森宮は部屋の中から一歩も出ないので、バレンタインが何なのかを知らなかった。
ただ、ここ数日テレビでチョコレートの話題が多いことは気になっていたようだ。
「んー、バレンタインはチョコをおいしく食べる日だぞ」
樋渡はまた嘘を教えていたけど。
たとえちゃんとした由来を説明したところで、森宮は「チョコを食べる」こと以外には興味を示さなかっただろうから同じことなんだろう。
そして、そんな森宮に樋渡が用意したのは「麻貴ちゃん専用ミニミニチョコケーキ」。
もちろん手作りで、しかも暖かい部屋でおいしく食べるために前日に作って冷蔵庫で冷やしたものだった。
しかも、それだけでは満足せず、会社の帰りに女の子の熱気に満ちたデパ地下で高級店のチョコを購入。
そして帰宅。
「麻貴ちゃん、ただいま。いい子にしてたか?」
玄関を開けてリビングに滑り込み、床に膝をつき、両手を広げて森宮が走ってくるのを待つ。
でも。
「ガサッ」
森宮は当然のように樋渡を無視し、傍らに置かれたチョコレートぎっしりの袋の中にまったりとダイブした。
「言えば抱っこして入れてやったのに」
どんなに無残に自分を抹消されても樋渡はめげない。
何種類もある小箱の間に埋もれる森宮を眺めながら、ゆるく溶けていた。
「麻貴ちゃん、チョコ気に入ったのか? でも、ご飯の後だぞ」
一応飼い主らしく止めたけど。
森宮が樋渡の言葉を聞くはずはなく。
袋の中に埋もれたまま可愛らしいラッピングをビリビリと破き始めていた。
そして、そんな姿にさえ樋渡は目じりを下げていた。
「仕方ないな〜。じゃあ、小さいやつ一個だけだぞ」
まずは森宮をふかふかクッションつきソファの上に乗せて。
それから一粒何百円というトリュフを出して食べやすいように半分に切ると小さな手に渡した。
本当は「麻貴ちゃん、あーん」をしたかったようだが、それをすると森宮が顕著に不機嫌になることは見えているので何とか思いとどまったようだ。
樋渡も少しは学習しているらしい。
そして、森宮はといえば。
やっぱり「ありがとう」でも「いただきます」でもなく。
当然のようにそれを受け取るとクッションを背もたれにして踏ん反り返りながら、はむはむと食べ始めたのだった。
森宮はいつだって子猫とは思えないいい食べっぷりだけど。
だからと言って大き目のトリュフの半分を一口で収納できるはずはない。
部屋の暖かさと体温のせいで溶けたトリュフ本体とパウダーが森宮のフワフワの手をおもいっきりチョコレート色にしていた。
そんなわけで。
そろそろ「たおる係」の出番かもしれないと思いながら見守っていたんだけど。
「麻貴ちゃん、おててがベタベタでちゅね〜」
キッチンでご飯の用意をしていたはずの樋渡がサッと戻ってきて。
次の瞬間。
「うーん、このチョコはちょっと麻貴ちゃんにはビターだったかな?」
そこには森宮の手を舐めながらチョコの味を確認する樋渡の姿が。
まあ、どうせそんなことだろうと思ったから、別に驚かなかったけど。
森宮はやっぱり気に入らなかったみたいで。
「ビシバシゲシガシっっっシュタタタタ!!」
高速パンチを思いっきり炸裂させていたんだけど。
「麻貴ちゃん、パンチが上手になったな〜」
樋渡はまたちょっと余分に溶けただけで、その幸せを噛み締めつつキッチンへ戻っていった。
「……パンチ、ぜんぜん効き目ないみたいだね、森宮」
早く次の攻撃法方を編み出さないとまったくダメージは与えられないことを悟ったのか、森宮は俺に向かって「ぱんち」の命を下した。
でも。
「俺はタオルの係だから、それは中西が来たらね」
そう言ってごまかしておいた。
時計を見たら、7時過ぎ。
約束はしてないんだけど、中西だってそろそろ来る頃。
なんと言っても今日はバレンタインなんだから。
ここで思う存分やさぐれるに違いない。
そう思って、
「早く来るといいね」
森宮と一緒にパンチ係を待つことにした。
そんなこんなでお待ちかねの夕飯タイムは7時半。
なのに中西は一向に姿を見せなくて。
「おかしいなぁ……」
ちょっと心配になった俺の隣では、
「麻貴ちゃん、ご飯だぞ。バレンタイン特別メニューだからな」
ハート型の茹でささみとクリームに見立てたふわふわホイップなマヨネーズ、ホタテと小エビのパスタなどなど。
「森宮、今日も豪華なご飯だね」
それを横目で見ながら、缶ビールを開けて。
「俺もちょっとだけ食べていい?」
許可を求めてみたんだけど。
「そっち」
森宮の短い指が示したのは樋渡の夕飯。
それもハート型にくり抜いたささみの残りの部分とか、具の少ないパスタとか、そんな感じで。
でも。
「……わかった」
ここでは王子様の言うことが絶対だから。
「いただきます」
遠慮しながら樋渡の夕食に手を伸ばした。
「進藤、勝手に人のメシを食うな」
キッチンから戻った樋渡には速攻で注意があったけど。
「森宮に聞いたら、これなら食べていいって」
嘘じゃないよ、と付け足したが樋渡は疑っていた。
「ホントか、麻貴ちゃん?」
そんな確認をしてたけど。
森宮は自分のご飯を食べながら、とてもどうでもよさそうに頷いた。
それを見た樋渡は。
「そうか。麻貴ちゃん、友達思いのいい子だな〜」
まったくもってゆるゆるで。
普通に考えたら、それは絶対に違うんだけど。
「……そうだね」
自分の夕飯の確保と樋渡の親心に敬意を払って、今回はそういうことにしておいてあげた。
なんとか夕飯は樋渡用のを半分もらえたんだけど。
それ以外については俺の存在はジャマ以外の何ものでもないみたいで。 「タオルの係? そんなもん、うちにはいないぞ」
森宮と二人だけの世界を築くために、樋渡は俺をこの部屋から排除しようと試みていた。
俺も素直に自分の家に帰ればいいんだけど。
アルコールも入ってるし、外は寒いしで、動くのは面倒な気がして。
「あ、中西、まだ会社? こっちに来る時つまみ買ってきて。それと森宮のおやつも。チョコはたくさんあるから甘くないのがいいと思う」
結局、中西に電話してしまった。
『進藤、彼女はどーしたんだよ? ふられたのか?』
「違うよ。今日は仕事で遅いって言うから」
『なんだ、つまらねー』
文句は言ってたけど、「仕方ないから行ってやるよ」と返事があって。
「じゃあ、待ってる」
ようやく俺も疎外感なしで過ごせることになった。
それから中西が来るまでの30分間。
「麻貴ちゃん、おいしいか?」
「麻貴ちゃん、今日も可愛いな〜」
「麻貴ちゃん、ほら、あ〜んして」
まるで普段と変わらない樋渡を眺めながら、
「……バレンタインって何のためにあるんだろうなぁ」
そんなことを考えつつ、ささみの切れ端と手作りじゃないマヨネーズをつついたのだった。
end
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