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毎年のことだが、七夕が近づくにつれて久我のそわそわは酷くなる。
学校にいてもそれは同じ。
「心ここに在らず」とはまさにこのことだ。
作業をするヤツと通行人であふれかえる東校舎二階の廊下。
大きな窓にドデカい案内を仮貼りしている俺の斜め前で、久我は針金を叩いて伸ばしていたが、ぼんやりしたかと思うと急に立ち上がったりするので一緒にいるとこっちまで恥ずかしい。
「おまえ、いい加減に現実見て生活しろよ」
「あー……けどなー、島谷さんが来てるかもしれないって思うとなんか落ち着かないっていうかぁ」
「心配するな。少なくともおまえのところには来ねぇよ」
「うあ、なんかムカつく」
こんな話も今年で三度目。
最初は中学の時で、俺が後輩に告られたのをきっかけにあれこれ言い合っているうちにお互いの好きな相手の話になった。
その時の久我の答えが「島谷さんって名前で幽霊なんだ」。
怪談でも始める気なのかと思ったが、表情は真剣そのもの。
「大丈夫かコイツ」と本気で心配したが、すぐに慣れた。
というより、すでに久我を好きになってしまったかもしれないという自覚があったから、受け入れざるを得なかったというのが正しい。
以後、久我は堂々と俺に幽霊氏の話をするようになり、俺もそれを利用した。
「いざって時に失敗しないよう少し慣れておいたほうがいい」なんて理由をつけて久我をベッドに連れ込んだのもその一つ。
幽霊氏の名前を出せば簡単に騙せてしまう。
この弱点を他のヤツに知られたら……なんて、ちょっと考えただけでイライラしてしかたないが、幸い今のところ俺以外の人間には秘密にしているらしい。
「久我、あんまりボケッとしてて自分の指に釘打ったりすんなよ」
「それは大丈夫。ぼーっとしてる間は手も休んでるから」
「ぜんぜん大丈夫じゃねぇよ。サクサク働け」
二人でいる時間が長くなって、何度も家に泊まりにきて、同じ部屋で眠って。
抱いたら俺を意識するんじゃないか、何度もこうしているうちに好きになってくれるんじゃないか、なんて思ってた頃もあった。
結局、久我はただ寂しがりやなだけで俺らの間は普通の友達だった頃と何も変わっていない。
「あっ、今、下に島谷さんがいたっ!?」
「嘘つくんじゃねぇよ。ホントにおまえは……」
わざとらしいため息をつきながら周囲に目を遣る。
周年行事の関係で例年より早く開催されることになった文化祭を二日後に控え、放課後はどこのクラスも準備で大騒ぎだ。
実行委員が黄色いリボンをつけて走り回っている。
「室川ぁ、もうちょい右っ」
「あー、こんくらい?」
「じゃなくて左だった。わりィ」
「『わりィ』じゃねぇよ。しっかり指示しろっつーの」
二階の窓枠に腰掛け、言われた通りに貼り直す。
「おお、久我。ちょうどいいとこに来た。そっちやって。ここアーチ状にして人が通れるようにすっから」
「今から変えんのかよー?」
いつの間に下に降りたのか、久我が大声で叫んでいるのが目に入った。
「室川、こんど隣りの窓。ちょい右だって。おーい、室川、聞こえてんのかぁ?」
「あ?……ああ、わり」
「おまえだって『わり』とか言って―――あっ」
俺を手伝おうと窓枠に身を乗り出したヤツのパンツのポケットから工具が飛び出した。
「バカっ、何やって―――」
下には何人も生徒が突っ立っていたはず。
まっすぐ落下したら確実に誰かの頭に当たる。
ハッとした時、目に飛び込んできたのは久我の姿だった。
「よけろ、久我っ!!」
笑ったままの顔が俺を見上げた。
コマ送りのようにゆっくりと流れる時間。
やけに現実離れした空気を感じながら、咄嗟に手を伸ばして銀色の金属を掴んだまではよかったのに。
「室川っ!!」
体勢を崩して自分が落下するハメになるとは思わなかった。
さっきまで腰かけていた窓が遠くなっていく。
頭からゆっくりと落下しながら。
俺はこのまま死ぬのかなと思った。
だったら一度くらい好きって言っておけばよかった、とか。
いや、やっぱり告らなくて正解だったんだ、とか。
一瞬の間にあれこれ考えたけど。
その次の瞬間には面倒になってしまって目を閉じた。
でも。
意識が別の場所に向かう途中、いきなり何かに思いっきり突き飛ばされた。
ドンッという音は自分の心臓辺りから。
ハッとして顔を上げると、飛び込んできたのはどこか懐かしい感じの制服。
それと、胸ポケットにつけられた黄色い印。
「実行委員? おまえ、何組の―――」
言葉の代わりに笑顔が返る。
少し色褪せたリボンが鮮明に脳裏に焼きついた。
やけに爽やかな気分で大きく息を吸った。
寝すぎで背中が痛いと思いながら瞼を持ち上げると、そこに久我の顔があった。
「室川っ……バカっ、心配させんじゃねーよ、バカ、バーカ、バカっっ」
涙でぐちゃぐちゃになった顔が「バカ」ばっかり何十回も繰り返す。
「……悪ぃ」
傍らには北海道に行ってたはずの母親。
ほっとした表情で「よかった」と言うと、「看護師さんに知らせてくる」と言って部屋を出た。
「窓から落ちたんだよ。覚えてる?」
久我の後ろの椅子に座っていた姉貴は少し涙ぐんでいた。
「だいたい二階から落っこちたくらいで五日も意識不明ってかっこわりぃぞっ」
「そう、か。……そうだな」
その後も久我はまた何十回も「バカ」ばっかりを泣きながら言い続け、面会終了時間に看護師に慰められながら追い出された。
「あんた、愛されてんのねぇ」
久我が帰ると姉が急におかしそうに笑いはじめた。
「……まあね」
文化祭だというのに久我は学校へも行かずにベッドに張り付いていたと聞いて、「おまえのほうがバカだ」と言ってやりたくなった。
「高校生の子があんなにわんわん泣くの初めて見たなぁ。ホント、大きな体してるくせに子供なんだから」
そういえば看護師も微妙な笑いとともに久我を見ていた。
180近くある男が大口を開けて泣く姿はやはりビジュアル的に厳しかったのかもしれない。
しかも、言うことといったら「バカ」ばっかりで、幼稚園児のケンカ並みだ。
「先生はもう大丈夫じゃないかっておっしゃってたけど、念のため明日詳しく検査して―――」
姉の説明を聞くまでもなく、寝すぎで節々が痛い以外はいたって普通の状態だった。
二階から落ちたとは思えないほどまったくの無傷で、なのに意識だけなくしていたらしい。
目撃者の話によると、頭から落下した俺は自分で校舎の壁を蹴って体勢を立て直したらしい。くるりと回って華麗に足から着地したという。
ただ、回転した勢いが残っていたせいでそのまま地面に転がり、アーチの材料に頭をぶつけたのがいけなかったらしい。
残念ながら記憶は少しも残ってないので、実際どうなのかは分からない。
「久我君にちゃんとお礼言っておきなよ? お小遣いあげるから、お昼にアイスくらい買ってやって?」
「あいつに餌やるとテンション上がって暑苦しいんだけど」
「あんなに心配してもらって普通そういうこと言う?」
他にも友達は大勢来たが、泣いていたのは久我だけだったらしい。
「死んだわけでもないのに大げさだって」
「いい子じゃない。見た目は軽薄そうなのに」
「それ、褒めてねーだろ」
ふと蘇ったのは突き飛ばされた時のこと。
心臓を直接押されたような奇妙な感じだった。
圧迫感とか痛みとかそういうものは全くなくて、ただふっと自分の中に何かが戻ったような気がした。
自分以外は止まっているように見える現実味のない空間に、ひらりと揺れる黄色いリボン。
俺たちとは少しだけ違う制服。
少し日に焼けた肌に控えめな笑顔。
久我にも話してやろうかと思ったけど。
「……あいつ、信じられないくらいバカだからな」
話した瞬間に「俺も!」なんて二階から飛び降りたら困るので、自分の中だけに大事にしまっておくことにした。
その後はいくつか検査があり、退院したのは二日後。
学校へ戻ったのはさらに二日後。
ちょうど七夕の日だった。
「あっちー。死ぬ。てか、なんともなくて良かったよなぁ」
さすがにクラス中が大騒ぎで、休み時間のたびにあれこれと聞かれた。
そのうち同じ話を何度もするのが面倒になり、昼には久我と二人で教室を抜け出した。
行き先は旧校舎の隅にある空き部室。
「こっちのほうが涼しいよなぁ。なんで使わないんだろ?」
適当に積まれたダンボールの間、申し訳なさそうに置かれている机に座って弁当を広げた。
「ただ単にボロいからじゃないのか?」
俺らのようにここに逃げ込んでくるヤツが他にもいるんだろう。
机の周辺だけはキレイにほこりが拭き取られていて、ゴミ箱にはパンの袋が入っていた。
「つか、おまえの弁当、なんか気合いを感じるよなぁ。入院明けだからか?」
フタを開けた途端、久我が羨ましそうな視線を飛ばした。
「たぶんな。おふくろまだこっちにいるのに姉貴まで手伝ってて……あと一歩でキャラ弁にされることだった」
「いーじゃん、のりとかでおにぎりに顔書いてあるやつ。一回食ってみてぇ。俺んち、幼稚園の時も普通の弁当だったんだよなぁ。隣の子がさー、いっつもすっげカワイイの食ってて、いいなーって毎日思ってたんだけど、弁当作ってんのオヤジだったし――」
例年七夕の時期は梅雨も開けてないのが普通で、俺の記憶では曇りか雨ばかりだけど。
窓の外にはやけに夏らしい空が広がっていた。
「なあ、久我」
「あー?」
「おまえんちのオヤジ、今日墓参り行った?」
「おー、行った行った。張り切って出かけたから、学校始まるくらいの時間にはもう着いてたんじゃねーかな」
朝っぱらからやけに若作りをしていたと言いながら眉を寄せる。
「ぜってー島谷さんに会ってるよなぁ」
あんなに泣いてたくせにまだ幽霊のほうがいいって言うのかよ……と愚痴りそうになったけど。
よくよく思い返してみたら、「島谷さんのほうがいい」なんて台詞は聞いたことがなかった。
どっちが好きかと聞いたら何て答えるんだろう。
そんなバカな考えも過ぎったが、さっくり「島谷さん」と言われたら本当にバカらしいのでやめておいた。
「まあ、別にいいんじゃねえの。オヤジさんが楽しそうなら」
ときおり不意に思い出す、あの瞬間。
薄いシャツ越し。
俺を押し戻した手は決して冷たくはなくて。
何より悔しいことに、ちょっと男前だったから。
「なんだよ、おまえオヤジの味方かよ」
「そりゃあな」
久我の初恋の相手と同い年になった夏。
ベッドにしがみついて「バカ」と言い続けたこいつの顔を思い浮かべながら、心のどこかで祈ってみる。
「なに笑ってんだよ?」
「いや、なんでもない」
制服姿の幽霊氏が、束の間の逢瀬を楽しめますように……と。
〜fin〜
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