<新宿の黒い豹>
この界隈には「中野さん」と呼ばれている黒い猫がいる。
「新宿には黒い豹がいる」と、まるで都市伝説かなにかのように噂されるほど大きな身体なのに、滅多に彼を見かけることはない。
普段どこでどうしているのかは誰も知らない。
自分から人間に近寄ることもない。
孤高という言葉がとてもよく似合っていた。
そんな彼が今日の朝早く、診療所にフラリと現れた。
それも、薄汚れた雑巾のようなものを咥えて。
「中野さん、どうしたんですか?」
差し出されたものを良く見てみると、埃まみれの子猫だった。
「可哀想に。怪我をしてるんですね。すぐ手当てしますから」
彼の口から受け取った毛玉のような子猫を広げたバスタオルの上にそっと置いた。
「よかった。傷はそんなに深くないですよ。これならきっとすぐ治ると思います」
それよりも深刻なのはこの子の栄養状態。
歯の状態から言ってもまるっきり子猫というわけではなさそうなのに、まともに食べていないせいなのか小さい上に酷く痩せている。
汚れを落とし、手当てを済ませた後、小さな体をフリースのブランケットの上に移した。
それから子猫の口に合いそうなものを調達しにいくことにした。
「中野さん、すみませんが僕が戻るまでこの子の様子を見ていてくださいね」
広々としたテーブルの上にちょこんと乗っている毛玉から中野さんはわざと目を逸らしていたけれど、その場を離れる気はなさそうだった。
「じゃあ、行ってきます」
あんな顔をしていてもきっと見ていてくれるだろう。
なんだか微笑ましい気持ちで車を出した。
戻ってきた時、子猫はまだぐっすり眠っていたけれど。
「これ、ヨシくんが連れてきたんかい?」
毎朝顔を出す患者さんたちが興味津々とばかりにテーブルを取り囲んでいた。
「ええ、怪我をしていたので運んできてくれたみたいです。……あ、小宮さん、つついちゃダメですよ」
ちっちゃいなあ、という間延びした声も子猫を起こさないように遠慮がち。
そう言えば、このあたりで子猫など見かけたことがなかったかもしれない。
毛布の中を代わる代わる覗き込んでいる大人たちを眺めながら微笑んだ。
「中野さんの子? それとも弟か妹?」
「さあ、どうなんでしょうね。とりあえず男の子ですけど」
チラリと窓辺に座る彼を見てもまるで聞こえていないかのような顔。
中野さんは人間の言葉がわかるけれど、返事をしたことは一度もなかった。
「ヨシくん、煙草吸うか?」
小宮さんが差し出すと器用に咥えて自分で火をつけ、当然のように煙を吐きながら広げた新聞を読み始める。
「貧相な子猫だねえ。ちゃんと食べてないんじゃないのか?」
「お母さん猫、どれだろうねえ?」
「でも、この辺にそんな微妙な色の猫いないよね」
「汚れてるだけで、本当は違う色なんじゃないの?」
そんな会話が繰り広げられる間も中野さんはずっと知らん顔。並んだ活字を追っているだけだった。
けれど。
「ねー、中野。もうちょっと遅く歩いて欲しいかも」
その日から、中野さんには後ろをちょこちょこついてくる小さくて世話の焼ける連れができた。
「あー、マモルちゃん、また転んじゃったよ。どっか悪いんじゃないの? 骨とかさ」
「でも、レントゲンは大丈夫だったんだよね?」
「そうなんですけど……もしかしたら平衡感覚の問題かもしれませんね。三半規管も調べた方がいいのかな」
窓の下を横切る長いしっぽと、汚れた毛玉のような子猫を微笑みながら見送って。
「うん、まあ難しいことは先生に任せて、俺はマモルちゃんのおやつでも買いに行ってくるかな。中野さんはネコの餌は食べないんだよね?」
「っていうか、何食べたらあんなに大きくなるんかなあ?」
真昼の新宿。
中野さんは滅多に姿を現さないことから『幻の黒い豹』と噂されているけど。
最近、彼を見かける機会が多くなったのは、今までよりも少しだけゆっくり歩くようになったせいなのかもしれない。
end
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