<chapter 8> そんなわけで。
時間を忘れてしまうほど長いキス。
そう思ったのは俺だけで、実はほんの数秒だったのかもしれない。
「水沢……」
唇が離れた瞬間に呼んでみたけれど、返ってきたのは呆れるほどの無表情だった。
見開かれたままの目が俺の瞳孔を捕らえる。
何か言いたそうなのに何も告げない。
そして、視線はそのまま空へ移された。
長くて短くて。
甘くて、柔らかい時間。
それを失うのが惜しくて、また唇を押し当てた。
夕暮れと言うにはまだ早いグラウンドから流れてくる声。
それを聞きながら飽きるほど感触を楽しんで、それから、水沢の身体にかけていた手を緩めた。
「……大丈夫か?」
他には何も思い浮かばなくて気の利かない言葉を投げる。
それと同時に、またどこを見ているのか分からない瞳が向けられた。
俺の心臓は百メートルダッシュ直後と同じくらいに鳴りまくっていたが、頭の中は意外なほど落ち着いていた。
この唐突な行為に対して水沢は何と言うだろう。
その言葉を予測するより早く、さっきまで触れていた唇が目の前で動いた。
「不健全だ。そういうことは女子としろ」
少しだけ眉間にしわを寄せて。
けれど、きわめて真面目な顔で。
「……まあ、そうだけど」
水沢らしいような、らしくないような。微妙な言葉に思わず笑った。
その手の話には徹底的に無関心かつ無反応なのかと思っていたが、多少の認識はあるらしい。
「けど、女の子は普通のリアクションしかしてくれないからな」
それが面白くないと言うつもりはない。ただ、水沢の無反応がツボにはまってしまっただけだ。
だいたい、いかにも「これからします」って態度で手を出しているのに、なんで避けないんだろう。
「水沢」
ためしにもう一度顔を近づけてみたが、やはり立ち尽くしている。
「何だ?」
キスをされ、不健全だと文句を言っておきながら、鼻先10センチまで迫っても普通にそう聞き返す。
「……いいや、なんでもねーよ」
本当にどこまでも水沢は水沢だ。
どういう思考回路なのか全然分からないけど、そんな態度がまたギュッと俺の心臓を掴む。
他の生徒が立ち入らない二人だけの場所。
こんなふうに度の過ぎた悪ふざけをするたび、水沢が1周と45度ズレていることを再認識するけれど。
「……意外と楽しいよな」
「何が」
「サボリも昼寝もタバコも、人気のない屋上も」
―――それから、こんな悪ふざけも……
もちろん、相手が水沢じゃなかったらこれほど気持ちは弾まないのだろうけれど。
「水沢、コンタクトにしてみたら?」
本当にこの目は捨てがたい。
真正面から眺めることができないのはとても惜しいと思う。
あるいは焦点が合ってしまったら意外と普通の瞳なのかもしれないけれど。それならそれでやはり見てみたいと思う。
「メリットは?」
「キスがしやすくなる」
水沢は無表情のまま、
「志野の思考回路は理解不能だな」
そんな言葉を吐いた。
それがなんだか可笑しくて。
「そのセリフ、水沢にだけは言われたくないんだけど」
わずかに寄ったままの眉を見ながら笑ってそう返した。
俺と水沢がめでたく茶飲み友達になった時、今日のことはどんな思い出になっているんだろう。
魔が差したとか、ひどい悪ふざけだとか、ほんのイタズラ心だとか、単なる好奇心だとか。言い訳ならいくらでも思いつくけれど。
あるいは、キスくらい当たり前の関係になってることもあるのだろうか――
その瞬間、ふと我に返って、そんなことを考えてしまう自分に苦笑した。
「まともなつもりだったんだけどな……」
どうやら俺も日々少しずつズレてきているらしい。
水沢のように405度になることはなくても当たり前のように45度認定される日が来るのかもしれない。
他のヤツらにならまだしも水沢とエロ教師にだけは言われたくないものだと思いながら、口元を緩めて空を仰いだ。
「一人で笑うな。気持ち悪い」
平坦な口調でストレートに悪態をついたが、それでも俺は笑ったまま。
「けど、なんか楽しくねーか?」
水沢は今でもライバル兼親友だけど。
「どうでもいいけど、勇吾ちゃん。もうちょっとキスの練習しろよ。いくらなんでも下手過ぎる」
そんな言葉に眉を寄せる仕草さえ本気で可愛いと思った。
だから―――
風の爽やかな午後。
「じゃ、降りるか」
もう一度水沢の手を取って、今この時を謳歌することにした。
それからの日々も相変わらず。
水沢は今でもかなり素っ気ないが、傍から見れば十分親友同士に見えるらしい。本当に不思議なものだ。
「なんか志野って最近ゴキゲン?」
俺の機嫌は傍から見ても上々らしく、そんなことを何度も聞かれるけど。
「まあ、楽しい楽しい高校生活だからな。いろいろあるわけだよ」
いつだって適当な返事と曖昧な笑いで流すだけ。
間違っても水沢との怪しい休憩時間のことを誰かに話したりはしない。
「いいよな、志野は。いつも女に囲まれちゃって」
「おまえも部活したらもっとモテるんじゃないのか?」
俺に色っぽい隠し事があったところで誰も突っ込んだりはしない。
「志野はやりたい放題だもんなぁ」
いつでもその程度で終わりだ。
だが、問題は俺じゃなく水沢で。
「水沢、一番最近キスしたのはいつ?」
男ばかりがざわめく暑苦しい教室の片隅。
級友たちの軽い質問に対して、水沢は本を広げたままこちらを見向きもせずに答えた。
「先々週」
「え?」
「水沢って実は彼女がいたのか?」
「いつの間に?」
居合わせた奴らが一斉に反応して、妙なドヨメキが起こった。
……まあ、当然のことだとは思うが。
「ど、ど、どこの女??」
うろたえる級友たちに囲まれて、水沢はまたしてもサラッと返した。
「彼女じゃない」
こんな返事では事情を知らない者が漏れなく理解に苦しむだろう。
案の定、その後は妙な沈黙が流れて、みながそろっとお互いの顔を見合わせた。
―――彼女でない相手とキス
今の発言をどう受け止めるべきなのか。
しかも水沢に限って冗談ということはない。
おそらくここにいる奴らの脳内では『水沢って意外と遊んでる?』しかも『ムッツリ?』という構図が出来上がったに違いなかった。
だが。
「……えっと、じゃあ、水沢。初めてのちゅーは、いつ?」
やっぱりそんなことを聞く奴がいて。
水沢はまたまた普通に答えを返すのだ。
「その前の週」
「えええっ?」
辺りはまたしてもざわついて皆が落ち着きを失くす中、水沢は一人静かにページをめくった。
きわめていつも通りに。
涼しい顔で。
そして、それを見ながら俺は一人で別のことを考えていた。
――本当にファーストキスだったんだな……
またしても微妙な気持ちがこみ上げる。
だが、それを顔に出すわけにもいかず、いつもよりも若干キリッとした顔で成り行きを見守った。
どよめきはなかなか収まらず、どうなることやらと思っていたら、 隣にいたやつにシャツを引っ張られてこっそり耳打ちされた。
「……な、志野。おまえ、水沢の相手どの子か知らねえ?」
どいつもこいつも直接本人に聞く勇気がないからといって俺に確認するんだが、そんなことに答えられるはずもなく。
「そっか、知らないよな、そうだよな」
「水沢、週三回予備校行ってんだよな? なら、他の学校の子ってセンも有りか?」
結局、休み時間の間中そんな会話が繰り広げられた。
『初めても2回目も相手は俺だ』
そう言ったら一同騒然だろう。
だが、そんな必殺技を今ここで出す必要はない。
「な、どうなんだよ、志野。ちょっとでも何かわからないか?」
どんなに聞かれても、それは俺だけのお楽しみ。
「さあ? 水沢、そういう話はしないからな」
さらりとかわしてライバル兼親友の横顔を見つめた。
「だよなー。けど、なんか分かったらすぐ教えろよ?」
「ああ。いいよ」
嘘と言うのか、秘め事と言うのか。
けれど、それもまた楽しい。
俺のバラ色の高校生活はまだ始まったばかり。
「水沢」
今日も快晴。気温もほどよく、絶好の昼寝日和。
「また、サボってんのかよ。ちょっと姿が見えないといつもここだな」
それでもこの男がトップの座を明け渡すことはない。
本当に不思議な奴だ。
「志野も吸うか?」
平和で長閑な陽だまりの中、差し出されたタバコに笑う。
「俺はともかく水沢はヤバイだろ。バレたら兄貴がクビになるんじゃないのか?」
それでも水沢は少しも表情を変えることなく、新しい煙草に火をつけた。
「おーお、その態度。可愛くないなぁ。じゃ、俺がセンセにバラそうかな……って言ったら、おまえどうする?」
冗談半分で聞いてみても。
「別に」
相変わらず素っ気ない反応だけが戻ってくる。
俺のライバル水沢勇吾は本当に何事にも動じない。
ただし、ちゃんとメガネをかけている時に限るのだが。
寝ている間にそっと顔から取り外して隠したりすると、起きた途端に顔色を変えるのが妙に面白くて、俺の最近のお気に入りになっている。
「副理事長には口止めしたくせに、俺にはしなくていいのか?」
まあ、俺も一緒に吸ってるんだから同罪といってしまえばそれまでだが。
「おまえはしゃべらないだろ」
水沢は当たり前のようにそんな言葉を告げて。
「なんで?」
「そういう趣味はなさそうだ」
やはり当然のようにそう付け足した。
「余裕だな、勇吾ちゃん。そんなに俺を信用していいわけ?」
親友だライバルだと言いながら、突然キスをするような相手。
なのに。
心地よく風が吹く屋上で、水沢はきわめて真顔のまま、
「茶飲み友達になるんだろ?」
ただ、そう言った。
「……そう……だけどな」
辛うじてそんな言葉を返して。
少しくすぐったいような、照れくさいような。
それでいてなんとなく淋しいような、不思議な気持ちで空を見上げた。
白い煙とページをめくる音が静かに流れていく屋上で。
俺たちは今日もライバル兼、親友兼、微妙な関係を続けている。
end
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