明日は晴れる





いつもの道を歩いて、いつもの電車を待つ。
天気も良くて、風も爽やかだ。
けど、死ぬほど寝不足の目にはその全部がかすんで見えた。
「……ふああ」
さっきからアクビが止まらない。
両親が祖母の家に行っているのをいいことに、ハメを外して深夜番組を見過ぎたのだ。

ぼんやりしたまま電車に乗ると、後ろからむぎゅうっと押された。
ラッシュと言うのはそれだけで疲れるものだ。
一番後ろの車両に乗っている俺は隅の窪みにギュッと収まっていた。
しかも、壁の方を向いて頭を凭せ掛けて半眠り状態。
油断も隙もありまくり。
そんな俺のすぐ後ろで、もぞもぞと他人の体が動く。
混雑極まりないのでいい加減ぴったり密着している。
シャツに制服のズボン姿の俺に後ろの人の体温が伝わってくるほどだった。
背中を向けているのでどんな人かは分からないが、俺の頭上に顔があることと、細身で良い感じに筋肉が付いていることが分かった。
なんとなくシャンプーの匂いがする。
ミント系の爽やかな香りだ。
少なくとも脂ぎったオヤジじゃない。それは本当に良かった。
近くにいてOKなのは、できれば同じくらいの女の子で、次はOLのお姉様。
ガキはうるさいからイヤだ。
男でも構わないけど、オヤジはカンベンして欲しい。
などと考えていると、何やら変な感じが。
コイツ、俺の腰に手を回してないか……?
チラリと視線を落とすと、腹の辺りには確かに男の腕が。
どう見ても背中から抱き締められている恰好だった。
もう一度その手を凝視する。
意外にもキレイな指だった。
けど、男だってことに変わりはない。
結婚指輪はしていない。
冷静に観察した後、クルッと顔だけで振り返って「俺、男なんだけど」と言った。
でも、その直後に「あっ」と思った。
「知ってるよ。おはよ、水原」
「なんだ、先生かぁ。朝から冗談キツイよ。焦ったじゃん」
緊張が解けて一気に脱力した。
「だって毎朝同じ車両に乗ってんのに、水原、ぜんぜん気づかないしさ。いつかやってやろうって決めてたんだよ」
「絶対チカンだって思ったよ〜……もう」
「俺はそのつもりだよ。じゃなきゃ後ろから抱き締めたりしないって」
先生は笑いながら俺を自分と向かい合わせに立たせた。
でも、電車はさっきよりずっと混んでいて、もう先生と俺の間に隙間はない。
先生の腕が俺の背中に回った。
「チカン気分満喫。水原、抱き心地いいなあ」
「センセ、いくら俺でも怒るよ」
周囲の人には聞こえているに違いない。
幸いみんなこちらに背を向けて立っているから、じろじろ見られるようなことはなかったけど。
先生はコロンか何かをつけているんだろう。
くっつくとやっぱりミント系の香りがした。
「水原、くすぐったいって」
首筋に鼻をつけてクンクンしている俺の耳元に先生の声が響く。
遠慮して小さな声で喋っているが、朝のラッシュ時はみんな無言だ。
俺達の会話は相当あやしく聞こえているに違いない。
誤解されないように、なんとか身体を離そうとしたけれど、今は一番込み合う区間。
生半可な状態ではなく、すぐに押し戻されてしまう。
「無理しなくていいよ」
俺を抱く腕に力がこもったような気がした。
そこで初めて、ぎゅうぎゅうの状態と言うのは案外いいものだということに気付いた。
特にこんな風に前にいるのが先生で、安心していられる時は。
このまま寄りかかって眠ってもぜんぜん大丈夫そうだ。
カラダに力なんて入れなくても倒れることもない。
「水原?」
安心感がたっぷりとありすぎたせいで、俺は立ったまま眠ってしまった。
先生の声は聞こえていたが、目は開かなかった。


「水原、起きろ。着いたぞ」
起こされた時はもうそれほど人は乗ってなかった。
なのにどうして倒れなかったかと言うと、もちろん先生が支えてくれてたからだ。
電車の壁に寄りかかって、片腕で俺を抱えて。
「具合でも悪いのか?」
心配そうに見下ろしている先生に向かって、俺は寝ぼけ眼のまま首を振った。
「……眠いだけだよ」
「バカなやつだな。しっかりしろ。恥ずかしいだろ」
先生は苦笑しながら俺を立たせると、肩からズリ落ちていたカバンを手渡した。



その日から、同じ電車の同じ車両で、同じように先生に寄りかかりながら通学するようになった。
他愛もない話をして、ときどきは眠ってしまったりもして……。
「水原、俺、明日は研修会なんだ」
「朝早いの?」
「今日の夜から。泊りがけ」
「そっかあ……」
いきなり憂鬱になった。
このところずっと先生と一緒だったから満員電車も結構楽しかったのに。
「やだなぁ……俺、先生と一緒がいいよ〜」
正直に不平を言ったら先生がそっと抱き締めた。
「俺も水原と一緒がいいけどな」
その瞬間、ドキンと心臓が鳴った。自分でもびっくりするほど大きな音だった。
胸の奥がギュッと絞られるような、変な感じだった。


翌朝、俺は気合を入れて電車に乗りこんだ。
むぎゅっと押し込まれてよろけながら隅を目指す。
すぐ後ろは太ったオヤジでなんとなく湿っぽかったり――気のせいかもしれないけど――、そういうのも久々で、なんだかどっと疲れが出た。
やっと隅っこまで辿りついて、ふうっとため息を吐いた時、俺の下半身に何かが当たった。
もみっ……という独特の感触に鳥肌が立つ。
チラリと肩越しに振り返ると、ナナメ後ろに立っているオタクっぽいサラリーマンが俺を見てニヤニヤ笑っている。
「今日は彼氏お休みなの?」
耳元でそんなことをつぶやいた。
その間もごつごつした手が俺の身体を撫で回す。
吐きそうなくらい気持ち悪い。
思いっきり寒気がして、無言でその手を払いのけた。
「彼氏にはいつもやってもらってるんだろう? なあ、どこが感じるの?」
顔を近づけられて、思わず叫んだ。
「ベタベタ触るんじゃねーよっ!」
ついでに力任せに足を踏んづけた。
この勢いで殴ってやろうと思った時、電車は駅に到着し、そいつは人ごみに紛れてこそこそと降りていった。
「ムカつくっ……」
どやどやと乗りこんでくる人の波に向かって、ピリピリと不機嫌を撒き散らす俺の後方から、聞き覚えのある声がした。
「水原、大丈夫か?」
「センセ??」
雪崩れ込む人の流れに乗って、先生は俺のすぐ脇まで辿り着いた。
「研修会は?」
「昨日の夜終わって……。今朝、会場の宿泊施設から直接来たんだよ。一駅前から乗っていたんだけど、なかなか近づけなくてさ」
笑う先生を見ているうちに、安堵感が押し寄せてきた。
本当にホッとして、同時に体の力が抜けた。
「……疲れた」
よしよしと言いながら、大きな手が頭を撫でる。
「アイツ、本物のチカンだろ?」
「そうだよ。すっげーやなやつだった。モロ、触りやがって……」
宥めてくれる先生の手は今日もキレイで優しくて、ふんわりと温かい。
「先生のこと彼氏だと思ってたよ」
どんな顔をするだろうと思ったのに。
先生は能天気に笑った。
「ん? 俺はそれでもいいよ」
「そーゆーこと言ってちゃダメだろ?」
高校教師っていうのは、こんなでいいんだろうか。
それよりも。
チカンが言ってた。
『彼氏にはいつもやってもらってるんだろう』って。
それって、何を?
まさか、チカンごっこじゃないよな。
……あとで先生に聞いてみようかな。
チラッと視線を上げると目の前で、先生が笑ってた。
そんな顔を見ていると、溶けてしまいそうな気がするのは何故なんだろう。
先生はカッコいい。男子校だけど、とても人気がある。
だから、こうやって先生と同じ電車でくることがちょっと自慢だった。
もちろん誰にも同じ車両でピッタリくっついて乗っているなんてことは言ってない。
先生と二人でいられるこの時間が楽しくて、朝も早起きするようになった。
学校へ行くのがこんなに楽しくなったのも、たぶん、このせいだ。
先生のことが好きなのかもしれない、なんてことも考えたりする。
どんなにカッコよくても、優しくても、やっぱりそれはダメだろうって思うのに。
なのに、気がつくと頭の中がちょっとヤバくなっている。
満員電車の中で、このままちょっと上を向いて背伸びをすれば先生の唇に届くのにとか、そんな想像が広がってしまうのだ。
「どうした、水原。俺の口、そんなに魅力的か?」
いつのまにかぼんやりと先生の口許を見ていた。
「え? あ? いえ、そーゆーことでは……」
焦るのはかえってあやしいだろ、俺。
「キスとか憧れる年頃だからな。して欲しかったら俺に言えばいつでもしてやるぞ」
先生が笑いながら俺の顎に手をかける。
「電車の中はマズイよっ……」
「他でしてくれってことか?」
「え、あ、ちが……う……けど……」
違わないかも……
今、一瞬、先生とのキスシーンが過ぎった。
どうしよう。本当に末期症状だ。
そんな気持ちが思わずため息になる。
「なんだ、水原、キスしたいコでもいるのか? 話してみろよ。いくらでも相談に乗るぞ」
『好きな子』と言われて、思い浮かんだのも先生の顔。
「じゃあさ、センセ」
「なんだ?」
俺は無意識のうちに唾を飲み込んだ。
ゴクリと音がして、ちょっと恥ずかしかった。
「あのさ、俺にキスの仕方、教えてよ」
「え?」
「……ダメなら、いいけど」
さすがにそれ以上は言えずに引いてしまった。
恥ずかしくて顔が火照った。
冗談だって流して欲しいと思った。
でも。
「っていうか、いいのか。それ?」
先生は俺の顔を覗き込んで笑った。
「……駄目なんだろ? 先生なんだからさ」
「ん……それは、まあ、置いとくとして。水原はホントに俺が相手でもいいのか? 教えるために実際やってみせるなんてことになったらどうする?」
「いいよ。俺、先生に教えて欲しい」
怪しさ全開の会話をしながら電車に揺られる。
もう誰に聞かれてもいいとさえ思った。
「んー……じゃあ、とりあえず放課後、俺の研究室に来いよ」
うん、と思いっきり頷いたが、妙に喉が渇いて声にならなかった。



放課後。
部活もさぼって走って先生のところに行った。けど、研究室には鍵がかかっていた。
冗談だったのか、忘れちゃったのか。
がっかりして立ち去ろうとした時、先生が反対側から歩いてきた。
「お、早いな」
「忘れられたのかと思った〜」
「そーんな楽しいこと、忘れるわけないだろう? とにかく入れよ」
先生は抱えてきたテストの束を机に置いて、鍵をかけた。
念のためと言ってカーテンも閉めた。
それから、研究室の奥にある資料室に俺を手招きし、さらにそのドアに鍵をかけた。
「水原が来るっていうから、資料室まで片付けたんだぞ」
確かに、いつもは乱雑な資料室が見違えるようにキレイになっている。
「ムードは大切だから、な?」
そう言うと俺をピッカピカに拭かれた机の上に座らせた。
先生と同じ目線の高さになって、またドキッとする。
「ここまで厳重に閉め切ったんだから、途中で邪魔されたりもしないだろうし」
先生は俺の隣で机に寄りかかる。
「で。水原、おまえの好きな子って誰なんだ? 西高の子か?」
西高はすぐ近くの女子校。かわいい子が多いって言われてる。
「違うよ」
「じゃあ、中学のときのクラスメイトとか?」
俺は黙って首を振る。
「どんな子か分かってた方が教えやすいんだけどな。まあ、高校生なら軽いキスの方がいいんだろうけど」
「……年上なんだ」
「大学生か?」
俺はまた首を振った。
「社会人なのか? 水原、見かけによらずおませなんだな」
マセてるっていうかさ……
先生はまさか自分の事だとは思っていない。
「先生なら、どんなキスがいい?」
「う〜ん……そうだなぁ……」
先生が俺の真隣で俺の顔を見る。
その距離、およそ15センチ。
「水原とするなら、こんなやつ」
そのまま先生の顔が近づいてきた。
トクンッと心臓が鼓動を強めた。少し、震えているのが自分でもわかった。
微笑んだ先生の口元がゆっくりと俺の唇に触れた。
優しくて、柔らかくて、温かい。
ふわりと一瞬それを感じた後、そっと離れていった。
「……水原、キス、何度目?」
唇が震えていたことに気付かれてしまったんだ。
そう思ったら、知らないうちに顔が赤くなった。
「……二度目」
中学のとき、同じクラスの女の子に「キスして」と言われて、したことがあった。
でも、こんなにドキドキしなかった。
「最初はいつ?」
「中学2年のとき」
「ずいぶん前なんだな」
先生がまた笑った。
「どう? 久しぶりのキスは?」
「……なんか、苦しい」
先生の顔がまともに見られなかった。
「じゃあ、続きはムリかな。今度は本当に息ができないようなの、って思ってるんだけど」
驚いて顔を上げた瞬間、抱きすくめられた。
「……水原……」
先生の大きな手が俺の頭を押さえた。
それから、唇が近づいてきた。
「……センセ……」
ドキドキした。
心臓の音が外に聞こえるほど。
「目、閉じろよ」
また笑われて、もっとドキドキした。
でも、言われたとおり目を閉じようとした時、校内放送が響いた。
『長谷川先生、至急職員室にお越し下さい』
「え? 俺?」
こんな風に呼び出される時はたいてい緊急事態だ。
「……ったく……いいところなのに」
先生は本当に残念そうにつぶやくと、俺の髪から手を離した。
「仕方ない。また今度な」
「……うん」
ドキドキがピタリと止まって、シューッと熱が萎んでいく。
ぽっかり穴が開いたような不思議な気持ちだった。
……まあ、いいか。
明日も電車は一緒だし。
溜息をつきながら、資料室を見回した。
それからカバンを持って、誰にも見つからないように部屋を出た。
「じゃあ、またな、水原」
「うん」
自分を慰めつつ先生を見送ってから、大きな溜め息をつく。
――あと、5秒あれば。
なんだか気持ちのやり場がなくて、意味もなく走って校門を出て。
それから、家に着くまでの間、ずっとそのことばかり考えていた。



いつもより早くベッドの中にもぐりこむ。
そっと触れた唇を思い出す。
眠れなくて、何度も深呼吸した。
小さな音でMDをかけた。
いつもならすぐ眠れるのに、今日はぜんぜんダメだった。
『また、ちゃんとしたキスを教えてよ』
明日、電車でそう言おう。
できれば、すぐに約束をもらおう。
先生の気が変わらないうちに。



明け方にやっと眠った俺はそのせいで思いきり寝坊した。
だから先生と同じ電車には乗れなかった。
こんな日に限って先生の授業もない。
ヘコんだまま一日を過ごし、やっとの思いで授業をやり過ごし、家に帰るべくとぼとぼと廊下を歩く。
今頃、先生の研究室には3年生がたむろしているに違いない。
どんなに頑張ってもその中に入っていくことはできそうにないし。
しかも明日は土曜日で学校は休み。
先生にも会えない。
このまま擦れ違って、うやむやになって、キスの事なんてどうでもよくなって。
「きっと、もうダメだよな……」
そこまで落ち込むことなんてないはずなのに。
気持ちが痛い。
我慢できないほど。
「あ〜あ……」
がっくりと肩を落として靴箱を開けた。
その拍子にひらりと舞い落ちたものがあった。
水色の小さなメモ用紙に綺麗な文字。
名前はなかった。
けど。
『月曜は寝坊するなよ』


走って家に帰った。
それからすぐに宿題をして、ご飯を食べて、シャワーを浴びて、10時にベッドに入った。
「あら、珍しいわね。テレビはいいの?」
母さんの声も通りすぎる。
このペースなら月曜は絶対寝坊なんかしない。

いつもと同じ電車。一駅過ぎたら先生が乗ってくる。
いつもみたいに、「おはよう、水原」って微笑んで。
どんどん混んでいく電車で、よろけると先生が抱き止めてくれて――
そんなことを考えはじめたら、またドキドキして。
「……やっぱダメだ」
今夜も全然眠れそうにない。



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