<帰省> -前編-
『夏休みくらいたまには顔を出しなさいね』
そんな一言に誘われて、キリリとした子猫の飼い主が祖父母の家に遊びに行くことになったのはお盆間近の金曜日。
たとえ渋滞していたとしても、それほど時間はかからないような場所。
行くのに気合は必要ありません。
手軽に、そして、ゆっくりと夏を満喫できるだろうと思い、
「猫、連れてっていいなら」
飼い主も軽く承諾をしました。
「……というわけなんだけど、片嶋も一緒に来るよな?」
田舎暮らしに憧れて、退職金で購入したという家は広い庭と長い縁側、ついでに小さいながらも家庭菜園つき。
二人でトマトやきゅうりを収穫し、縁側でビールを飲む楽しい光景を思い描きながら、飼い主は姿勢よく自分を見上げている猫を誘ってみました。
「近所に神社もあるから、今ならちょうど夏祭りも楽しめる」
だから一緒に行こう、と言ってもう一度反応を窺ってみたのですが。
返事はなぜか、
「ご両親はいらっしゃらないんですか?」
そんなものでした。
一緒だと気を遣うから嫌なのか、それとも大勢の方が楽しいという意味なのかは分かりませんでしたが、どちらにしても今年は祖父母だけ。
飼い主は事実だけを手短に説明しました。
「二人揃って旅行に出かけたみたいだから、この夏は来ないんじゃないか?」
その返事に飼い猫はちょっと首をかしげて考え込んでいましたが。
やがて小声で別の質問をしてきました。
「……その間は、ワインは飲めないんですよね?」
しばしの沈黙が流れ、
『アル中:アルコール中毒の略。多量の飲酒に起因する中毒。急性と慢性とがあるが、普通は慢性中毒を―――』
飼い主の脳裏には一瞬そんな文字列も過ぎりましたが。
「あー、ワインはないかな。今頃なら冷酒かビールだ」
気を取り直してそう付け足すと、飼い猫は姿勢を正したまま満足そうな顔で頷いてから、いそいそと旅行カバンに必要なものを詰め込み始めました。
そんな流れで決まった夏休みの予定でしたが、飼い猫は見た目よりずっと楽しみにしていた様子で、準備の間もしっぽが弾んでいました。
「いろいろ調べてみたんですが、手土産はこれとかこれ辺りでどうでしょうか?
もし、お好みに合わなかったら―――」
ネットであれこれと検索し、飼い主の着替えまで揃えてバッグに入れて。
さらに。
「週間天気予報では問題なさそうですが、念のため、天気が崩れないよう、それから渋滞がないようにお祈りしておきましたから」
そんな気配りも忘れませんでした。
そして、当日は。
「疲れたら運転も替わります」
助手席からきりりとした顔で見上げて、そんなことも言ってくれましたが。
いくら自分の飼い猫が世間一般のネコとは比べ物にならないくらい優秀でも、さすがに車の運転は。
―――……足が届かないだろ。
そうは思いながらも、行儀よく座って自分を見つめている猫の気持ちは受け取って、
「大丈夫だよ。片嶋が準備を全部やってくれたから全然疲れてないし」
そんな言葉で楽しい小旅行をスタートさせたのでした。
日頃の行いがよいのか、猫のお願いが効いたのか、車の流れは思っていたよりもずっとスムーズで。
「もう着いたんですか?」
飼い猫が少しがっかりしてしまうほど早く祖父母の家に到着することができました。
「いらっしゃい。疲れたでしょう?」
笑顔で出迎えたのは飼い主の祖母。
上品で穏やかそうな人だと子猫は思い、飼い主の顔と見比べながら、こっそり微笑んでみたりしました。
「意外と早く着いたよ。あ、これが片嶋」
「はじめまして」
紹介された後も子猫はやや緊張した面持ちで飼い主の横に行儀良く座っていましたが。
「あの、桐野さん」
どうやら肝心なことをすっかり忘れてしまったらしい飼い主の足をちょいちょいとつつきました。
「ああ、そうだったな。……これ、片嶋から」
差し出された手土産を見ながら、老婦人は「あらあら」と言って。
「片嶋君も遠慮なんてしないで、今度からは手ぶらで来てちょうだいね。自分の家だと思っていいのよ?」
お手製の猫用スリッパと飼い主用のスリッパを玄関に並べながらにっこり微笑んだのでした。
もちろん子猫はとびきりのよそゆきスマイルで。
「ありがとうございます」
そつなくお礼の言葉を返しました。
-----後編につづく
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