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―――……え??
「……なんでだ?」
「だから、それを聞きに来たんだって。心当たりないの?」
「別に、ちょっと、ケンカして、気まずいだけで……」
犯られたのは俺なのに、なんで樋渡が辞表を出すんだよ。
会社を辞めれば俺が許すとでも?
それともヤリ逃げか?
……いや、俺だってそんなに怒ってるわけじゃないから、辞められたら辞められたで気分は良くないんだけど。
「とにかく、樋渡が辞表を出さなきゃならないようなことは何もなかったよ」
ふうん、という進藤の含みのある返事。
「じゃあ、電話してやってよ」
進藤が携帯を取り出した。
「……えっ……」
言葉につまった。
「な、なに、話すん……?」
「なんでもいいって。樋渡、森宮がカゼ引いてることそのものを疑ってるんだよ」
「……って?」
「自分に会いたくないから休んでると思ってる」
「……バッカじゃねえの??」
俺がそんな軟弱なヤツに見えるか?
「だから、そう思うなら電話してやってよ」
でも、話したくなかった。
「別に内容なんてどうでもいいよ。その声聞けばカゼ引いてるって分かるんだから」
「……つっても、な……」
「なあ、森宮がそんなに怒るケンカの原因って、なに?」
そこに話を戻すなよ。
「怒ってないけど、話したくないんだよ」
「ぜんぜんわかんないんだけど」
「わかんなくていいよ、もう。……電話すりゃあいいんだろ?」
俺の返事を聞いて、進藤はすぐにポケットから携帯を取り出して樋渡に電話した。そして携帯を俺に渡した。
『……はい』
樋渡の声だ。
だが、暗い。
俺は固まった。
今にも死にそうといっても過言ではない。
沈黙していると樋渡が話しかけてきた。
『進藤、森宮んち、行ったんだろ?』
俺は電話に出づらくなって、進藤に携帯を突っ返した。
俺の頭をパコンと引っぱきながらも、進藤は電話を受け取った。
『進藤?』
死にそうな樋渡の声が小さく聞こえた。
「あ、悪い。今、森宮んちなんだ。すっごいカゼでさ。声、出ないんだよ」
口を押さえてソファに突っ伏して咳き込んでいる俺にケータイを突きつけた。
「……樋渡……俺……」
ぜんぜん、声にならない。
――――怒ってないから……
ちゃんと言わなくちゃと思ったとき、また咳が出た。
「……そういうわけ。信用した?」
樋渡はどう思っただろう。
咳き込む俺の背中をさすりながら、進藤は話し続けている。
「ん〜、明日はまだ無理だろうな。熱、39度あるし。食事もあんまり食べられなかったし。……え? 俺が作ったよ。おかゆ」
樋渡が怒鳴っているのが聞こえた。
「レトルトだよ。温めただけ。信用ないな」
……当然だ。
課長だって心配してたじゃねーか。
「とにかくさ、森宮もなんとか大丈夫だから」
『3日も休んでるのに大丈夫なわけないだろっ』
小さな電話から樋渡が叫んでいる声が聞こえた。
俺は進藤の手から携帯を取り上げ、電話に出た。
「あのさ……大丈夫だから、会社、辞めんなよ」
樋渡は沈黙していた。
一言も、なんにも言わなかった。
進藤に電話を返してぐったりとソファに沈みこんだ。
なんか、ダルい。
やっぱ話さなければよかった。
「……まあ、その話はまた明日ね」
進藤は俺の顔をちらちら見ながら電話を切った。
「もう寝た方がいいよ。ベッドまで歩ける?」
「歩けるって」
進藤を見送って玄関に鍵をかけてから俺はベッドに入った。



結局、俺はまるまる一週間会社を休んだ。
辞表は4日間課長の机の中にあったが、そのあと樋渡に返されたらしい。
樋渡はなんとか会社には留まったものの、すぐに大阪へ転勤となった。
新規プロジェクトの立ち上げに伴い異動となった形だったが、本人たっての希望だと言うことは誰もが知っていた。
新しい取り組みに積極的な樋渡にはぴったりの部署だったから、誰も不思議には思わなかったけど。
「原因が森宮とのケンカだって知ってるのはきっと俺だけだね」
進藤がちょっと得意げに言う。
「俺のせいみたく言うなよ」
「森宮のせいじゃないけど、原因は森宮とのケンカだよ?」
「あいつが悪いんだぞ」
「分かってるって。樋渡もそう言ってたよ」
そんなひとことが何故か胸にチクリと刺さった。


異動の発表があってから、樋渡は残務整理や引継ぎでバタバタとしていた。
仕事の引継ぎで多少の会話はしたが、顔を見て話す事ができなかった。
あのことについてもお互い触れることはなかった。


その翌週、樋渡は大阪に行った。
そして、その後三年間、俺たちは顔を合わせなかった。
樋渡が居なくなっても、俺はあの夜のことが忘れられなかった。
結局、3年間、ずっと忘れられなかった。




「森宮、樋渡やっぱり戻ってくるんだな」
異動の通知が流れると給湯室にいた俺の元に進藤が走ってきた。
4月1日付けの異動で樋渡は東京に戻ってくることになった。
「あれから3年かぁ……」
ベンダーでお茶を入れ、二人で席に戻る。
本当に三年間なんてあっという間だった。
研修も東京地区と大阪地区に別れていたから、一度も顔を合わせていなかったし、電話で話すこともなかった。
異動が発表になったとき、俺は妙にドキドキしていた。
内示があったとき進藤には話したらしい。
「なに、森宮は知らなかったの? ……ってことは樋渡とまだケンカしてんの??」
「……っていうか、あのあと話す機会がなかったんだよ」
仕事で接点がない以上、会話をする必要はない。
それだけのことだった。
「じゃあ、そのままってこと? 大人げないなぁ……」
「うるさい」
俺だって三年の間に何度も後悔した。電話をかけようと何度も思った。
「戻ってきたら仲直りしてやってよ?」
「なんで俺に言うんだよ」
「森宮が話しかければ、樋渡は喜んで答えると思うけど」
進藤とはちょくちょく電話で話していたらしい。
「いつも『森宮は元気か』って聞いてたし」
そんなことはぜんぜん知らなかった。
「だいたいそこまで怒るようなことって世の中にあんまりないよね? もしかして彼女を寝取られたとか?」
俺は思わずお茶を吹き出しそうになった。
むせ返る俺の背中を進藤が叩く。
「やっぱりそうだったの? そりゃあ、怒るよね……。でも、そんなんで樋渡に靡く子もどうかと思うよね」
彼女を取られたなら、こんなに戸惑わなかったかもしれない。
そりゃあ、確かに頭には来るだろうけど。
友達に彼女を取られるなんてことは世間にいくらでもありそうだ。
けど、同性の友だちに無理やり押し倒されることなんて、普通はないだろう?
「森宮に別れたのがショックで熱を出すほど好きだった子がいたなんて、ぜんぜん気付かなかったなぁ。俺、そういうのには敏感な方なのに」
「……いいよ。昔の事をいろいろ想像しなくて」
少なくとも辞表を出すようなことじゃなかった。俺はそう思った。
なかったことにすればよかったんだ。
けど、そのチャンスは失った。3年間、俺が許さなかったことで。
「けどさぁ、森宮と樋渡が気まずいと、俺もやりにくいし。ね?」
「わかったよ。こっち来たら、フツーに話せばいいんだろ?」
「あくまでも普通に、だよ? 俺と話すみたいに」
「普通に話すよ」
「よかった」
実際、俺はちっとも嫌じゃなかった。
確かにあの時は顔を合わせにくいと思ったし、話もしたくなかった。
けど……。



家に帰るとテレビを点けた。
けれど、テレビなんて見ずに一人でいろいろ思い巡らせていた。
樋渡の声、瞳、手、唇……。
あの夜を思い出すと体が疼く。
あれから俺は、自分でやる時も後ろを触るようになっていた。
それでも樋渡に抱かれた時のような快感は得られなかった。
「ヤバイよな、俺……」
さすがに深い溜息になる。
あのとき樋渡に対して嫌悪感がなかったのも、それほど腹が立たなかったのもたぶんそのせいなんだ。
3年間。
樋渡はどう思っているんだろう。
あの時ちゃんと話していれば、樋渡だって『酔った勢いで魔が差した。ごめん』と謝っただろう。そしたら、俺だって、なんとか流してしまえたかもしれないのに。
そしたら三年間もこんな気持ちで過ごさなくて良かったのに。
俺が許さなかったことで、忘れるチャンスをなくしてしまったんだ。
樋渡と会った時、俺は平静でいられるだろうか。
どんな顔して話したらいいのか分からなかっただけなのに。そんなこと今更言えないしな。
あーあ……



樋渡が赴任してきた日、女子社員はそわそわしていた。
大阪での樋渡の活躍振りは本社にも届いていたから、無理もないだろうけれど。
「仕事もできるし、背も高いし、顔もいい。上司の信頼は厚くて、後輩の面倒もよく見る。そんな噂ばっかり耳にして、期待するなって言うのが間違いだよね?」
進藤は自分のことのように自慢げに笑った。
「まあ、そうだけどな」
「それを言ったら、森宮もだけどね。『王子様』」
「なんだよ、それ」
「昼飯時の森宮の呼び名。真美子嬢の王子様らしいよ」
「アホか」
進藤はたまに女子社員に交じって弁当を食べていたりする。
女の子の中にいても不思議なくらい違和感はない。
なのに、ちゃんとよその会社に彼女がいる。
「いいじゃない、王子様なんて。素直に喜んだら?」
「つっても、あんまり、嬉しくないしなぁ…」
真美子嬢は家庭的で可愛らしい入社二年目の女の子だ。大抵の男なら喜ぶ状況だろう。
けど、今の俺はそんな気分じゃなかった。
あの日以来、樋渡のことがこびり付いて離れないのだ。
腹は立ったけど、傷ついたわけじゃない。なのに。
「モテモテの樋渡も同じこと言ってた。『そういうのは嬉しくないんだ』ってさ」
「樋渡が? 嘘だろ?」
文字通り、とっかえひっかえで絵に描いたような遊び人だったのに。
「大阪に行ってからは、そうでもないらしいよ」
ストイックなところがまたいいと騒がれているらしい。
ちょっとどころか、かなり意外だった。
「親友の彼女を奪って絶交されたんだから。さすがに心を入れ替えたんじゃないの?」
どんなに進藤が冗談めかして言ったとしても、そのことには触れて欲しくなかった。
だから、無言で聞き流した。
それが進藤の目には俺がまだ怒っているように映ったのだろう。



樋渡が俺たちのフロアに挨拶にきたのを見つけて、進藤が呼び止めた。
3年ぶりの樋渡は以前のようなチャラチャラした感じはなく、すっかり大人の男になっていた。
ドクンと心臓が鳴った。
どんなに短く感じても三年は三年だ。
樋渡が前とは違っていたとしても当然のことなのに。
「森宮も行くよね?」
おれは自分の気持ちを持て余していて、一人でグルグルと考え込んでいた。
そんなわけで進藤の話はぜんぜん聞いていなかった。
「森宮、聞いてる?」
「……え? あ……悪い。ぼーっとしてて……聞いてなかった。何?」
そんな俺の態度に樋渡の顔が曇った。
進藤が慌てて俺に目配せする。
「今日、仕事は早めに切り上げて、同期で樋渡の歓迎会しようって。もちろん森宮も来るよね?」
笑ってたけど有無を言わさない口調。
「あ……ああ。夕方アポ入ってるけど、すぐ近くだから。できるだけ早く戻ってくるよ」
その返事に進藤がほっとしているのが分かった。
その後ろで樋渡が少しだけ微笑んだのを見て、俺はまたドキッとした。
俺はやっぱり平静でなんていられない。
あの日のことを今でも引き摺っていた。



俺の甘い見通しをあざ笑うかのように、夕方のアポはずれ込みまくった。挙げ句の果てには取引先の社長に夕飯に誘われ、どうにも断れない状況に陥った。
まあ、課長も同行しているし、樋渡の歓迎会に出たくないわけじゃないってことは分かってもらえるはずだ。
そう思いつつ、とりあえず進藤に電話した。
「というわけで、ちょっと無理なんだ」
『そりゃあ、まずいよ。二人のために企画したのに』
進藤は慌てていた。
「けど、課長も一緒だし、疑われたりはしないだろ?」
俺はすっかり安心してたのに。
『森宮があんなに酷いカゼ引いた時だって疑ったんだぞ?』
そうだった。忘れていた。
「ん〜……じゃあ、早めに切り上げて後から行くよ」
『絶対、来いよ。何時になっても絶対だよ?』
「うん。じゃあな」
『後でね。待ってるから』
くどいほどそう言われて、少しも信用されてないんだということが分かった。

……わざとやってるわけじゃないんだけどな。まったく……



取引先の社長がいい気分で帰った後、課長と駅で別れた。
もう11時を回っていた。
「あ、進藤? やっと今、終わった」
とりあえず電話をかけた。
俺はすでに酔っ払っていた。
『すぐ来て』
「今からかぁ?」
目が回りそうなのに……。
もう、帰って寝たい。
『大丈夫。森宮が来るまで待ってるから』
「ん〜? また今度でいいだろ?」
なんでこんなにしつこく誘われているのか思い出せなかった。
『ダメ。樋渡がブルー入ってるんだよ』
そうだ、樋渡の歓迎会だ。
……けど。
「それは、俺が行かないこととは関係ないだろ?」
そうだよなと思う俺に進藤の少し冷たい返事が飛んできた。
『森宮が来ないからだよ。いいから、早く来て』
仕方なく一駅戻って言われた店に向かった。
店についた時、もう何人かは家に帰ってしまっていた。
「悪いなぁ、進藤クン。遅くなっ……っちゃって」
普通に話しているつもりだったが、ちょっとロレツが回っていないような気がした。
自分のことなのにそんなこともよく分からなかった。
「酔っ払ってんな、森宮」
「すっげー飲まされたんだよ」
あまりにも怠くて座敷の端に座って壁にもたれた。
疲れた。
眠い。
進藤は、なんとなく怒っていた。
けど、遅れたのも酔っ払ってるのも俺のせいじゃないんだぞ。
「じゃあ、まあ飲めよ」
「ええ〜っ?」
「遅れた罰」
いきなり冷酒。しかも、コップ。
「ちょっと、俺、もう酒は、ヤバイって……」
口回ってないし。
「大丈夫だ。明日休めば」
「バカ、休めるかっ……」
そんな会話を聞きながら樋渡は笑っていた。ぜんぜんブルーじゃないじゃんかよ?
「じゃ、森宮、カンパ〜イっ!」
進藤をはじめ、同期が一斉にグラスを上げた。
全員一気。
残っているメンバーの中で俺が一番酒に弱い。
飲んでるそばから回ってる気がする。
「じゃ、森宮。2杯目行こうか?」
「だから、駄目だって。俺、ほんっとに酒……」
同期の連中は悪乗りが過ぎる傾向にある。
誰も進藤を止めない。それどころか一緒になって酒を注ぐ。
「二杯で許してやるから、ちゃんと飲めよん」
で、もう一回乾杯。
どうなっても知らねーぞ。



俺の記憶はそこからぶっ飛んだ。
途中から俺の隣に座った樋渡が烏龍茶を飲ませてくれたことだけはぼんやりと覚えていたけれど。



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