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翌日は嫌になるほど夏らしい陽気で、なぜかいっそう気分が滅入った。
「……よりによって晴天かよ」
呟いてみたところで、温度を感じることも汗を流すこともない。
それでも「暑苦しい」と思うのは、記憶に支配されているせいだろうか。
熱を持ったアスファルトの匂い、ジリと肌を焼く陽射し。
すべてを昨日のことのように覚えている。
「ってか、何時に行けば久我に会えるんだ？」
あの子に聞いておけばよかった。
「昔から肝心なところが抜けているんだよな、俺」
何にしても早いに越したことはない。
スーツや制服で溢れかえる駅の構内を抜け、ホームへと急いだ。


祖父の命日に無理矢理家族に連れられていったという記憶しかない寺は、電車で３０分ほどの距離にある。
中心部から外に向かって進む列車はラッシュとは無縁ののんびりした空気で満たされていて、誰とも触れることなく立っていると、自分が幽霊だということさえ忘れそうになった。
窓の外を流れる夏の景色は時間と共に緑の割合が増えていく。
目的の駅でまばらな人影に交じって降車したが、記憶とは違ってずいぶんと現代的になっていた。
交番の前にある地図で寺がそう遠くないことを確認したあと、ゆっくりと歩き出した。
駅に向かう人と何度かすれ違い、時折りわざと止められている車や塀を通り抜けながら、幾分小さく感じられた門の前で足を止めた。
「……ここか」
大きな木立がくっきりと影を落し、そこだけがやけに涼しげに映る。
逸る気持ちを抑えながら、深呼吸を一つ吐いたが、門をくぐった途端、立ち眩みのような感覚が抜け、慌てて背筋を伸ばした。
このまま成仏できるなら、そのほうがいいのだろう。
でも、せっかくここまで来たのだから、せめてチラリと久我を見る猶予くらい欲しいと思った。
たとえ久我の目に自分が映らなかったとしても―――


人気のない境内。
空を仰げば生い茂った緑の間から降り注ぐセミの声。
鬱陶しいほどのそれが、やけに良い物に思えて目を閉じた。
一度大きく息を吐き、また空を仰いで。
そのあとで本当はもう呼吸などしていないという事実に行き当たって自分に呆れた。
「俺って、ホントにバカ」
苦笑しながら、水を打ったばかりの石畳の上を歩く。
あと少しで自分の残骸が眠る場所。
「なんか、変な感じ……」
けれど、こみ上げる乾いた笑いは、並んだ墓石の間に背の高い人影を見つけた瞬間に消えた。


高校の時と変わらないようなラフな恰好で、手には小さなひまわりの花束。
まるで風景の一片のように静かにそこに佇んでいた。
俺の声が聞こえるだろうか。
「……久我！」
叫んだ時は半信半疑だった。
けれど、振り向いた瞳はまっすぐに俺を捉えた。
「島……谷……？」
驚きを隠せない表情で。
けれど、ひどく懐かしそうに。
「……そうか……今日、七夕……なんだよな」
付け足されたのはそんな言葉。
どこか呆然としたままの口元は、やがて少しだけ微笑んだ。

サッと風が通り抜ける。
一瞬、何かが繋がって、それからプツリと途切れた。
目の前にぼんやりと広がったのは、夕暮れの教室。
じゃあな、というありきたりな別れの挨拶のあとに続きがあったことを不意に思い出したのだ。
『……島谷！』
呼び止められてすっかり振り返った久我は何か言いたげな顔をしていた。
ちょうど今みたいに。
少しだけ唇を緩めて。
でも、結局あとに続いた言葉は『なんでもない』だったっけ―――

記憶を辿りながら、久我の傍らに立つ。
その間もほんの少しの足音さえ立てることのない身体だけれど、久我の目にちゃんと映っているなら、それだけでいいと思った。
「久しぶりだな、久我。元気だったか？」
気の利かない挨拶をした時、戻ってきたのは戸惑いを含んだ声。
「夕べ……子供が学校でおまえに会ったって……その時は『まさか』って思ったんだ」
照れたような笑みの後は、少し困った様子で視線を逸らす。
本当は幽霊になった俺になど会いたくなかったということなのだろうか。
そんな気持ちも過ぎったけれど。
「俺……おっさんになってて驚いたろ？」
その小さな呟きはなんだかやけに久我らしくて。
可笑しいって思ったはずなのに、胸は苦しくなった。
「いや、そうでもなかったよ」
笑い方も、話し方も。
泣きたくなるほどぜんぜん変わってなくて。
二十年という月日の長さを測り直してしまいそうになる。
「島谷は……あの時のまんまだな」
視線を落とした手元には定期入れより少し大きいケース。
それがあの子の言っていた写真なんだろう。
もう随分色褪せて、鮮やかな黄色だったはずのリボンはすっかり白っぽくなっていた。
「……そりゃあ、死んでるんだから」
そんな言葉とともに、諦めに似た気持ちが抜けていく。
自分にとってはつい昨日のことでも、久我の中では二十年が流れているのだ。
写真と同じようにもうすべてがすっかり褪せているだろう。
冗談めかして笑った自分の声が少しずつ薄れていくのを感じながら次の言葉を捜したけれど、こんな時に限って何も出てこなくて。
ふっと久我の顔を見上げた時、同じように困惑した視線にぶつかった。
「島谷に話そうと思ってたことも沢山あったはずなのに……いざとなると何にも出てこないもんだな。……ああ、そうだ。今おまえが着てる高校の制服、随分前だけどデザイン変わったんだぞ」
「……へえ、そう」
俺に残された時間はあとどれくらいなんだろう。
久我は、今日のことをどう思うだろうか。
来年も同じように墓参りに来てくれるんだろうか。
世間話の間にいろんな問いが浮かんで消えていった。
「……子供、おまえにそっくりだな。ちょっと笑った」
「ああ、よく言われる」
懐かしい笑顔。
あの頃、自分の中に隠していたものが何だったのか、気づいた時にはもう触れることさえできなくなっていた。
それから。
のんびりと思い出に浸る時間が与えられていないことも感じていた。

もう少し。
あと少しでいいから―――

搾り出すように心の中で繰り返すけれど。
タイムリミットを告げるように、熱を持った風はサッと身体を通り抜けていった。
「悪い……俺、もう行かないと」
そう言ったくせに立ち去ることもできなくて、ただ半歩だけ足を引いた。
「行くって―――」
どこへ、と尋ねられても答えられない。
俺自身にも分からない自分の行く先。
「……今度ゆっくり話そう……次回がいつになるのか分かんないけど」
二十年経って幽霊になった今でもやっぱり言えないんだな、と。
心の中で少し笑いながら。
「ああ……待ってるよ。その時、俺がジジイになってても引くなよ」
「せいぜいカッコイイじーちゃんになっとけよ」
天国なのか、来世なのか。
でも、いつかまた会えるなら、その時は言ってしまおう。
ずっとしまいこんでいた気持ちを全部。
「じゃあ、また」
「……ああ。またな、島谷」

風に誘われるように目を遣った垣根の向こう。
軒下で笹の葉と短冊が揺れていた。

もしも叶うのなら。
いつかもう一度コイツとこうして向かい合えますように―――

薄れていく意識の中。
最後に残ったのは、眩しそうに空を見上げる久我の笑顔と、
降り注ぐセミの声。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　〜　fin　〜