明日は晴れる
-5-




髪に絡んでいた先生の指先がスルリと下りてきて俺の首筋を抑えた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
先生がどんなに優しくそう言っても、俺の心臓が落ち着くわけじゃない。
「でもさ、どうやったら緊張しなくて済むのかわかんないよ」
先生が苦笑いするのを見て、しまったと思った。
なんで、俺、こんなことしか言えないんだろう。
大丈夫って言えば良かったのに。
無意識のうちに顔が赤くなった。
「水原、ホントに緊張しすぎだって」
コクンと頷いてそのまま俯いた。
そんなこと言われても、どうすればいいのかわからないよ。
「……ごめんなさい、俺……」
先生はその返事に優しい微笑みを見せた。
「なんで謝ってんだ?」
柔らかい声が身体の奥をくすぐった。
「ほら、大丈夫だから力を抜いて」
緊張を解す優しいキス。甘い感情が押し寄せる。
先生が微笑みながら髪を撫でる。
その仕草はとても自然で。
こういうのも慣れてるんだ……
当然だけど。変に気になった。
今まで先生が付き合ってきた相手と比べられたくないと思ったから。
子供だと思われたくなかったから。
「どうした、水原?」
また涙が出そうになる。
「嫌なら、そう言えよ?」
そうじゃない。
俺は慌てて首を振った。
「なら、恐いのか?」
そうかもしれない。
本当の気持ちは自分でもわからない。
黙っていたら、先生が少し淋しそうに笑った。
何度も俺の髪を撫でて。
「……俺な、本当は水原の事、好きになっちゃいけないって何度も思ったんだよ」
そんなことを言うから。
なんだか本当に泣きたくなってきて、先生にしがみついた。
「……けどさ、好きになっちゃったものはしょうがないよな」
先生は独り言のつもりだったみたいだけど、俺は「うん」って返事をした。
だってさ。
俺もそう思ったから。



結局、キスの続きはお預けで、ビデオを3本も借りてきてそれをずっと見てた。
夕飯を食べた後に最後の一本を見ながら、ちょっとだけ先生のワインをもらった。
「酔っ払うなよ?」
「大丈夫だよ。家でもいつも父さんに飲ませてもらうんだ」
「でも、内緒だぞ?」
「分かってるって」
広めのソファに先生と二人。
最初はちょっと離れて座っていたけど、長い映画の3分の1くらいのところで、先生に抱き寄せられた。
「センセ?」
「俺、もう飽きてきたよ」
先生は笑いながら、頬にキスをした。
「もう、見ないの?」
「残りは明日、な」
片手で俺を抱いたままビデオを止めた。
「そういうことで」
「なに?」
「キスの続き」
俺が言葉を返す前に、唇が触れた。
いつもとおんなじように復習からだと思っていたら、いきなり長い長いキスをされた。
「ん、」
苦しくなってきても、先生は腕を緩めてくれなかった。
なのに。
ソファの背凭れに俺を押し付けている先生の体の重みが、痺れるくらい気持ちよく感じた。
「……ん、センセ」
どんどん体温が上がっていく。
そのままゆっくりとソファに体を倒された。
先生が動くたびに擦りつけられるパジャマが敏感になった肌をビリビリと刺激した。
「水原、大丈夫か?」
吐息と共に名前を呼ばれて、自分の体が反応していくのを感じた。
「ん、気持ち、いい……」
先生の手が俺のパジャマを捲り上げて、中に滑り込む。
手はお腹の辺りを少し往復して、そのまま上に上がった。
胸の突起に触れられた時、体がビクンと跳ねた。
「あ、」
先生の顔を見ようとしたけれど、焦点が定まらない。
指はまだそこを離れなくて、時折、爪が先端を引っ掻く。
「……なに?」
問いかける唇を塞がれた。
「ん……っ」
舌先が差し込まれて目を見開いたら、少しだけ唇が離れた。
「口、開けて。水原も、同じようにして」
落ち着いた声。
でも、なんだか先生じゃないみたいだった。
躊躇っていたら、もう一度同じ言葉が降ってきた。
「水原、口、開けて」
言われるままに先生を受け入れて、舌を絡めた。
体が熱くて堪らなかった。
舌先に神経が集中している時に、手が突起を抓む。
「ふ……あ、」
顔を背けて唇を離すと「ダメだよ」と頬を抑えられた。
先生の唇が首筋を降りて、捲り上げられた胸元に移動する。
「やっ……」
指で弾かれて敏感になった突起を口に含まれた時、思わず先生を押し退けた。
「水原?」
目を開けると、先生が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
いつもの先生の顔だった。
「……ダメ、そんなことされたら、息、できないよ」
先生は今までで一番困った顔をして、俺を抱き起こした。
「そうか。息、できないんじゃ、な」
しばらく間があって、先生はクスクスと笑い出した。
「笑うことないじゃん。子供扱いしてさ」
そんなつもりじゃないよって言ってくれると思ったのに。
「子供だからなぁ」
って。
「息ができないから子供なの?」
「そう。ちゃんとできるようになったら報告しろよ」
そんなことまで言われて。
「じゃ、おやすみ。水原」
その場で布団を掛けられた。
先生は立ち上がって自分のベッドに腰掛けた。
「先生、ベッドで寝るの?」
「ベッドがいいなら替わってやるぞ?」
……そういう意味じゃないんだけどな。
ゆったりとベッドから俺を見ている先生がなんだか遠く感じて、俺は急に淋しくなった。
「もうちょっと話とかしたいよ、俺」
ダダをこねてるみたいだと自分でも思ったけど。
「いいよ、水原。せっかくのお泊まり保育だもんな」
保育……ってさ。
俺、幼稚園児じゃないんだけど。
「それって酷くない??」
子供扱いっていうのも通り越してるよ。
ムクれる俺の顔を見ながら、先生は笑いを堪えていた。
「じゃあ、こっちに来いよ」
クスクス笑ったまま、俺をベッドに座らせた。
もう一度、キス。
少し深いキス。
そのまま体を倒されて、もっと深いキス。
これじゃ、さっきとおんなじだ。
俺、話がしたいって言ったのに。
「ん、んんんっ、」
キスは嫌じゃないんだけど。
苦しいのは、ちょっとなぁ……
「なんだ、息、できないってか?」
そう言いながら、先生はほんの少しだけ唇を離した。
「……できないっ」
俺は必死なのに、先生はそれからずっと笑い転げていた。
「なぁ、センセってば」
「そんなに緊張しなくても、キスしかしないって」
「そんなこと分かってるけどさ」
そう返事をしたら、また笑われて。
「俺、おかしいことなんか一個も言ってないと思うんだけど」
「ん〜? そうだな」
曖昧な返事だけして、俺の髪を撫でた。
そのまま抱き寄せられて、先生の腕に頭を乗せられて。
「……『そんなこと分かってる』って言われてもなぁ」
先生の独り言は溜息付きだった。
その返事の何がダメだったんだろう??
それより、これって腕枕じゃん。
先生の顔がすぐ近くにある。
「……じゃあ、学校の話でもするか?」
「うん」
こんな近くじゃ話をするだけでもドキドキしそうだった。
「これから先は全部英語で話すって、どうだ?」
「……やめてよ。寝れなくなるじゃん」
先生はいつもわりとニコニコしてるけど、今日は本当にずっと笑いっぱなしだった。
「先生、楽しそうだよね」
「ん〜? 楽しいからな」
「でも、笑いすぎだよ」
怒ったのに。はぐらかされた。
「水原は楽しくないのか?」
「俺はドキドキだよ。外泊だってあんまりしたことないのにさ」
そしたら、ギュッと抱き締められた。
「俺だってドキドキだよ。水原がわかってくれないだけで」
そんなことを言われて、俺はちょっと困ってしまった。
けど。
「センセ、嘘ばっか」
だって、声が笑ってるじゃん。
俺より一回り大きな先生の体は暖かくて、心地よくて、俺はいつの間にか眠ってしまった。



目覚めたのはわりと朝早くで、時計を見たらまだ6時半だった。
その後、自分の状況に青ざめた。
俺の頭がまだ先生の腕の上にあった。
「うわっ、ごめんなさ……」
そう言って身体を離そうとしたけど、にっこり微笑む先生に再び引き寄せられた。
「ごめんって思ってるなら、もっとこっちに来てくれよ」
抱き寄せられると心臓が鳴る。
優しいキスが何度も降りてくる。
髪を梳く指が心地よくて、俺はまた眠りに誘われた。
「せっかくの日曜なんだから、もう少し寝ていようよ。な?」
先生もそう言ってくれるんだし……何よりもベッドの中は気持ちよかった。
俺はもう一度目を閉じた。
優しく微笑む先生の顔が瞼に浮かんだ。
学校にいる時とはやっぱりちょっと違う。
ちょっと友達みたいで、でも、俺なんかぜんぜん届かないくらい大人で……
先生、きっと俺に合わせてくれてるんだろうな……
そう考えたら、ちょっと淋しい気持ちになった。
「何考えてるんだ? 難しい顔して」
「え、あ、別に……」
見られちゃったんだ。
「慌てるってことは俺に聞かれたくないことなんだ?」
冗談なんだろうけど、少し心配そうに顔を覗き込んだ。
「もしかして、苦しいからもうやだなぁ……なんて思ってる?」
「えっ? ち、違うよ」
自分が急速に赤くなるのを感じた。
友達とならシモネタだって全然オッケーだけど、今の自分の気持ちを聞かれているとなるとたとえキスでも話は別だ。
返事を躊躇っていたら誤解された。
「俺は先生かもしれないけど、嫌なことは嫌ってはっきり言えよ? 我慢しなくてもいいんだからな?」
そんなことで上手くいかなくなるのは淋しいからと言う先生の声はとても優しかった。
「イヤなことなんて、全然ないよ」
俺だって楽しくて楽しくて仕方ないのに。
目の前にある先生の口元がまた少し緩む。
「な、水原。今度二人でどこかに遊びにいこうか?」
俺を気遣ってるんだろうなって思ったけど。
「うんっ!!」
嬉しくて、思わず抱きついた。
そしたら、先生はまた困った顔になって、「本当に水原は……」とだけ言って言葉を止めた。
「その続きはなんなの?」
気になって聞いたら、
「可愛いと思ってさ」
と苦笑いで答えた。
「それって、やっぱり子供だと思ってるってことだろ??」
可愛いなんて言われるのは本当に小さい頃以来だったし、友達に言われたのならバカにされたみたいでムカついたかもしれない。
けど、先生に言われるのは別だった。
少しくすぐったくて甘い気持ちになる。
でも、子供扱いはなぁ……
「水原はきっと大人になっても可愛いよ」
こっちを見ながら真面目な顔で言うから、俺はなんだか照れてしまった。
先生の手がほてった頬を包み込む。
またドキドキし始めた時、いきなりお腹が鳴った。
小さい音だったから聞こえなかったかな……って思ったのに。
先生が吹き出した。
……ちぇっ。
「ちょっと早いけど起きて一緒に朝飯作ろうか?」
恥ずかしかったけれど「うん」と答えた。
先生は楽しそうにパジャマのままの俺を連れてキッチンへ行った。
大騒ぎしながら二人で食事の用意をして、泡だらけになりながら後片付けをした。
誰かがこんなところを見たら、何で俺みたいな奴とって思うだろう。
確かに化学の成績はいいけれど、それだけだし。
「どうしたの?」
黙り込んだら、先生が顔を覗き込んだ。
「先生、なんで俺なんかさ……」
先生はまたくすりと笑って俺の頬にキスをした。
「入学式の時にね、水原、倒れた生徒担いで保健室に飛び込んできただろ?」
「うん」
今から思えばそこからなんだよな。俺のカタオモイ。
「あの時の水原、カッコ良かったよ」
なんて言いながら先生はまた笑った。
「カッコ良かったとか言って、先生、あの時も笑ってたじゃん」
「ちょっと可愛くて、思わずな」
先生の手が外れかけていた俺のパジャマのボタンを留め直した。
「今も、可愛いけどな」
耳にキスされて、思わず身体がビクンと跳ねた。
「子供っぽいっていう意味じゃないよ」
もう一度笑ってから俺を抱き寄せた。
「水原、」
「なに?」
「もう一回、キスしようか?」
夕べのキスが駆け巡る。
また、苦しくなっらどうしようってちょっと心配で。
「大丈夫かな……?」
先生がくすっと笑う。
「そんなこと言われるといじめたくなるんだけどな?」
後少しで唇に触れる位置で、先生がわざと動きを止めた。
「……先生、もしかして意地悪?」
「そんなことないよ。今のは水原が悪い」
「なんで俺なの??」
「なんでだろうな?」
目の前で先生の唇がほころんだ。
焦らされて我慢できなくて、俺は自分からキスをした。
「……んっ、」
どんなに押し殺そうとしても声が鼻の奥を突く。
クチュッという湿った音が耳に飛び込んでくるたびに、身体が震える。
たかが、キス。
でも、俺の身体の全部を敏感にする。
「……ん、……せんせ……」
「大丈夫か? 苦しくない?」
先生ったら、妙に落ち着いて俺の心配なんかするんだから。
「こんな時まで先生のフリしなくていいよ」
そう言ったら、先生はなんだか困ったように笑ってた。
「……ホントに、水原は」
半分、溜息みたいな深呼吸をしてから、ギュッと俺を抱き締めた。
「……来週、どこに行こうか?」
来週も母親は家にいない。
「でもさ、誰かに見つかったりしたら」
俺はいい。
せいぜい親に怒られて友達に羨ましがられるくらいだから。
でも、先生はそれじゃ済まないよ。
「ん〜、そんなに心配しなくても大丈夫だと思うけどな」
「心配だよ、俺」
先生がクビになるんじゃないかって。
「そっか。じゃあ、大人しく家にいるか。水原が大学生になるまでのガマンだしな」
まだ1年の俺には大学なんてずっと先のことに思えた。
だいたいさ。
「俺、大学なんて行けるのかなぁ……」
うちが進学校なのは分かってるけど。
俺なんてまぐれで入ったようなもんだし。
「水原、頭はいいと思うけど」
先生はそこで一呼吸おいて俺の頬をつねった。
「痛……」
それほど痛くはなかったけど、ふざけてそう言った。
「やる気が足りない」
そう言った途端に先生らしい顔になった。
「だってさ」
他の授業は面白くない。
「みんな先生みたいならいいのに」
「それじゃあ、俺、水原に好きになってもらえないだろ?」
「それだけで好きになったわけじゃないよ」
「そうか?」
先生の意味ありげな笑顔。
「そうだよ」
俺が保健室で一目惚れしたってことは、まだ内緒。
先生が俺を子供だと思わなくなったら、「実はね」って話そうと思ってるから。
「あ、そうだ。水原、ついでに字の練習もした方がいいな。おまえの字、受験だったら読めなくてバツにされるぞ」
「まだ受験の話なんてしないでよ〜」
「他の生徒は一年の時から受験の準備してるぞ? 水原、予備校も行ってないんだろ?」
そうだけど。
「せめて数字だけでも区別がつくように書いてみろよ。あと、アルファベットも」
「俺だって丁寧に書けば普通の字も書けるんだよ〜」
「つべこべ言うな。ほら」
先生の家で字の練習をさせられるとは思わなかった。
しかも、大きすぎる先生のパジャマがワンピースみたいだし。
なんか、変だよ。
急に恥ずかしくなって、頬の熱を手で押さえて取ろうとしたら、先生の両手が先に俺に触れた。
にっこりと笑顔を向け、そのままキスをした。
「ずっとこうしていられたらいいのにな」
なぜか、吐息混じり。
ちょっと憂鬱そうに見えるのはどうしてなんだろう。
「俺も先生とずっと一緒にいたいよ」
急速に近付きすぎて気持ちのコントロールができなくなりそうだった。
こんな気持ちで学校へ行ったら勉強なんてしたくなくなりそうだしなぁ……
でも先生はそんな不安もお見通しで、
「一緒にいたかったら、もっと頑張れよ」と笑った。
「水原はもうちょっと勉強すれば、きっとすごくいい成績になるから」
そんな風に俺を励ますところはやっぱり先生なわけで。
「なんだ、その顔は? お世辞で言ってるわけじゃないぞ?」
でも、「毎週ここで一緒に勉強しよう」なんてニコニコしながら言うから、俺もなんとなく楽しくなってきた。
毎週。
ここで。
先生と一緒に。
心の中で繰り返して、一人でにっかり笑ってしまった。
……勉強じゃなければもっと楽しいけど。
「でも先生、いろいろ用事とかあるんだろ?」
「あるよ」
無理しなくていいよと言いかけた時、先生が笑った。
「掃除とか洗濯とか」
「そんなの用事のうちに入らないよ」
「でも、俺は掃除も洗濯も嫌いなんだよな。水原、手伝ってよ」
「……いいけど」
まあ、俺もあんまり得意じゃないけど。
「あとはテストの採点とか課題のプリント作ったりかな。でも、それは水原に手伝わせるわけにはいかないし」
会話が区切れる度にキスをする。
こんな時間を知ってしまうと他の全てがつまらなく思えそうで。
「水原、」
物思いにふける俺の耳に、先生の声が甘く響く。
「おまえのこと、ずっと好きだったよ」
ずっと……?
「保健室に駆け込んできた時から、ずっと」
「へ?」
俺がキョトンとしてると先生はニッカリ笑った。
「これって一目惚れって言うのかな」
俺も……って言わなかったのは、ちょっとだけ仕返しのつもりだった。
だってさ。
「ひどいよ。もっと早く言ってくれれば、俺、こんなに悩まなかったのに」
「悪かったよ。別に水原を悩まそうとしたわけじゃないんだけどな」
先生の困ったような顔を見て、俺、また失言したんだなって思った。
俺が悩んでた時間、先生もきっと悩んでたんだ。
それだけはなんとなく分かった。
だから。
「でもさ、センセ」
「ん〜?」
「俺も一目惚れだったんだ」
本当の事を言ってあげたのに。
「やっぱり、そうか。……水原、保健室で俺に見惚れてたもんな」
また、笑われた。



土曜日に自転車で先生の家に行く。
母親には友達の家とウソをついて。
でも勉強道具を持っていくから、快く送り出してくれる。
俺が勉強をしている側で、先生は部屋の片付けとか掃除とか、2年生のテストの採点とかをして。
「学年で30位以内に入って、家から通える大学に行って、バイトして、先生とデートして、転勤のなさそうな近くの会社に就職して……」
勉強ばっかりしてるのは面白くないけど、そんな風に楽しい事を考えながらなら何とか続けていかれると思ったのに。
「水原、いきなりそんなことまで考えてるのか?」
「うん」
俺の楽しい将来の計画を無残に引き裂いたのは、他でもない先生自身だった。
「大学入試ってな、英語は必須だぞ」
「……わかってるよ、そんなこと」
だからこうして必死にやってんのにさ。
「もう、絶対一ケタなんて点数は取らないよ」
「その会話はレベルが低すぎるな」
「ちぇっ」
こういう時だけ先生の顔をするんだから。
「なぁ、センセ、キスしようよ」
ねだってみても全然ダメだった。
「そしたら勉強する気がなくなるだろ? 問題集をやって50点以上取ったらな」
「取れなかったら?」
「もう2時間英語のみ勉強」
「え〜っ!? 化学とか数学とかにしようよ」
「できる科目をやっても仕方ないだろ?」
先生が洗濯物を干しているのを時々見ながら、必死に問題を解く俺。
楽しいんだけど、ちょっと憂鬱な俺の土曜日。
「50点以上か〜……部分点も貰えるの?」
「俺は井田先生より厳しいぞ」
「え〜っ!?」
「まあ、俺のためだと思って頑張ってくれよ」
「ちぇ。俺も宇野先輩みたいに英語で首位争いしてみたいなぁ」
2年になると科目ごとに成績優秀者上位20名が張り出される。
宇野先輩は全部の科目に名前が載ってた。
化学も古文も得意なわけだよなぁ。
「そう言えば、宇野、あれからどうした?」
あの後も何度か帰り際にバッタリ会って、そのたびに「時間貰える?」って聞かれたけど、適当な言い訳をして逃げていたから、結局ゆっくり話してなかった。
「だから、そのままになってるよ」
先輩もそんなに急いでなさそうだし。
「そんなにたいした用事じゃないんじゃないのかなぁ?」
俺は本当にそう思っていたんだけど。
「水原、もしかして俺を煽ろうなんて思ってるのか?」
先生は疑ってた。
「そんなことないよ〜。俺、ホントに……」
言い終わらないうちに唇を塞がれた。
「ん、……」
さっきまで、ダメって言ってたくせに。
「センセ、もっと」
唇が離れた瞬間にそう言ったけど。
「あとは50点取ってから」
「先生、自分勝手」
「でも、今のは水原がいけない」
「なんで俺のせいなんだよ??」
「大人になったら分かる」
また、子供扱いするし。
ぶちぶち言いながら問題集をやる俺の頭上を先生の独り言が通り過ぎた。
「……化学、席替えしないとな」
「しなくていいよ。俺、今の班好きだもん」
「だったら、余計にダメだ」
笑いながら振り返る先生の向こうに。
真っ青な空が見えた。



そして、翌週。
先生は本当に席替えをした。



                                        end


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