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物思いに耽っていると、視界を小さな影が横切ろうとした。
両手でノートを抱えたまま戸口を目指したようだが、よほど急いでいたのか一歩踏み出した瞬間に椅子に躓いてしまった。
「あっ……!」
見開いた瞳。
投げ出されるノート。
倒れこむ体。
危ない、と思うのと同時に手を差し出していた。
もちろん条件反射だった。
だが、すぐに迂闊な行為だったと気付かされた。
「ぅ……あ……」
放り出してしまったノートを拾い上げることもなく、膝をついたままこちらを見上げた顔は吐き出す言葉さえ失っていた。
当然だ。確かに掴まったはずの手をすり抜けてしまったのだから。
ましてやこんな小さな子だ。どれほどのショックを受けただろう。
「……ごめん。俺、実は……幽霊なんだ」
頷くことも逃げ出すこともできずに固まっている男の子にもう一度「ごめんね」と謝ったあと、居たたまれない気持ちでその場を去った。
どんな表情をしていたのか、振り返ることはできなかった。
さっきまで自分が普通に話していた相手が実は何年も前に死んだ人間だったなんて、恐怖以外の何ものでもない。
生徒は立ち入り禁止になっている屋上に逃げ出し、空を仰ぐ。
「『何の害もないから大丈夫だよ』って言っとけばよかった」
トラウマにならなければいいけれど、と思いながら、夕方までそこで時間を潰した。
―――久我に会いに行こうか……
勤め先はすぐ近くだ。今なら仕事が終わる時間に十分間に合う。
父親から「大丈夫だ」と言ってもらえば、あの子だってきっと安心するだろう。
もしかしたら授業をしている久我の姿が見られるかもしれない。
そこまで考えた時、嫌な現実に思い当たった。
あの子に見えたからといって、久我本人に俺の姿が見えるとは限らない。
この子以外の人間が全部そうだったように、声すら聞こえないかもしれないのだ。
不意に絶望的な気持ちに襲われた。
ビリビリと紙切れを破くかのように、存在しない自分の身体が裂けていくような気がした。
下校時刻に校門の近くにある木の上で出てくる生徒たちを待った。
あの子がまだ恐怖に震えていたとしても自分がしてやれることなど限られている。
せいぜい「心配いらないから」と伝えられる程度だ。
急に現れてまた同じように怖がらせてしまわなければいいけれど。
心臓なんてないのに、自分の中で嫌な鼓動が響いているような気がする。
幽霊になっても俺はバカなんだなとため息をついたのだって、そんなことでも考えていなければ落ち着かなかったからだ。
けれど。
「久我も俺んち来るだろ?」
「あー、今日はダメなんだ」
あの子は昼間のことなどすっかり忘れたかのような楽しそうな様子で友達と話しながら校舎を出てきた。
「なんかあんの?」
「行くとこあるから」
「塾の日だっけ?」
「ううん、えっと……ちょっと買い物頼まれてんだ。時間かかりそうだから」
「しょうがねーな」
ごく普通に話をし、「じゃあな」と明るい声で手を振ってみんなと反対方向に歩き出す。
そんな様子にホッとしたのも束の間、一人で歩きながらチラチラと後ろを振り返っていた少年は、友人たちが角を曲がるとすぐに踵を返し、走って学校に戻っていった。
渡り廊下で靴を脱ぎ、靴下のまま駆け込んだ先はあの理科室。
――……あの後、慌てて飛び出してノートを置いてきてしまったんだろうか。
そんなに怖がらせてしまったのかと思うとまた気が滅入る。
久我にそっくりな、アイツの子供。
嫌な思いなどさせるつもりはなかったのに。
軽率だったと溜め息をつきつつこっそり後を追うと、誰もいない教室で天井や壁に向かって呼びかける姿があった。
「幽霊さん、幽霊さん。……もういなくなっちゃったのかなぁ」
真剣そのものだった顔に落胆の色が浮かぶ。
ふうっと深いため息をついた後、ちょこんと椅子に座り込んでしまった。
うなだれた後ろ姿はやっぱり久我と重なる。
心の底から安堵するのと同時に、少しだけ笑みがこぼれた。
「もしかして、俺のこと探してる?」
前に回って顔を除きこむと、小さく「わっ!」と声を上げたが、俺を確認するとすぐにパッと明るい表情になった。
「よかった。もう帰っちゃったかと思った」
こぼれそうな笑いを見下ろしながら、ふと過ぎったのはゾクリとするほどの寂寥感。
―――帰る場所なんて、もうないんだよ
けれど、この子にそれを言っても嫌な思いをさせるだけだ。
吐き出したい気持ちをグッと堪え、やっとのことで別の言葉に摩り替えた。
「俺もまた会えて嬉しいよ」
引き寄せることはできなくても座ることはできるんだな。
隣の椅子に腰を下ろしながら何となくそんなことを考えた。
ならば、電車やバスにも乗れるのかもしれない。
もしも俺に明日という時間があるなら、通っていた高校にも行ってみようか。
そうすれば、もしかしたら未練の理由が―――
「幽霊さん?」
少しの間ぼんやりしてしまったのだろう。
心配そうな顔がこちらを窺っていた。
「ああ、ごめん、ごめん。ちょっと考え事しちゃったよ」
「むずかしいこと?」
「あー……いや、明日はどこ行こうかなって思っただけ」
「明日も休みなの?」と無邪気な問いが返って、わずかに苦笑する。
幽霊に休みも何もあったもんじゃないが、「いいなぁ」と呟く顔は本当にうらやましそうだ。
「いいだろー。夏休みでもないのに好きなところ行けるんだぞ」
生きている頃なら、用もないのに小学生と会話をしようなんて思わなかっただろう。
けれど、誰の目にも映らなくなってしまった今はこんな些細なことが心底嬉しい。
久我の子ならば、なおさらだ。
「な、変なこと聞くけど、幽霊ってよく見る? 家の人はどう?」
「ううん。生まれてはじめて。もしかしてすごい?」
夏だからなのかな、とか。七夕が近いせいかな、とか。
あれこれ考える間もクルクルと表情が変わる。
子供の頃の久我はもう少し落ち着きがあったような気がするが、それでもここまで似ていると思わず微笑んでしまう。
「今日、帰ったらおとうさんに話そうっと。びっくりするかなぁ」
話し好きなのは母親似だろうか。
きっと明るくて可愛らしい女性なんだろう。そんな結論に辿り着いた時、何故だかギュッと胸が痛んだ。
「でもさー、あんまり見えたらちょっと怖いよなぁ。お兄ちゃんみたいならいいけど、悪いヤツもいそうだもんな。そういうの見ちゃったらどうすればいいのかなぁ」
「まあ、そうだなぁ……でも、俺だって普通の幽霊なんだけど」
怖くないのかと問うと、得意気に「ぜんぜん!」という返事があった。
「さっき、教室出たあとで思い出したんだ。うちにお父さんと幽霊さんが一緒に写ってる写真あるんだよ」
父親のアルバムそのものを見ることはあまりないけれど、一枚だけ毎年見る写真があって、そこに写っている俺と久我は制服の胸に黄色いリボンをつけているらしい。
―――今の俺と同じように。
「お父さん、毎年その写真と花持ってお参り行くんだ。七夕の日だよ」
黄色いリボンは文化祭の実行委員のもの。
それは久我と一緒に撮った最後の写真だった。
「それから、七夕はいつも一緒に短冊にお願い事するんだ。たくさん書くけど、一つはいつも『大事な友達ともう一度会えますように』なんだよ」
言えなかったことも、伝えたいこともたくさんあるからって。
この子に毎年同じことを話して聞かせるらしい。
「ぼくの自慢もするって言ってた」
「ああ、こんないい子だもんな。自慢して当然だ」
「そっかな?」
にっこりと見上げる笑顔に手を伸ばしそうになって。
でも、そのままポケットに戻した。
「明日もきっとお墓参りいくよ。学校休みだったらいっしょに行けたのに」
「お父さんだって仕事あるだろ?」
仮にも教師なのだ。そんな理由で休んでいいはずがない。
近ければ昼休みに抜けることもできるが、そんな時間で往復できる距離でないことだけは確かだ。
でも、屈託のない笑顔は思い切り首を振った。
「お父さんの学校、七夕の日は休みなんだ。だからそこに決めたんだって言ってたもん」
「……本当に?」
「うん」
どうしてなんだろう。
俺の事故はどこを取っても全部自分のせいで、久我とは何の関係もない。
約束をしていた相手は中学の時の友達だったし、久我とケンカをしていたわけでもない。
ごく普通に授業を受け、一緒に昼飯を食べて、夕方「じゃあな」と言って別れた。
それだけのありふれた一日だった。
何かが掴めそうで、けれど、見つけてしまったら全てが終わりそうで。
それが怖くて、考えるのを止めた。
窓の外は湿った夏の夕暮れ。
下校の時間を知らせる音楽が鳴り始め、それまで行儀よく座っていた男の子はガタンと大きな音を立てて椅子を引いた。
「お母さんに買い物頼まれたんだった!」
とても重大なミスをしてしまったかのように慌てて足元に置いていた体操着入れを掴む。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
今日はありがとう、と礼を言うと、嬉しそうな笑顔が戻ってきた。
足音が遠のき、静まり返った理科室。
子供の頃はやけに高く感じたテーブルに腰を下ろした。
黄色いリボン。二人で撮った写真。
つい最近のような、とても昔のような。
不思議な気持ちに囚われながら、懐かしさとは違う痛みが胸にたまっていく。
「……なんで律儀に毎年墓参りなんてしてるんだろうな」
流れた月日はもう二十年。
久我と一緒に過ごした時間よりも、ずっと長いことに気付いた。
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