明日は晴れる
-4-




先生の部屋に入っても、しばらくは周りを見る余裕もなかった。
ウーロン茶をもらって、指で水滴をなぞっていたらやっと少し落ち着いてきた。
「大丈夫か?」
コクンと頷いて、そっと顔を上げる。
先生の部屋はぜんぜん散らかってなかった。
それどころかすごくキチンと片付いていて。
―――ああ、そっか……
やっと分かった。
俺のこと、部屋に入れたくなかったんだって。
急に身体が重くなって、目の前が暗くなった。
「水原?」
先生の声は相変わらず優しいけど。
「……センセ、部屋、キレイだよね」
「ん? そうか??」
俺が何を言いたいのかなんてぜんぜん分かってなかったみたいだけど。
「ごめんね」
「何が?」
「部屋、入っちゃって」
先生の顔は見ることができなかったけれど。
ちょっと慌てているのだけは空気で分かった。
「……高校生は、大人の人を好きになっちゃいけないのかな……それとも、先生だから?」
先生がズボンのポケットからハンカチを取り出した。
また、俺が泣き出したから。
でもさ。
なんで泣いてるんだろ、俺。
わかんないのに。
考えたら余計に涙が出てきた。
「そんなに泣くなって……」
きっとすごく困っているんだろう。
先生の声がいつもと違った。
困らせるつもりじゃなかったのに。
「水原……」
先生の声がすぐ近くで響いた。
温度を感じるほど、すぐ近くで。
返事もできずに固まっている俺の隣りに先生が座った。
ハンカチで涙を拭いた頬に、そっと、ホントにそっと、キスをした。
「土曜にもう一度会えるか?」
「…なん、で……?」
そんなこと。
「会いたいんだ」
その言葉も、俺には苦しくて。
ただ、ジッとうつむいて、泣きたい気持ちが通り過ぎるのを待った。
「そんな顔で帰ったら、家の人が心配するだろう?」
せっかく顔を洗ったのに。
……でも、今日はもうダメだ。
「うち、大丈夫だよ。きっと、まだ誰も、帰ってない」
冷房の効いた部屋で、先生だけが暖かかった。
俺が泣き止むまでずっと肩を抱いていてくれた。
でも、ときどき溜息と「まいったな」って小さな声が聞こえた。

少し収まってから、家まで車で送ってくれた。
車を降りる時、「土曜に会えるか?」ってまた聞かれた。
でも、俺は何も答えずに家に駆け込んだ。



次の日、俺はわざといつもより早い電車に乗った。
違う時間、違う車両。
いつもより混雑もひどくなくて。
一人だってことを実感した。
あの日のいろんなことを後悔しながら俺が決めかねている間に、土曜日はあっという間に過ぎていった。

早い電車に乗るようになってからと言うもの、顔を合わせるのは化学の授業の時くらいだった。
それもできるだけ顔を合わせないように、ずっと下を向いていた。
俺はあんまり質問もしなくなったけど、小テストは100点だった。
答案を返す時だけ、そっと先生の顔を見た。
先生はいつもとなんの変わりもなくて、前のように笑ってくれたけど。
「……はぁ……」
席に戻って溜息をつくと、宇野先輩が話しかけてきた。
「100点を取って溜息をついてるのは水原くらいだよ。何かあったの?」
「ううん、なんでもないよ」
「でも、最近、元気が……」
先輩の手が俺の肩に触れた時、先生の声がした。
「宇野、自分の席に着け。実験の説明をするぞ」
先輩が席に戻ると俺はまた溜息をついた。
いきなり泣いたことや、困らせた事を思い出すと授業中でも憂鬱になる。
「俺って、ダメかも」
ふっと呟いた時、後ろからパコンとノートで叩かれた。
先生だった。
「水原、俺の説明ぜんぜん聞いてないだろ?」
「……ごめんなさい」
みんなに笑われたけど。
俺はそんな気分じゃなくて。
「罰として放課後に研究室で小テスト。教科書とノート持ってこいよ」
怒られた。
当たり前だけど。
そうじゃなくても顔を合わせられないのに、怒られに行くなんてさ……


放課後、憂鬱な気分で研究室に向かった。
二人で会う勇気なんてなかったから、わざとみんなが遊んでいそうな時間に行った。
ドアの前に立つと心臓がドキドキして、また息苦しくなった。
ノックをすると「どうぞ」という手短な返事があって、恐る恐る部屋に入った。
いつもは圧倒的に3年生が多いのに、今日は2年も1年もいた。
「お、水原。早かったな」
先生は当たり前のように微笑んで迎え入れてくれた。
常連の生徒たちは思い思いに遊んでいる。
「器具には触るなよ」
何度も先生に注意されているのは1年生の二人。
俺は何を話していいのかわからないまま、教科書をくにゃくにゃと丸めていた。
先生は笑いながら椅子引き寄せて自分の隣りに俺の席を作ってくれた。
「あー、先生、えこひいき」
「おまえらと違って水原は勉強しにきたんだから。邪魔はするなよ」
「俺だって初めの時は持ってきたぞ〜」
「水原は小テストも100点だったけどな」
「えーっ? やっぱ、できのイイ奴がかわいい?」
「そりゃあ、そうだろう? 一生懸命教えてるんだから、一生懸命勉強してくれる生徒がいいよ」
「ふーん。じゃあ、俺も次から教科書持ってこよーっと」
研究室の騒がしさに物理の崎山先生が顔を出した。
「おまえら、ここは遊び場じゃないんだぞ。ほらほら」
「いーじゃんかよぉ」
みんな文句を言ってたけど、崎山先生は遠慮なく遊んでいた生徒全員を追い出した。
「先生、またね〜」
笑いながら去っていく生徒たちを見て、俺も席を立った。
「水原はここにいていいんだぞ」
長谷川先生に止められた。
ぐずぐずしてたら、崎山先生も俺の手に握られている教科書を見て「お、偉いな」と言って去っていった。
小テストって言ってたのに、先生は俺が授業中ボーッとしてた辺りをもう一回説明してくれた。
「どうしたんだ? 最近、ぼんやりしてるだろ? 電車も一緒じゃなくなったんだな。部活の時間、早くなったのか?」
本当に何もなかったように話す。
なのに、俯いてノートを取っていたら髪に先生の指が触れた。
驚いて顔を上げた時、静かなノックが響いた。
入ってきたのは3年生の戸田さんだった。生徒会の副会長で、成績優秀なことでも有名な人だ。
俺のノートを目の端でちらりと見たが、書きかけのノートと開かれた教科書に安心したような微笑みを見せると、先生のような口調で「えらいね」と言った。
その大人びた態度に俺は口篭もってしまって、返事ができなかった。
「先生の返事を聞きにきました」
穏やかにそう告げた。先生がちらっと俺の顔を見た。
「構いませんから」
戸田さんの言葉の後、先生は困ったように髪をかき上げて、
「戸田の気持ちは嬉しいけど。そういうわけにはいかないから」
さらっと答えた。
「ダメだろうなとは思っていたんですけど……はっきり仰って頂いて気持ちの整理ができました」
微笑んで部屋を出ていく戸田さんの後ろ姿に胸が痛くなった。
先生はドアを開けて戸田さんを見送った後、戻ってきた。
先生に真面目に告白する生徒がいるっていう噂は聞いたことがあった。
だけど、だれも『YES』と言ってもらったことはない。
それも有名な話だった。
やっぱり、生徒に好きだなんて言われても困るだけだよな……
しょんぼりと俯いていると、先生は苦笑しながら付け足した。
「……そう言っておかないとクビになるからな」
どう答えていいか分からず、俺は沈黙してた。
手持ち無沙汰になって、書きかけのノートにマーカーを引いた。
先生は立ったまま赤ペンを取り、その横に「ポイント」と書き添えた。
「水原、俺の教え方、分かりやすい?」
少しほっとした。
そういう質問なら答えられると思って。
「……うん。俺、本当は勉強あんまり得意じゃなくて、でも、先生が教えてくれるから、頑張ろうって……あ、」
この言い方じゃ、先生が好きって言ってるのと同じだよな。
慌てて他の言葉を捜していたら、先生が笑った。
「じゃあ、水原がまだ少しは俺のこと好きだって思ってもいいのかな」
俺のすぐ横に立って、優しく聞いた。
だから、もう一度だけ、本当の事を言ってしまおうと思った。
「……うん……先生のこと、好きだよ」
先生はホッとしたような笑顔を見せてから俺に謝った。
「ごめんな。こんな誘導尋問みたいなことして」
長い指が再び俺の髪を弄ぶ。
「ホントはさ、水原ならそう言ってくれるかなって思ってたんだけどな」
その手が座っている俺の頬を包んだ。
優しいキスが降ってくる。
「……ん、センセ、誰か来たら……」
「水原にキスできるなら首になってもいいよ」
先生はそんな大変なことを笑いながら言った。
「……駄目だよ、俺、化学は先生じゃなきゃ、嫌……」
先生はずっと先生でいて欲しい。
俺が卒業するまで。……ううん、俺が卒業しても。
「じゃあ、また俺の家に遊びにきてくれる?」
先生は珍しく笑ってなかった。本当に真面目な顔で返事を待ってた。
「……うん」
「じゃあ、今度の土曜日は? 宿題も持ってこいよ。駅まで迎えにいくから」
道はわかってたけど。でも、先生と駅で待ち合わせしてみたかったから黙って頷いた。
「いいのかな?」
俺、先生を困らせてないんだろうか?
「何が?」
「……ううん、なんでもない」
先生が誘ってくれたんだから、いいんだよな……

帰り道、思い返す度に胸が高鳴った。
家に帰っても何度も頭を掠めて、土曜日まであんまり眠れなかった。



土曜日はいい天気だった。
先生のマンションは俺んちから2駅。
自転車でも行ける距離だったけど、なんとなく電車にした。
駅に着くと改札のまん前に先生が立っていた。
「おはよ、水原」
ジーンズにTシャツ姿の先生はまるで大学生のようだった。
こんな先生を知っているのは自分だけだと思うとなんとなく顔がニヤけた。
「なに? ニコニコして」
「先生、カッコいい」
「良かったよ。オヤジくさいって言われなくて」
先生はにっこり笑ってそう言った。
先生のすぐ隣を並んで歩く。
頭分くらい背の高い先生の目線は、さっきからずっと俺の横顔に向けられている。
迂闊に振り向くとしっかりと目が合うから、照れくさくて顔が上げられなかった。

狭いエレベーターに二人きりになるとすぐに俺の肩に腕を回した。
そのまま顔を近づけてキスをした。
「せっかくのデートなんだから、本当は水原とどこかへ行きたいんだけどな」
けど、見られちゃマズイもんな。
クビになったりしたら大変だ。
「水原、今日は何時まで大丈夫?」
「何時でも。母さん、戻らないから」
父さんが長期出張の時、母さんは決まっておばさんの店を手伝いにいく。月曜日の夕方まで戻らない。姉も俺も遊び放題だ。
そんな家庭の状況なんかを話しながら部屋に入った。
「宿題持ってこなかったのか?」
「なかったんだよ。先生の化学のヤツだけ。でも、それはもう終わったんだ」
「じゃあ、泊っていける?」
そんな質問が来るとは思わなくて。
「あ、でも、着替え持ってこなかったよ」
っていうか、いきなり外泊なんてしたことないよ、俺。
「貸してあげるって言ったら、泊ってくれる?」
「あ、でも、歯ブラシとか……」
友達の家に泊めてもらう時もしっかり準備していくのに。
「コンビニで歯ブラシと下着を買ってくればいいよ。な?」
「あ……うん」
いきなり泊まるなんて。
でも先生が誘ってくれるんだから、いいんだよな?
「そこに座ってろよ。飲むもの持ってくるから。水原、コーラとウーロン茶、どっちがいい?」
どっちでもいいんだけど。
コーラってなんか子供っぽいよな?
「……ウーロン茶」
リビングの真ん中にこの間俺が座ってたソファがあった。
相変わらずキチンと片付いた部屋。
この前、ここでわんわん泣いて先生を困らせたんだ。
……ごめんね。
先生の後姿にそっと謝った。


「さて、何したい、水原?」
先生がウーロン茶をテーブルに二つ並べてニッカリ笑った。
「でもさ、ゲームとか漫画とか、なんにもなさそうじゃん」
「先生の家にそんなものあるわけないだろ?」
片付く理由は物が少ないってことなんだな。
本はすごくたくさんあるけど。
「先生、休みの日とか何してんの?」
「テストの採点とか、プリント作ったりとかいろいろな」
休みの日にまでそんなことしてるんだ。
先生って大変なんだな。
「でもさぁ、ゲームがあったら一緒にできたのになぁ」
先生は本当におかしそうに笑って俺の頭を撫でた。
「今から買いにいくか?」
「ホント??」
でもその後、意地悪な質問をした。
「キスの続きと、どっちがいい?」
「どっちって……」
答える代わりに顔が赤くなった。
先生は笑ったままでキスをしてくれた。
すごく、そっと。
「ちゃんと息してるか?」
またそんなことを聞かれて、ちょっと恥ずかしかったけど。
「してるよ。もう慣れてきたから大丈夫だってば」
そう答えたら、安心したように笑った。
「じゃあ、その先もしていいかな」
俺の頬に添えられていた先生の手が首の後ろに動いた。
ソファに行儀良く座っていた俺の顔を覗きこみながら返事を待っていた。
「え、あ、うん」
ドキドキがひどくなって、自分の返事が聞こえなかった。


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