それはそれで楽しい夜だったのだ。
面倒くさい仕事がやっと片付いたその日、担当だった俺と樋渡（ひわたり）をねぎらって課長がご馳走してくれた。
上司と部下ではあるが、思いがけず楽しい飲み会となり、時間を忘れて話し込んだ。
お開きになったあともまだなんとなく飲み足りなかったが、妻子持ちの課長を遅くまで引き止めては……と、俺と樋渡の二人で２次会をすることにした。
週末ということもあって開放感も半端じゃなく、終電間近になっても「お疲れ」と言いたくない気分だった。
「金曜の夜だしな。じゃ、森宮。俺の部屋で３次会、どう？ この間、いいワインもらったんだ」
「いいね」
同期だが２つ年上の樋渡は、遊んでいて留年したというだけあって、俺らとはちょっと雰囲気が違っていた。何をやらせてもそこそこ器用で、要領が良く、仕事もできた。
同じ部に配属されたこともあって入社した時から仲は良かったが、それでもやはり俺にとっては同期の一人に過ぎなかった。
そう、その日までは。


きちんと片付けられていたはずの部屋は、１時間後にはもう酒瓶とつまみの袋が散乱していた。
カーペットの上に足を投げ出し、大きなあくびを終えたあと、不意に沈黙が流れた。
突然何かが途切れたような、それでいてひどく張り詰めたような、不思議な感じだった。
なんとなく気まずくなって言葉を捜しはじめたとき、樋渡が苦しそうに口を開いた。
「……抱きたい……」
「は？」
相当酔っ払っていたこともあり、最初は樋渡の言葉が理解できなかった。
「おまえを抱きたい」
「はぁ？？」
耳がおかしくなったのかと思って軽く頭を振ってみたが、もちろんそんなはずはなく。
「ずっとそう思ってた。もう、我慢できない」
そういうが早いか俺にのしかかってきた樋渡の、やけに切羽詰った様子に面食らった。
「抱かせてくれ。頼む」
「何言ってるんだよ、おまえ……酔っ払ってるだろ？？」
だが、こちらの話など少しも聞いていない。
全体重で俺の動きを封じると、破れるのではないかと思うほど無理矢理に服を脱がせた。
「バカ、やめっ……んっ」
唇を塞がれ、言葉を奪われる。
酔いのせいで身体が思うように動かない。
精一杯の抵抗と言えば、舌を差し入れようとする奴を拒むためにギュッと歯を食いしばることだけだ。
バタバタともがく俺を、樋渡は圧倒的な力で押え込む。
体格差もさる事ながら俺の酔っ払い度合いはかなりなもので、押し戻そうにも力が出ない。
息が切れ、更に酒が回るのを感じた。
その間にも樋渡の手は動き続け、あっという間に全裸に剥かれ、うつ伏せにされてしまう。
しかも、俺の両手を背中で一まとめにして、ご丁寧にネクタイで縛りあげた。
「やめろよっ……」
バタつく足を抑えながら、ヤツの指が俺の尻をさぐる。
「やめろって……樋渡っ！！」
床に転がったまま全力でもがいたが、どうにもならない。
呼吸が上がり、血が巡り、体温まで高くなっていく。
自分の体の熱さとダルさをかみ締めていたとき、不意に冷たい物が俺の尻に塗られ、そのまま指が押し入ってきた。
痛みと不快感に、身体が一瞬で強張る。
だが、無遠慮な指はどんどん深く侵入してきた。
いつの間にか二本に増やされた挙句、それぞれが中でバラバラに蠢いた。
その先端がある場所を掠めた時、はじかれたようにビクンと身体が跳ねた。
「……入れさせてくれ。頼む」
懇願するように樋渡が呟き、熱を持った体を押し付けてくる。
「やだっ、やめろっ！！」
ほんの少しも冷静になる余裕などなく、ただバカみたいにそれだけを繰り返した。


しばらくすると樋渡は俺の腹の下に重ねてクッションを入れた。
「ごめんっ……」
その一言の後、背後から足の間に割って入り、後ろに自分のものを当てた。
「止めろっ！！」
叫んだ直後、口にフェイスタオルが押しこまれた。
思うように息ができない。
「ごめん……」
もう一度謝ってから、ゆっくりと腰を進めた。
「んっ……！！」
苦しいほどの圧迫感と、鈍い痛みに襲われた。
それと同時に言いようのない不快が込み上げる。
内臓に触れられているという感覚だった。
「んんっっ……！！」
タオルのせいで言葉にならないと分かっていても、声を出さずにはいられなかった。
「麻貴……」
樋渡が耳元で名前を呼んだ。
普段は苗字しか呼ばないのに、不思議と違和感はない。
まるで聞きなれた言葉のように俺の耳を通り抜けていった。
「あっ……っ、麻貴……」
押し殺した樋渡の声が艶めかしく響いた。
不覚にも俺のものは半ば立ち上がっていた。
承知しているかのように樋渡の手が伸び、そこを愛撫し始める。
「んっ……っ……」
体積を増し、濡れて滑るものを確認すると、少し安堵の色を含んだ声で「大丈夫か？」と尋ねてきた。
もちろん俺は首を振った。
樋渡の手がどんなに気持ちよくても、それはそれなのだ。
無理矢理やられていることに変わりはない。
だが、腰の動きが激しくなると、そんなかたくなな態度も維持できなくなった。
ゾクゾクするような感覚が俺を捉える。
普段、自分でする時とは違う、痺れるような快感だった。
「うっ……ん……」
俺の意思に反して身体は樋渡を求めていた。
自然と腰が動く。
樋渡は腰の動きを止めないまま、俺の口を塞いでいたタオルを外し、縛っていた両手を解いた。
「あっ、うっんん……」
押し殺すこともできずに喘ぎ続けた。
俺のものを刺激しつづけていた樋渡の手の動きが速くなり、同時に射し込まれていたものが深く激しく奥を突いた。
「止め……っ、樋渡……あっ……」
何一つ抵抗などできないまま、あっけなくいってしまった。
少し遅れて樋渡も俺の中に放った。
ぐったりと床に伏せる俺を、樋渡が背中から抱き締める。
「麻貴、俺……」
耳に触れるほど近い場所から声が響いた時、突然吐き気に襲われた。
今の行為のせいなのか、それともアルコールが原因なのか。
とにかく、俺は無言で樋渡を振り切ると、トイレに駆け込んだ。

この体調不良は単純に酒のせいなんだろう。
胃の中のものをすっかり吐いてからそう思った。
だけど、樋渡は別の理由と受け取ったんだろう。
手を払い除けた瞬間、表情が凍りついたのが何よりの証拠だ。
俺はあえて誤解を解かなかった。
いきなりあんなことしたんだから、反省しろという気持ちを込めて。


しばらく吐き気はおさまらず、俺はうすら寒いトイレの中で一時間近くを過ごす羽目になった。ようやく吐き気がおさまった頃、今度は寒気が襲ってきた。
樋渡はトイレのドアの前で何度も何度も「ごめん」と「大丈夫か」を繰り返した。
俺は一度も返事をしなかった。
吐き気も気持ちも落ち着いてから、やっとトイレを出た。
「大丈夫か？」
心配そうに俺の顔を覗き込む樋渡は、既に酔いも覚めていた。
沈鬱な表情の理由は後悔だったのかもしれない。
俺の背中に大きなバスタオルを掛け、「風呂にお湯入れたから」と言った。
俺は黙ってシャワーを浴び、手早く着替えて荷物を掴むと樋渡の家を飛び出した。
「麻……森宮っ！！」
樋渡は慌てて俺を引き止めようとした。けれど、ちゃんと着替えていなかったから追いかけることもできずに呆然と見送っていた。



朝といえば朝。だが、まだ四時。
もちろん辺りは暗かった。
タクシーを拾うにも金はない。
濡れた髪のままファミレスに入ってコーヒーを頼んだ。
酔いが醒めたせいで尻の痛みを感じ始めていた。
身体が重い。
寒気がした。
始発が動くまで時間を潰し、自分の部屋に帰った。
携帯には何回も樋渡からのメッセージが残されていた。
やっぱり、「ごめん」と「大丈夫か」。
俺は返事をする気力もなく、ベッドに倒れ込んだ。
寒くて、だるくて、また何度も吐いて、動けなくなって意識を失った。


インターホンが鳴って、俺は一瞬、目を覚ました。
樋渡が訪ねてきたのだろうということは薄々わかっていた。
けれど起き上がることができず、そのまま聞き流した。
次に意識が戻ったときには、すっかり夜で部屋は真っ暗だった。
汗で濡れた服を脱ぎ、パジャマに着替えた。
そのまま、また眠った。
遠くでまたインターホンが鳴った。
でも、俺の意識は戻らなかった。


喉が渇いて目が覚めても、水を取りに行く気力もなかった。
やっと起き上がれるようになった時、またインターホンが鳴った。
樋渡だろうと思った。
会いたくはなかったけれど、だからといってどうしたらいいのか分からず、インターホンの受話器を取った。
「……はい」
「森宮？ 俺、進藤だけど」
同期の進藤だった。
安堵と脱力感に襲われた。
「……わりい、カゼひいてて……」
俺は緩慢な動きで玄関を開けた。
「樋渡に様子見て来てくれって言われてきたんだけど、出直した方がいい？」
「……悪いな、せっかく来てくれたのに」
掠れて息の抜ける声。自分で喋っている気がしなかった。
「いいって。じゃあ、食べ物と、樋渡んちに忘れてった物だけ置いてくよ」
ネクタイと手帳が食べ物と一緒にコンビニの袋に入っていた。
「樋渡に頼まれたんだよ。なに？ ケンカしてんの？」
「ケンカっていうか……」
言葉が途切れる。熱のせいで頭が働かないのか、ただ焦っているだけなのか……。
「それにしても、ひっどい声。ホントに大丈夫？」
声を出すのが辛かったから黙って頷いた。
「樋渡、めちゃくちゃ落ち込んでてさ、見てられなかったよ。なんか知らないけど許してやったら？」
なんて答えたらいいのかわからなかった。
進藤は俺がまだ怒っていると思ったのだろう。
急に話題を変えた。
「本当に一人で大丈夫？ 薬買ってこようか？」
「大丈夫。明日、病院行くから」
「そっか。まあ、ゆっくり休んで」
「サンキュ。悪かったな、わざわざ……」
「いいって。じゃ」
袋の中身はスポーツドリンクとか、カップラーメンとか、そういうものだった。
あまり食欲はなかったが、飲み物は嬉しかった。
どでかいペットボトルに直接口をつけてゴクゴクと飲むと、すぐに身体に沁みこんでいった。


一息ついて樋渡のことを考えた。
少なくとも俺は怒ってはいなかった。
ただ、かなりショックで何がなんだか分からなかった。
いくら酔ってたからって、いくら溜まってたからって、何も俺を抱くことはないんじゃないか？
樋渡はそれほど酔っているようにも見えなかった。
おぼろげな記憶。

――――……麻貴

今まで一度だって名前なんて呼んだ事はなかった。なのに、取ってつけたような不自然さはなかった。
くすぐったいような不思議な響きが体の奥深くで蘇った。


許すとか許さないとかじゃなくて、もうまともに顔が見られないと思った。



月曜日、俺は会社を休んだ。
医者に行って薬をもらってきたが、カゼはちっともよくならなかった。
火曜日になってもまだ寝込んでいた。
咳のしすぎで声が全く出ず、会社に電話をした時に課長に驚かれた。
水曜日、咳が止まらなくて眠れなくなった。医者で気管支炎になりかけていると言われ、薬を増やされた。食欲もなかった。
少し動くだけで辛く感じるほどだったが、なんとか進藤に電話した。
『ああ、飲み物と食い物な。分かった。できるだけ早く行くから』
快くそう言ってくれたことに感謝しながら、一日中ベッドでぼんやりしていた。
いやでも樋渡のことが頭を掠める。
けれど、どうすればいいのかなんてわからなかった。
無理して考えはじめるとまた熱が出てきた。


夜になって進藤が見舞いに来た。課長と一緒だった。
フラフラしながら二人を出迎え、息が抜けるだけの声で謝った。
「……すみません」
「仕事のことはいいから、ゆっくり休めよ」
課長は笑いながら、部屋にゴロゴロと転がっていたペットボトルをゴミ袋に入れた。
「家の人に来てもらった方がいいんじゃないのか？」
両親はそれほど遠くに住んでいるわけではなかったけれど、さすがにカゼくらいで呼びつける気にはなれない。
「ホントに彼女とかいないの？」
進藤が遠慮なく尋ねた。
「いたら進藤に頼んだりしないよ」
俺の返事に課長が困った顔をした。
「あ、でも、大丈夫ですから」
「そう言われてもこんなに酷いと放っておけないな。ちゃんと食べてないんだろう？」
ペットボトルを入れたゴミ袋をチラッと見て眉を寄せる。
食欲がなくて、飲み物からエネルギーを摂取しているのがバレバレだ。
「いいですよ、課長。俺が森宮の食事作りますから」
上着を脱いで腕まくりをする姿がやけに張り切っていたが、冷蔵庫には何もない。いや、それよりも。
「進藤、料理なんてできるのか？」
課長も怪訝そうだった。
そういえば、以前「目玉焼きも作れない」と開き直っていたような……と思ったが。
「レトルトのおかゆでいいよね？」
にっこり笑った顔を見て俺は心底ホッとした。
腹を壊すよりよっぽどいい。
どうせあんまり食欲もないし。
「悪いな。助かるよ」
礼だけ言って、ベッドに座ってのんびりと待つことにした。


課長が帰ってから、進藤が会社のことを話してくれた。
仕事の進捗状況とか新しい案件の事とか事務の女の子たちの噂とか。
おかゆを食べ終わり、お茶を飲んでいると急にマジメな顔になって、つつつっと俺に近づいた。
「さて、森宮。本題に入るよ」
「なんだよ……？」
「樋渡と何があった？」
真正面から聞かれるとは思っていなかった。
「べ……べつに……なんでそんなこと……」
おかげで目一杯うろたえてしまった。
けど、その後の言葉にもっと驚いた。
「樋渡、辞表を出したよ」