ちゃんが楽しそうにしてるんだから」
お腹が一杯になった森宮はいつもと変わらずすぴすぴ寝ているだけで、とても「楽しそうにしてる」ようには見えなかったけど。
保温器具としての樋渡はそれなりに認められているらしく、気持ちよさそうにのびのびと眠っていた。
何よりも樋渡はこの上なく上機嫌なんだから、友達として喜んでやらなければいけない場面なんだろう。
「……よかったね」
夏になって傍にも寄ってくれなくなった森宮となんとかくっついて過ごすために樋渡が考え出した苦肉の策。
まあ、森宮お気に入りの大きな墓石を買うよりは安いんだろう。
電気代がいくらかかるのかとか地球に優しくないとか、そういうことを追求するのはやめておいた。
それにしても。
「麻貴ちゃんのふわふわを目一杯満喫できるんだぞ」
いいだろう、と得意気に言われて。
「……うん、そうだね」
相変わらず返す言葉が思いつかない俺だった。
目の前には、寒ささえ感じる部屋で溶けまくっている樋渡と、その胸元で気持ち良さそうに眠っている森宮。
そして、俺の背後には毛布に包まったまま背中にベッタリと張り付いている中西。
別にいいんだけど。
何かが違うような気がした夏の一日だった。
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