明日は晴れる
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決心の月曜日。
俺はあんまり眠れないまま家を出た。
金曜に眠れなかったせいですっかりペースが狂って、昨日もやっぱりほとんど寝られなかった。
でも、今日はちゃんと電車に乗らないと。
先生との約束だから。
……俺が勝手にそう思ってるだけなんだけど。

駅にはいつもより早く着いたけど、一本見送っていつもの電車に乗った。
今日は選択科目の日で、先生の化学がある。
2年生と合同の科目だから俺も最初は緊張してたけど、最近はみんな仲良くなって授業も実験も面白くて仕方ない。
何より先生の声がたくさん聞けて、ずっと先生を見ていてもちっとも変じゃなくて。
だから、それだけで気持ちは弾んでいた。
先生が乗ってくる駅が近づいてくるとだんだんドキドキしてきた。
顔、赤くないか?
俺、変じゃないか?
二つ外していたシャツのボタンを一つだけ止めて、タイを緩く結んだ。
学校の先生なんだから、だらしないのは嫌いかもしれない。
そう思ったからだ。
プシュッと音がして、ドアが開く。
この駅からはメチャクチャ混むから、前はすごく憂鬱だったのにな。
流れ込んでくる人の中に先生を見つけた。
ちゃんと無事にここまで辿り着いてくれるのか、毎朝心配しながらその様子を見守る。
ダメそうなら俺が動いて先生のところまで行かなきゃいけないからだ。
でも、先生はいつもちゃんと俺のところまで来てくれる。
「おはよう、水原」
いつもの笑顔を見上げると、胸が鳴った。
「えへへ。よかった」
先生が俺の前に立つ。
カバンを持ちかえた後、大きな手がそっと俺の腰に回った。
まだギュウギュウには押されていないけど、いつもより距離が近い気がする。
壁際にある先生の手が腰から上に移動して背中に回ると、ドキドキしながらも胸に顔を埋めた。
朝っぱらからって思ったけど。
いつものミントの香りを嗅いだらドキドキが消えて、なんだか眠たくなってきた。
この間の続き、約束しなきゃならないのに。
「水原? また寝てんのか?」
笑ったような先生の声が頭上で消えた。


すっかり身体を預けて爆睡した俺を先生は駅に着くまでしっかりと支えていてくれた。
「水原、着いたぞ」
「うわっ……」
ダメじゃん、俺。ぜんぜん話もしてない。
今頃気付いたって遅いんだけど。
「こら、ボーッとするな」
促されて慌てて電車を降りた。
「昨日遊びすぎたのか?」
「違うよ。なんか寝られなくて……」
「昨日はそんなに暑くなかっただろ?」
「暑いせいじゃなくて。今日は絶対寝坊しないようにって思ったら、なんかさぁ」
そう答えたら先生がにこっと笑った。
「メモ、見てくれたのか?」
「うん」
俺と先生、二人だけの秘密。
「すぐに先生だってわかったよ」
先生も喜んでくれると思ったのに。
なんでか困ったような顔でフイッと目を逸らせた。
「……水原。今日、校庭整備の日だから夕方の部活は休みだろう?」
「うん」
いきなりそんな話をして。
なんだろうと思ってたら。
「じゃあ、空いてる?」
ちょっといい予感。
だから元気よく返事をした。
「うんっ、あいてるっ!」
それは、もしかして?
「この間の続き?」
先生はにっこり笑っただけだった。
でも、それって「うん」ってことだよな?
「また研究室に行けばいいの?」
駅のホームで堂々と立ち話。
なのに、俺の声は思いっきり弾んでいた。
うちの学校の生徒は自転車かバス通学が多くて、この駅にはあんまりいないからいいんだけど。
「そうだな。授業の後、こっそり鍵を渡すから後片付けを手伝うって言えよ」
「うん。手伝う」
「バカ、授業の後で言うんだよ」
先生が俺の頭をくちゃくちゃに混ぜながら笑った。


早く授業が終わらないかとそわそわして一日を過ごした。
だから、最後の授業で先生の声を聞いたら緩んでしまったんだ。
「水原。こら。寝るんじゃない」
パコンと丸めた紙で頭を叩かれて、顔を上げた。
先生が苦笑いしてた。
授業の真っ只中なのに、俺は机に突っ伏して寝ていたらしい。
しかも一番前の席で堂々と。
「……ごめんなさい」
慌てて姿勢を正したが、みんなに爆笑された。
先生、怒ってないといいけど。
ダメだな、今日の俺。ボーッとしすぎだ。
放課後の約束、キャンセルされたらどうしよう。
心配になって、その後はキリキリ張り切って準備と後片付けと質問をした。
「そうだな。水原。いいところに気がついた。今の実験で……」
誉められてやっと安心した。
先生が俺の顔を見てちょっとだけ笑ったような気がしたからだ。


授業が終わると同時に勢いよく席を立った。
「センセ、俺、手伝います〜っ!」
そしたら他のヤツらまで手伝うって言い出して。
結局、二人きりにはなれなかった。
ちゃんと鍵を渡してもらえるのか心配で、またそわそわする俺。
「水原、ペン貸して」
先生が俺のペンケースを勝手に開けてマーカーペンを取り出した。
何をするんだろうと思って見てたら、張り紙を作り始めた。
『資料室の整理のため閉室します』
みんなが面白がってそれに色をつけている間に、先生はもう一度俺のペンケースを開けて鍵を入れた。
「授業の後すぐは3年生が押しかけるからな。4時くらいになったら片付け始めるつもりなんだ」
何気なく俺に話しかける。
それは4時に来いってことだよね?
俺は目で「わかった」と合図をした。
それまで図書館で宿題をしよう。
教室に戻るとダッシュで帰り支度。
大半の運動部は部活が休みだから、みんな遊びにいく気満々で。
誰かに誘われないうちにカバンに宿題のある科目の教科書だけを投げ込んで教室を飛び出した。
「水原〜っ、どこ行くんだよ?」
悪いとは思ったけど、友達の声は聞こえないフリをした。
それにしても間一髪。


図書館で息を切らしているのは俺だけだった。
なんとなく恥ずかしくて書庫の奥の方に隠れていたら、選択授業が一緒の宇野先輩に声を掛けられた。
「水原、なに息切らしてんの?」
「教室から走ってきたから……」
先生のファンなのか、先輩もいつも後片付けを手伝う一人だった。
「そんなに急いで図書館に来る生徒なんていないよ」
そんなことを言いながら、にこやかに笑う。
一つしか違わないのに先輩は大人っぽい。
「うん。そうなんだけど。……宿題やろうと思って」
「何の宿題?」
「古文」
まだ息が整っていなかったから、できるだけ短く答えた。
「そう。いつも図書館で勉強してるの?」
そもそも語学はあんまり得意じゃない。
だから、早く終わらせたかったのに。
先輩はずっと話し続けていた。
「あの、俺、宿題……」
「その顔だと古文は苦手なのかな?」
「……うん」
俺の顔見ただけで分かるなんてすごい。
それに限らず、先輩は頭が良さそうだ。
なんで初級の化学教室なんて選択しているんだろう。
やっぱり先生のファンか。
じゃあ、ライバルじゃん。
って思ったけど。
「教えてあげるよ。古文、わりと得意だから」
「ほんと?」
……ライバルなのに懐いてしまった。
だって、早く終わらせないと4時になってしまうから、今日だけは仕方ない。


得意と言うだけあって、先輩は分かりやすくポイントを教えてくれた。
古文の先生もこういう風に教えてくれればいいのに。
おかげで宿題はあっという間に片付いた。
「ありがとうございました」
ぺこっと頭を下げるとまた微笑まれた。
4時までにはまだ少しある。
このままここで本でも読んでから行けばいい。
そう思ったのに。
「ね、水原はなんで長谷川先生の授業取ったの?」
突然そんなことを聞かれてちょっと困った。
だって、最初は理由なんかなかったんだ。
一番人気の授業だって聞いて、受けてみたいと思っただけで。
「理系がよかったから」
先着順だっていう噂も流れて、俺は初日に申し込んだ。
けど、実際は抽選で、俺は無事に先生のクラスになれたんだけど。
「先生のファンだったからじゃなくて?」
「え? あ〜……先生も好きだけど」
本当のことを言うと選択授業が始まるまで、長谷川先生を保健の先生だと思っていた。
入学式の日に俺の隣りに立っていたヤツが倒れて保健室まで連れていったら、先生が白衣を着て座ってたんだ。
「だから、絶対そうだって信じてて」
先輩にそう話したら笑われた。
そんな話をするくらいだから、先輩は絶対先生のファンなんだって思ったけど。
ストレートにそう尋ねると、意外にも返事は「違うよ」だった。
「教え方も上手いし、いい先生だと思うけどね」
「じゃあ、化学が好きだから?」
それにも首を振った。
じゃないとするなら、逆に苦手だからなのかと思ったけど、
「キライじゃないけど」
あっさりそう言われてしまった。
俺にはその他の理由なんて思い浮かばなかった。
「じゃあ、なんで?」
急に興味が湧いて真剣に聞いた。
先輩はまたクスッと大人っぽく笑って、俺の目を見た。
「……好きな子が申し込んだって聞いて」
「好きな子?」
好きな子って言っても。
……うちは男子校だ。
当たり前だけど、男しかいない。
「そうなんだ……」
こんな時、なんて言っていいのかわからない。
でも、俺も「先生が好き」って誰かに話したら、同じように思われるんだろう。
ちょっと複雑な感じだ。
それにしても先輩の好きな人って誰なんだろう。
俺たちと同じクラスなんだろうか。
でも、もしかしたら抽選に外れて他のクラスを取ったかもしれない。
「水原」
「は?」
考え事をしてたせいで、気の抜けた返事をしてしまった。
「僕も保健室にいたんだよ。入学式の日」
「へ?」
こんどはちゃんと聞いていたけど、やっぱり変な答えになった。
「水原が駆け込んできた時、先生の手伝いをしてたんだ」
「あー……」
そうだっけ?
保健室に他にも誰かいただろうか。
全く覚えてなかった。
保健室に駆け込んだ瞬間から長谷川先生しか目に入らなくなってたんだろう。
高校の先生ってカッコいいんだなって思って。
倒れた友達のこともすっかり俺の頭から消え去ったくらい。
『寝不足かな。貧血みたいだけど』
先生の穏やかな声がまだ耳に残ってる気がする。
あの後も先生に会いたくて何度も保健室を覗いたんだ。
けど、座っているのはいつも違う先生で、がっかりして帰ったっけ。
当たり前だ。
保健の先生じゃなかったんだから。
5月になって選択授業が始まるまで、ずっとそんなことをしてた。
同じ電車だって知ったのも、それより後だ。
「……覚えてないよね。あの日、水原、必死だったから」
先輩の声で我に返った。
「うあっ、4時だ! 俺、もう帰らなきゃ。ありがと、先輩。またね」
先輩はまだ何か言いたそうにしていたけど、笑って手を振ってくれた。



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