45°

forty-five degrees

-7-  
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<chapter 7>  落ちてしまった。


翌日、俺はまたしてもエロエロ教師に捕まった。
「それで?」
廊下を歩いている俺を真正面から呼び止めて、その質問。
「は?」
間抜けな返事をしたのは、昨日のやりとりについてきれいさっぱり忘れ去っていたからだった。
「水沢はしたことあるって?」
ああ、アレのことか。
思い出したのは問われた内容のせいじゃなく、エロ教師の意味ありげな笑みのせいだ。
「……いえ」
警戒しつつ答えると、目の前の男は余裕を見せつつ俺の肩に手を置いた。
「で、志野」
「……まだ何か?」
シャツ越しに伝わる生温かい感触から逃れるため、さりげなく一歩後ずさりする。副理事長という名のホモエロ教師はさりげなく手を退けたけれど。
「してみちゃった?」
見ようによっては爽やかな笑顔と共に投げかけられた質問に眉を寄せる。
「……って?」
なんのことですか……と聞き返す間もなく、俺の脳内は昨日のキスシーンに占領された。
普段ならそれくらいサラッと流すのに、思わず顔に出してしまったらしい。
目の前の唇が先ほどまでの笑みとは違うニュアンスで緩むのが分かった。
教師のくせにそういうネタで生徒をからかうのは間違ってないか?
だが、そんな気持ちも次の瞬間にはサッと消えてしまった。
「勇吾君、メガネを外したら美形だしね。物静かな優等生のお約束って感じがたまらないよね」
「……は?」
メガネを外したら?
空白になる俺の目の前に勝ち誇ったような笑顔が広がった。
「なんだ。メガネしたままやっちゃったのか。それは残念だったね。でも、機会があったら至近距離であの目を見てみるといいよ」
……ってことは、コイツは見たことあるのか?
っつーか、それってどんな状況だ?
まさか、エロエロ大魔王の卑怯な手にかかってしまったのか?
いや、それにしては水沢はあんなだし……
だが、キスした時だって全然いつもと変わらなかったんだ。それはなんの判断基準にもならないのか?
わらわらといろんなものが湧いてくる脳内を整頓させることができずに青くなっていたが、クックッという笑い声で我に返った。
……なんというか、俺はまたしてもこいつの罠にかかってしまったらしい。
返す返すも不覚だ。
「じゃあ、志野。お約束の品」
俺の手を握ったエロエロ教師は、そのついでに屋上へのパスポートを渡した。
……金属の癖になにやら生温いのが気になったが。
「失くさないようにね。それから、頑張って」
もう二度とこんな単純な罠にはかかるまい。
「なんのことだか分かりませんが」
きっぱりとそう告げて、「大きな世話だ」と心の中で叫んでみた。
だが、俺の脳内はしっかりと眼鏡を外した水沢の「あの目」を見たい衝動に取り付かれてしまったのだ。


そして、そのチャンスは何日も経たないうちにやってきた。


部活をサボって図書館の階段を駆け上がると、屋上の真ん中にゴロンと横になっている水沢が目に入った。
いつものように本を枕に、口には煙草。
だが、問題のそれが見当たらなかったのだ。
「……ちーっす、水沢」
声に反応して、水沢が寝転んだまま静かに俺を見上げた。
遮るものなく真っ直ぐに視線を投げつける瞳は切れ長かつ涼しげで、本当に吸い込まれそうだった。
無意識のうちにゴクンと息を呑み込みつつも、なんとか平静を装って会話を続ける。
「……で、勇吾ちゃん。メガネはどうしたよ? おまえに限ってコンタクトにしたなんてことはあるまい?」
そう聞いた時、水沢はやはり無表情だった。
ただ、向けられた視線はあからさまに焦点が合っていなくて、それがまた妙に気持ちの奥をくすぐる。
水沢が親指で指し示した先。積み上げられた本の傍らにレンズのないメガネ。
フレームも少し歪んでいて、たとえレンズが残っていたとしてもかけることはできそうになかった。
「レンズだけなくしたのか? 器用なヤツだな」
「そんなわけないだろ」
勇吾はチラリと冷たい表情を浮かべたが、すぐに俺から視線を外した。
いや、焦点は最初から微妙に合っていなかったので「外した」というのはちょっと違うかもしれないが。
「で、レンズはどこへやったんだよ」
ごく普通に会話をしているものの、俺の目は水沢に釘付けだった。
顔そのものを言うなら、メガネを外したところで印象はさほど変わらない。
だが。

……この目だ。

素っ気ない性格に見合った涼しい目元。
見えないせいなのか、気だるそうに視線を移すのがまたなんとも言えず体の奥を刺激する。
「外して寝ていたら副理事長に踏まれただけだ」
俺の邪心など知ることもなく、水沢は淡々と説明する。
そして、どうでもいいことだが、それはおそらくホモエロ教師の故意だろう。
水沢の素顔を長時間拝むためにわざと踏んだとしか思えない。
「弁償するとは言っていたが、断った」
さらに詳しく聞いてみると「日曜に二人で出かけよう」と誘われたらしい。いくらその手のことには鈍い水沢とて、そりゃあ断るだろう。
「……不運だったな」
メガネを壊されたことではなく、エロエロ教師に気に入られたという事実が最悪だ。
だが、おかげでこうして水沢の素顔をじっくりと眺めることができたわけで、俺としては感謝の気持ちが無きにしもあらず。
なによりエロ教師が言っていた通り、水沢はとても綺麗な目をしていた。
あえて形容するなら「ぱっちりしている」というわけではなく、どちらかと言えば切れ長で、あくまでも涼しい印象だ。
「どうでもいいけど、水沢、なんかボーッとしてんな」
いかにも目が悪そうな、どこを見ているか分からない視線にトキメキが駆け抜ける。
「周囲が見えていないだけだ。……志野、視力は?」
すぐ隣に座った俺の顔を見るのにさえ、眉を寄せるほどの近視。
本人はさぞかし大変だろうけど。
「左右1.5。やめとけよ。無理に見ようとすると目が疲れるんだろ? そのうちに肩も凝るぞ」
眉間のシワを見ている俺の方が疲れそうだ。
それ以上に、見えないままぼんやりしている顔の方が色っぽくていい。
「近眼でもないくせにやけに詳しいな」
焦点を合わせることを諦めた水沢は、また気だるく空を見上げた。
「俺、おまえと違って女付き合いが多いから。よけいなことには詳しいんだ。……なんだよ、その顔は?」
空を見ていたはずなのに、また顔を顰めたので率直に聞き返したら。
「確かに付き合いが多いと情報も多いかもしれないが、そこをあえて『友達付き合い』ではなく『女付き合い』という言葉にする必要はないだろう?」
変なところにツッコミが。
「……そうか?」
その後はしばし沈黙。
思考回路が違うのだから、お互い理解できない部分はある。
けど、それは俺らの友情には何の障害にもならないわけで。
今はそれよりも大事なことがあるだろう。
「それより、水沢。明るいうちに帰った方がいいんじゃねーの?」
焦点の合っていない目で外を歩かれるのはなんだかとても心配だ。
下にはエロエロ教師も水沢に目をつけてる女も、水沢ホモ疑惑でひときわ盛り上がったクラスのヤツらもいる。
さっさと家に帰って予備のメガネをかけて欲しい。
「な、帰れって」
俺が必死だったせいか水沢もそれには納得したらしく、すぐに立ち上がった。
だが。
歩き出そうとした瞬間、下に置かれていた本につまずいた。
「何だよ、水沢って自分の足元が見えないわけ?」
ちょっと待て。本だぞ、本。
確かにコンクリートと同じような色の表紙なんだが、こんなに大きなものが見えないってどうなんだ?
「悪かったな」
「そんなんで家に帰れるのかよ?」
いや、もう心配とかいうレベルじゃない。
ライバル兼親友の俺としては、テストの前に水沢にケガなんてされたら困るのだ。
「俺、自転車通学だから後ろに乗ってけば? 家まで送ってやるって」
「一人で帰れる」
水沢はそう言い張るんだけど、どう考えてもそれは無理だ。
一辺が20センチ以上ある本が見えないのに一人で歩けるはずがない。
「そんなんじゃ校門出るまでに3回は転ぶと思うけどな」
っていうか、屋上から脱出することさえできないだろう。
なのに水沢はいつになく意地を張ってるみたいで。
「余計な世話だ」
ちょっとムッとしてるのがかなり笑えた。
「じゃ、水沢。家までが迷惑なら職員室まで送ってやるよ。兄貴に連れて帰ってもらえ。な?」
そう言って手を差し出したが、それはしっかりと無視された。
水沢はあくまでも強気で無表情。だが、それもいつまで続くのか。
屋上と言えど段差はある。支えなしでは絶対に歩けないはずなのだ。
「じゃあ、まあ、それでもいいけど。気をつけてな、勇吾ちゃん。ここの階段、下は螺旋で微妙に幅が違うから、床に辿り着く前に転げ落ちると思うけど」
俺は事実だけを言ったつもりだが、水沢はまた顔をしかめた。
階段の幅のことまでは分からなくても、どんな造りだったかくらいは記憶しているのだろう。
「それとも子供みたいに一段ずつゆっくり降りてみる? 俺、後ろから見ててやるよ」
言ってる途中でそろそろと一歩ずつ階段を降りる水沢が頭を過ぎってしまい、真顔を保てなくなった。
水沢はしばらくの間、忍び笑いをBGMに考え込んでいたが、やがてくるりとこちらに向き直って俺を見据えた。
どうやら一人で帰るのは諦めたらしい。
「ご理解いただけたところで帰りましょうかね、水沢君。はい、上着持って。かばん持って」
ドアの前に置いてあった荷物を持たせて。
「なんならお姫様だっこで階段降りてやってもいいけど」
鼻先10センチに至近距離で笑ってみたところ、水沢はにわかにムッとした。
「おや、勇吾ちゃん。ご機嫌斜めですね。一人でハイハイして降りますか?」
ニッカリ笑って言い放ったら、さらに不機嫌な顔になった。
出会ってから今日までの間、水沢がこれほど表情を崩したことはない。
「ほら、帰るぞ」
俺は最高に気分よく、水沢の前に手を差し出した。
涼しげな瞳は不機嫌なままだったけれど辛うじて俺の手を取る。長い指と、俺よりもほんの少し冷たい手。
それを感じた瞬間、俺は心の中で「勝利宣言」をして、ついでに落ちてはいけない場所に落下した。


つまり。
Fall in love――――



「水沢」
ただ歩いているだけなのにドアの前の段差が分からず、またしてもつまずく水沢が可愛くて、気付いたら肩を抱いていた。
その瞬間に気だるく向けられる視線はやはり焦点が合っていなくて。
だから。

ブルーグレーのドアに水沢の身体を押し付け、
「水沢の目って、キレイだよな」
それだけ言って返事を待たずに唇を塞いだ。



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