おまけ



俺らのゼミ担、大伏(おおふし)教授が年明けに体を壊した。
ついでに、「老体に鞭打つのはもう嫌だ」などと言い出したもので、1月の終わりという中途半端な時期にもかかわらずゼミに新しい先生を迎えることになったのだ。
「でも、もうすぐ春休みですよ?」
とりあえずゆっくり休んで新年度から頑張ればいいのではないかという提案にも頑固な爺さんは耳を貸さない。
「休み前にレポートの下準備があるだろう? 相談に乗ってくれと言っている者も多数いるが、それはどうするね?」
「まあ……それはそうですね」
来期のレポートは大仕事だ。
卒論などと比べたらたいしたことはないのかもしれないが、それでもそこそこ体裁を整えたものにしなくてはならない。
自分も途方に暮れている口だったので、それにはうなずくしかなかった。


「はじめまして。唐崎(からさき)です」
階段教室の壇上で挨拶をしたその人は、正確には准教授だが、先生というよりは院生といった雰囲気で、見た目には俺らとそう変わらなかった。
だが、点が辛いことで有名な大伏教授が「非常に優秀だ」を繰り返すのもダテではないらしく、ずらりと並んだ50人近い学生が苗字だけの簡単な自己紹介をすると、そのあとは誰一人として間違うことなく正確に名前を呼んだ。
教授なんて何年経っても「前から二列目の白いセーター」としか言わないのに、だ。
そんなこともあって、俺らの中で唐崎先生はその日から高得点で、大所帯のゼミを二つに分けるという知らせがあったときも、みんながこっそり唐崎ゼミになるように祈ったほどだ。

結局、俺らにゼミの選択権はなく、勝手に振り分けられた名簿が2月に入ってすぐ貼り出された。
12月に出したレポートのテーマのうち、1、2、3を選んだ学生が教授のゼミで、4、5を選んだ学生が唐崎ゼミになるという極めて安直な分け方だった。
ちなみに俺は祖母の葬儀があって課題は出しておらず、「恩情」で春休みに通常の倍の枚数でレポートを書くように言い渡されていた。
そんなわけで、もちろん唐崎ゼミに入れられた。
なぜ「もちろん」なのかというと、大伏教授が「そんな手のかかる学生の面倒を見るのは嫌だ」と言ったからにほかならない。
俺は心底ホッとしていたが、貼り出された名前を見て、集まったやつらは大騒ぎだった。
「うわああ……課題4にしておくべきだった……」
「やった! 俺、唐崎ゼミだ!」
名簿はあとからメールでも配信されるが、夕方からゼミ恒例の打ち上げが控えていたため、ほとんどのヤツがこの場に立っていた。
「松下、この後、どうする?」
「ああ、俺、残ってる課題のこと唐崎センセに話しにいってくる」
「そっか、大変だな、おまえも。けど、打ち上げは来るだろ?」
「うん。先行ってて」
会場となる店はすぐ近くだし、まだ少し時間があったので、俺は一人で研究室に出向いた。とりあえずは「特別恩情(教授談)」によりレポート延期措置をしてもらった旨とそのせいで唐崎ゼミになったことを話し、「お手数をおかけして申し訳ありません」と言わなければならないと思ったからだ。
唐崎先生だってレポートの提出期限を守らないような学生は迷惑なだけだろうと思っていたのだが、ペコリと頭を下げると予想に反してとても楽しそうな笑顔を向けた。
「じゃあ、松下君。課題の締め切りは2月中ということでいいかな?」
手帳に提出日を書き込んで、「閏年だから29日だね」そう言いながら、手帳を俺に見せてくれた。
「よろしくお願いします」
本当は一ヶ月あっても仕上げる自信はなかったから、教授を捕まえていろいろ聞きたかったのだが、どうも俺のことはもうすっかり任せることにしたらしく、自分の机に座っていた恩師の顔には「厄介払いできて清々した」と書いてあった。
「じゃあ、唐崎君、あとは頼むよ」
すっかり自分には関係ないことのように席を立ち、帰り支度を始める。
「大伏教授は打ち上げにはご出席されないんですか?」
唐崎先生は引きとめようとしていたけど、すでに帰る気満々らしく、教授は当たり障りのない言葉でさらっと流した。
「身体を壊しているのに打ち上げもないだろう。これを渡しておくから若い者で楽しみなさい」
そう言って何枚かの一万円札を唐崎先生の手に置くとさっさと出ていった。
「唐崎先生は大伏教授と昔から知り合いなんですか?」
教授の口ぶりからしても教え子なんだろうけど。
「そうだよ。卒業したのはもうずいぶん昔だけどね」
准教授になってるくらいだからそれなりの年だろうけど。
見た目は20代後半、どんなに上に見ても30をちょっと超えたくらいって感じだ。
「院を出たら高校の先生になろうと思っていたんだけどね」
当時はいろいろやることがあってタイミングを逃してしまい、希望の学校へは就職できなかったらしい。
「それで大学に戻られたんですか?」
高校の先生っていうよりは研究職が似合う気もするけど。
「そう。教えるのが好きだから、どうしてもそういう仕事がしたくてね。もっとも、小さい子はあまり得意じゃないんだけど」
少し困ったように笑いながら本が数冊置かれているだけの殺風景なデスクを片付け、コートを取った。
「なのに、どういうわけか手のかかる子が好きなんだよね」
不思議だよねと俺の顔を見ながらニッコリ笑う。
大伏教授が同じセリフを言ったなら間違いなく厭味だろうけど、そんな深読みは必要なさそうな雰囲気だった。
「僕は休みの間もみんなのレポートを読みにくるから、松下君も分からないことがあったら遠慮なく聞きにおいで。家は近いの?」
「ここから歩いて10分くらいです」
「じゃあ、一人暮らしなのかな?」
無言でうなずく俺に学校近隣の地図を見せた。
たぶん「どのへん?」という意味なんだろう。
「えっと、ここです」
自分のマンションの場所を指し示してから俺もコートを着た。
「なら、遅くなってもご家族に余計な心配はかけなくて済むんだね」
「自宅にいても心配なんてされないですけどね。年の離れた妹がいるので、俺は子供の頃から放し飼いです」
そう言ったら笑ってたけど。
「じゃあ、分からなかったら気が済むまで教えてあげるよ」
俺がそんなに勉強するかといったら絶対にそれはないんだけど。
それでも心強い言葉には違いない。
教授と違って威圧感もないし、話しやすいからなんでも聞けそうだ。
「そろそろ打ち上げ会場に向かったほうがいいね」
さりげなく袖から覗く腕時計はシンプルだけど高そうだった。
「あ、はい。でも、歓迎会だし、唐崎先生、相当飲まされると思うので気をつけたほうがいいですよ」
時計に気を取られながらも念のために予告してみたんだけど、返ってきたのは余裕の笑顔だった。
「大丈夫、こう見えて酒は強いんだ。それよりも、いざ『先生』なんて呼ばれると少しくすぐったいね。ゼミでは『さん付け』に統一しようか」
でも、軽い苦笑いの後、急に何かを思い立ったように俺の顔をまじまじと見て意味不明な言葉を足した。
「それとも松下君だからなのかな」
どういう意味ですか、と聞き返そうか迷っていたら、不意に背中を押され、ドアの方向に促されて。
「じゃあ、遅くならないうちに行こうか」
当然のようにそのまま二人で打ち上げ兼歓迎会へ行くことになってしまった。




急いだつもりだったけど、会場へは遅刻した。
そのせいで到着早々に俺と唐崎先生はいきなりジョッキを渡された。
「はい。松下、頑張れよ。唐崎先生、お酒大丈夫ですよね?」
先生が飲めなかったら、おまえが飲めよって言われたんだけど。
自慢じゃないが、俺はあんまり強くない。
自分の分だけで精一杯だった。
「……う……なんか、もうこれだけで腹いっぱい」
俺が飲み終わったとき、先生はもう次の飲み物を手にしていた。
顔色ひとつ変わっていない。
「松下君、お酒苦手なの?」
「えっと……まあ、そうかも」
ゆっくりだったら、もうちょっと飲めるんだけど……なんて自分に言い訳をする。
急いで店に来ていきなり一気だったので、ちょっとクラッとしただけだ。
「大伏教授から援助をいただいてるので、みんなもあとでお礼を言っておいて」
「はーい!」
やけに可愛らしい返事は少数の女子だ。
打ち上げ出席者は16人中、女の子はサブゼミの4人だけで華やかさには欠けまくりだが、いつもと違って若者ばかりだからなのか、かなり盛り上がっていた。
率先して一芸披露をする奴までいたが、最初の一気が効きすぎたせいで俺は終始ぐったりしてた。
「松下、大丈夫か?」
「……ダメかも」
このまま寝てようかと思ったが、運悪く席は先生の隣り。
主賓に次々と酒を注ぎに来るヤツらのせいで静かな時間は過ごせそうにない。
「潰れたら送ってあげるよ。さっき場所聞いたから」
だから安心して寝ていていいよと言いながら、先生はまた酒を飲み干した。
じゃあ、お言葉に甘えて15分ほど寝てしまおうかと思ったそのとき、幹事席から悪魔の声が。
「はい、じゃあ、先生。次はポッキーどうぞ」
何の前触れもなく進行する学生っぽい飲み会に面食らうことも流されることもなく、先生は余裕の笑みで差し出されたものを受け取った。
「恒例のアレですから。覚悟はいいですか〜?」
司会をしているヤツが妙に楽しそうにそんなことを言い、「ただしゼミ内限定といたしますので色気はないですが」と付け足した。
「なんとなく見当はつくけど……うちのゼミって男子ばっかりだったよね?」
そんな言葉を返しながらも、辺りを見回す先生はニッコリ笑っていた。
「なんならクジなどではなく、指名制にしてもいいですよ」
それを聞いた女の子たちが「女子もまぜてもらっていいですよ」などときゃあきゃあ騒いでいた。
頭も顔もよく、しかもあの大伏教授のお墨付きとくればポッキーの一本や二本どうってことはないだろう。
それに女の子が相手なら、適当なところで止めてもらえるからヤロウ同士より安全だ。
そんなことを考えつつ、先生の隣で他人事のようにその光景を眺めていたけど。
「じゃあ、席を立つのも面倒だから、松下君でいいよ」
そんな声が脳に届いた3秒後。
「……へ……??」
俺はひどく鈍い反応を返した。
「手近なところで間に合わせなくてもいいんですよ〜、先生」
そんなことを言うヤツもいたけど、ポッキーはちゃんと俺の前にスタンバイされた。
「いいよ、松下君で。課題を残してるらしいから、これから手間がかかる分は身体で払ってもらうことにした」
先生がえらくイタズラっぽい顔でニコリと笑う。
「じゃ、そーゆーことで〜。松下!」
酔いの回り始めた頭で反論など思いつくはずもない。
「大丈夫?」
先生に身体を支えられて、畳の上に正座させられた。
「ほれ、松下」
渡されたポッキーを口に咥えて、
「センセ、マジっすか……?」
念のため確認したけど。
「みんなが期待してるから、せいぜい焦らしてあげよう」
なぜかそんな返事しか戻ってこなかった。
ヒューヒューと野次が飛び交う居酒屋の座敷で、ポッキーを食う俺とセンセ。
「これって、どこまで食えばいいんですか?」
「みんなのお許しが出るまでじゃないの?」
ポッキーを咥えたままで、もごもごと会話をしてみた。
もともとそんなに長いものでもないから、先生の顔はもうすぐ目の前。
それを意識したら、唾液が出なくなった。
「……のどが渇いて飲み込めないんですけど……」
「じゃあ、そこで止まっててもいいよ。僕がそっちに行くから」
「……来てくれなくてもいいんですけど……」
ポッキー越しに二人で交わす怪しい会話は外野には聞こえない。
「松下君、顔、赤いよ」
「さっきのビールが回ってるんです」
明らかにそれだけじゃないんだけど。
「松下君、意外とノリ悪いなあ」
「ってか、先生、なんか楽しそうに見えるんですけど……」
それに対しての返事はなくて。
「もうちょっとだから、顔、動かしちゃダメだよ」
肩を離れて頬に当てられた先生の手の温度が、また俺の身体の熱を上げた。
「……俺ら、いつ止めてもらえるんですか……?」
このままじゃ、本当にイってしまうよなって。
そんなことを心配してるのも俺だけで。
「いいんじゃないの。別に」
唇間の距離があと3センチくらいになったとき、先生はひとことそう告げて。
笑ったままで残りをパクッと口に入れた。
それから……――――

きゃあ、という声と、口笛と。
異常に上がった体の熱を感じながら、甘く柔らかい感触が唇に広がった。


……でも、俺の記憶はそこで途切れた。






そして、翌朝。
「おはよう、松下君。身体、大丈夫?」
「……ふぁ?」
見たこともない部屋の大きなベッドに裸で寝ていたことは、絶対に誰にも言えない。


                                      -fin-


Home  ◇Novels