Again


-1-


それは蒸し暑い夏の初め。
教室には文化祭実行委員を押し付けられた俺と久我(くが)の二人きり。
窓を閉め切っていても雨上がりの空気が肌にまとわりつくような夕暮れだった。
「島谷(しまや)、おまえもうちょっと集中してチェックできないのか?」
「もうムリ。こっから先は明日でいいだろ? 結構やったし、俺、友達と約束あるし」
久我の返事も聞かずに勢いよく立ち上がる。
ダメだと言っても無駄だぞという意思表示のつもりだった。
「そうじゃなくても予定より時間がかかって、もう待ち合わせの時間を過ぎそうなんだから」
早口にまくしたてると、久我も諦めたような顔で呟いた。
「仕方ないな。明日は絶対最後まで全部終わらせるぞ?」
どんよりと曇った風景を背に、久我は「さっさと帰れ」と言うように片手で空気を払った。
「じゃ、そういうことで!」
俺と違って今日できることはすぐにやらなければ気が済まない性格だから、遅くなっても予定の所まで片付けたかったのだろう。
それを知りながらも俺は能天気にカバンを掴んで教室を飛び出そうとしていた。
「やること残ってんだから、あんまりハメ外すなよ!」
追いかけてくる久我の声に半分だけ振り返って、
「わかってるって。じゃあな!」
そう答えた。
いつもと同じ、軽い挨拶。

久我との最後の記憶は、そんな平凡で少し退屈な放課後。
だけど、そこにいることが当たり前で。
明日という時間を疑ったことさえなかった頃の話。



「……うわ、眩し……」
俺にはつい昨日のことのように思えるのに、実際は多分もうかなり昔の出来事だ。
不思議とそういう感覚だけはあった。
あの後、俺は待ち合わせの場所へ自転車を走らせ、思い切り事故った。
雲の切れ間に一番星を見つけた気がして、うっかり空を見上げただけなのに。
あっけなく、即死だった。
とりあえず毎日そこそこ楽しくて、少なくともこの世に未練なんてなかったはず。
なのに。
「……なんで今頃幽霊になるかな」
同じ街。
同じ季節。
でも、風景はあちこちが変わっていて、俺の最後の記憶からいったい何年経っているんだろうという疑問と一緒に、無性に寂しさが湧き上がった。
「もうとっくに死んでるくせに『寂しい』なんて言うのも変だけどなぁ……」
幽霊になったと自覚したのは今朝のこと。
まるで突然目覚めたように、視界の中に風景が飛び込んできて、その瞬間にはもう自分に実体がないことも他人からは見えないことも理解していた。
もうここには存在しないはずの自分。
けれど、意識は確かにここにあって、遣る瀬無い気持ちを噛み締めながら取り巻く景色を眺めている。そんな状態に途方に暮れた。
それでもやはり懐かしさを押しやることができず、半日ほどかけて知っている場所をさまよってみたけれど、ホログラムでできた街や人込みの中を歩いているような、そんな感じで、虚無感は募るばかりだった。
自分の住んでいたマンションにも行ってみたが、もう別の建物に変わっていて、家族がどこに住んでいるのかもわからない。
どこにも行き場がないことを悟った後でやっと川辺に腰を下ろしてため息をついた。
これからどうすべきなのかを考えるために。
―――俺、何で幽霊になってしまったんだろう……
意味なんてないのかもしれない。
でも、どこかに何かが引っかかっているような気がしなくもない。
それを探り当てなければいけないのだろうか。
探り当てたら、どうなるのだろうか。
「……とりあえず、心残りになっていそうな事でも考えてみるかな」
何もしないよりはいくらかマシだろう。
まずは今が何年後なのかを確認するため、カレンダーのありそうなところを探しはじめた。
どうせ誰にも見えないのだからどこでもいいと思いながら、入り込んだのは自分が通っていた小学校。
どうやら授業中らしく、夏らしい日差しが降り注ぐ廊下はどこも静まり返っている。
ふと覗いた理科室にも子供の姿はない。
だが、探し物には行き当たった。
黒板の片隅には「7月6日」の文字。
後ろに貼ってあったカレンダーは最後の記憶から20年後。
死んだのは7月7日だから、明日でちょうど20年というわけだ。
これほど長い年月が過ぎていることよりも、その間、自分がどうしていたのかという記憶が一切残っていないことに愕然とした。
「……ったく、いい加減にしろよな」
誰へともなく文句を垂れると、背後でカタン、と小さな音がした。
「誰だ?!」
声なんて出したところで聞こえるはずはないってことをすっかり忘れ、思い切り叫んだその時。
「……ごめんなさい。先生に言わないで」
驚きを含んだ小さな声が聞こえ、振り返ると準備室へ通じるドアの隙間から、クリッとした目がこちらを窺っていた。
何年生だろうとか、授業はどうしたんだろうとか。
そんなことを思う前に、浮かんだ言葉を口にしていた。
「……久我?」
男の子はびっくりした表情を見せた後、おそるおそる問い返してきた。
「どうして? 名札……外してきたのに」
その返事に今度は俺が驚いた。
問われたことに言葉を返すのさえすっかり忘れて、気がつくと少し早口で次の質問を投げていた。
「俺の声聞こえるのか?」
午前中一杯、どこへ行っても誰も俺には気付かなかった。
人込みに入り込んでもみんな身体を抜けていく。
話しかけても振り向いたヤツなんていなかった。
なのに。
「……うん。なんで?」
男の子はそう言うと、とても不思議そうに目を丸くした。
どういうことなのだろう。
霊感が強い子なんだろうか。
「お兄ちゃん、誰か待ってるの? あ、それ、見たことある」
不審者かもしれないなんて少しも思わないんだろう。
パタパタと足音をたてて俺の目の前まで走ってきて、シャツの胸ポケットの刺繍を指さした。
年は10歳くらいだろうか。
『実は幽霊なんだ』と自己紹介したら何と答えるだろう。
いや、それよりも。
「……君のお父さん、『久我史人(ふみと)』って名前じゃない?」
目元が良く似ている。
驚いた時の表情も。
じっと何かを見る時に少し首を傾げる癖も。
「おとうさんのこと知ってるの?」
やっぱりそうなのかと思ったら、突然キュッと胸が締め付けられた。
久我ももう父親なのだ。
当たり前だ。
二十年も経っているんだから。
他のヤツらだってみんなもう家庭を持っているだろう。
「……昔、ちょっとね」
過ぎた歳月の重みをようやく理解して、同時に言いようのない寂しさに襲われた。


久我とは幼なじみだった。
中一から高二までずっと同じクラスで、誰よりも多くの時間を過ごした一番の友達だった。
でも、それを話せばこの子は混乱するだろう。
久我は今37だ。
俺とは見た目が違いすぎる。
「ふうん。そっかぁ。じゃあ、お兄ちゃんはお父さんの生徒?……でも、制服違うよね?」
小さな声で呟いて首をかしげる。
そんな仕草さえ懐かしい面影に重なっていく。
「お父さんは学校の先生なのか?」
「うん、そう。あそこの」
指を差したのはすぐ近くにある私立の名門校。
「……アイツ、頭良かったもんな」
ポツリと呟いた一言はこの子には聞こえなかったのだろう。
「あ、自習で教室抜け出して忘れ物取りにきたんだった。早く戻らなきゃ」
慌てた様子で時計を見上げ、それから、「先生には内緒にして」と真剣な面持ちで念を押した。
「うん、もちろん言わないよ。俺も黙ってここに入ってきたんだし」
そう約束すると安心しきった顔で人懐こい笑みを返した。
「じゃあね!」
弾んだ声が静かな空間に響き、また寂しさが過ぎる。
本当はもっといろいろなことを聞きたかった。
久我がどんな女性と結婚して、家族は何人で、家ではどんな話をするのか。
どんな大人になったのか。
今、幸せなのか。
何でもいい。
ただ、一つでも多くを知りたかった。



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