<ひとめぼれ>
それは、かなり突発的なできごとだった。
いや、本当はその前から樋渡は少しおかしくて、女の子と飲みに行っても愛想笑いもしないような状態だったんだけど。
ちなみにその前日も合コンで、
「レベル高いな〜」
むやみにはしゃぎまくる中西とは対照的に樋渡はシラッとしてた。
「樋渡、もしかして機嫌悪い?」
念のため聞いてみたけど、「そんなことはない」という返事。
「好みの子がいなかったんだ?」
それには「まあ、そんなところ」。
ここのところ、樋渡はどんなハイレベルな女の子に囲まれてもいまいちって感じで。
「樋渡君たら、もう誰見ても可愛いと思わなくなったのね〜」
中西は微妙なオネエ言葉で「お気の毒〜」と言いながらも、思い切り「しめしめ」という顔をしていたんだけど。
「じゃ、遠慮なく〜〜」
浮かれる中西を見ても樋渡は知らん顔。そのうちによそ見までしはじめて、ついでに途中でちょくちょく離席。
その他の連中は緊張してるのか場慣れしてないのかいつもより口数が少ないし……。樋渡が敵ではなくなった合コンはまさに中西の独壇場だった。
その日も中西は一番狙いの子をお持ち帰り。
樋渡は他の子たちに誘われていたけど、いつの間にかフェイドアウト。
春だと言うのにやる気のなさが光っていた。
そんな樋渡から電話がかかって来たのは翌日のよく晴れた土曜日。
「おはよう」とか、そんな言葉さえなく。
『進藤、金貸して』
ちょっとびっくりした。
「え? いいけど、どうしたの?」
聞けば買い物をしたいのだが、先週株を買ったばかりで手元流動資金がないらしい。
『現金で買うと安くなるんだ』
聞いた感じではもともとバーゲン品っぽいんだけど。
「そんなに高いものなの?」
聞いてみたが答えはなく。
『とにかく早く来てくれ』
不足金額は3万円。
何を買うのか知らないが、樋渡はなんだか慌てていた。
早くしないと他の人に買われてしまうかもしれないからと言われて、行った場所は大きなスーパーの近くのペットショップ。
「樋渡、ペット飼うの?」
あるいは誰かにプレゼントするのかもと思ったけど。
その時、すでに樋渡は一匹の子猫に見とれていた。
「……樋渡、俺の話聞いてる?」
声をかけても。
「麻貴ちゃん、待ってろよ。すぐに出してやるからな」
どうやら俺の存在は3万円を渡した時点で消えたらしかった。
ガラスケースの中にはふわふわの子猫。
兄弟と思われる子猫たちがころころと遊び回っている中で、樋渡が『麻貴ちゃん』と呼んだ子はタオルを被って昼寝をしていた。
確かに見た目は可愛いんだけど、子猫にしてはあまりにも元気がなくて、兄弟にじゃれつかれると面倒くさそうに隅に避難してまた眠り始める。
「具合でも悪いのかな?」
タオルを引きずって移動する様子もなんとなくズルズルという感じで、ものすごくダルそうだった。
もしかしたら、この子猫だけ病気なのかもしれない。
だから、頑張って育ててやろうって思ったのかも。
……樋渡って案外いいとこあるんだな。
と、思ったけど。
「な、ぜんぜん子猫っぽくないところがたまらなく可愛いだろ?」
どうやら違うみたいだった。
俺から見れば、ころころ遊んでいる子のほうが無邪気で100倍可愛いんだけど。
「じゃあ、この子ですね」
店員さんがそっと抱き上げても樋渡の『麻貴ちゃん』は暴れることもなくて本当にぐったりしてた。
「本当に健康状態大丈夫なの? ちゃんと確認したら?」
引き取ってすぐにお星様になったりしたら悲しいし。
もしかしたら、バーゲンになってる理由もその辺なんじゃないかとまで思ったけど、値引きされているのはそこにいる子猫全部だったからそういうことでもないらしい。
「この子はいつもこうなんですよ。子ネコにも性格がありましてね」
そう言ってクルリンと樋渡の方に向けられた子猫はあきらかにムッとしてた。
どうやら、ぐったりしてたわけじゃなくて、まったりしてたのを起こされて不機嫌になったらしい。
「今、ちょっと機嫌が悪いみたいですけど……普段はおとなしくていい子ですから」
家の中で飼うにはちょうどいいですよ、なんて愛想笑いをされて。
「トイレもちゃんと出来ますし、ご飯もお皿から出さずにきれいに食べますし、他の子のように走り回ったり、あちこち引っかいたりしませんから、留守にしても平気だし。とても飼いやすいと思いますよ」
それが本当なら、それに越したことはないと思うけど。
子猫らしくないっていうのは本当に飼いやすいんだろうか……。
大丈夫なのかなと思いつつ、樋渡の顔を見たけど、
「可愛いな、俺の麻貴ちゃん。でも、ちょっとゴキゲン斜めでちゅね〜」
そんなことはどうでもいいらしかった。
とけそうなくらい緩んだ顔で、店員さんが抱き上げている子猫の手をにぎにぎしてた。
「んー、麻貴ちゃん、おてても可愛いな」
樋渡は楽しくて仕方ないみたいだったけど、子猫はものすっごく嫌そうで、にぎっとされるたびにニュッとツメを出していた。
でも、小さな手では反撃にもならなかったようで、
「麻貴ちゃん、おツメも可愛いな。それとも、ちゃんと手加減してくれてるのかな〜?」
樋渡はとても喜んでいた。
もちろん、子猫は手加減なんてしてなくて、「大きくなったら覚えてろよ」という顔をしてたんだけど。
「んー、本当に可愛いな。今日から麻貴ちゃんと二人暮し。一緒に風呂入って一緒に寝ような?」
すでにゆるゆるデレデレな樋渡には、子猫の敵意むき出しのツメも不機嫌な表情も可愛く見えて仕方ないらしかった。
店員さんは引きつった笑みでそれを見ていたけど、しばらくしてから意を決したように声をかけた。
「あの……でも、この子……男の子だと思うんですが……」
ふかふかだし、まだ小さいから素人目にはよく分からなかったけど。
「……え?」
その言葉には樋渡もショックを受けたみたいで、一瞬にして背中にヒビが入った。
でも、「おとなしい=女の子」って決め付けた樋渡が悪いんだから仕方ない。
「あの……女の子がいいんでしたら、あの子とあの子が……」
店員さんはそう言ってガラスケースから他の子猫を取り出そうとしたけど。
その時、樋渡はもうショックから立ち直っていて、
「……男の子だけど、名前は麻貴ちゃんでいいよな?」
ネコに確認を取っていた。
もちろん子猫からの返事はなかったが樋渡は緩んだまま。
「じゃあ、麻貴ちゃん。これからは呼んだらお返事できるようになろうな?」
弾んだ声で子ネコの手を持って「は〜い」の練習をさせていた。
そりゃあ、練習すれば「にゃあ」くらいは言うようになるかもしれないけど。
さすがに手を上げたりはしないよね……
言ってやろうかと思ったけど、どうやら樋渡は麻貴ちゃんと二人の世界に行ってしまったらしくて、俺のことはもちろん、目の前で麻貴ちゃんを抱っこしている店員さんさえまったく視界に入っていないようだった。
その間、麻貴ちゃんは実に嫌そうに、しかもひどく面倒くさそうに、でも、されるままになっていた。
きっと、そういうところが子猫らしくなくて可愛くないんだろう。
ため息をつく俺の隣では樋渡が小さな手をなでたりつついたりしながら、麻貴ちゃん、麻貴ちゃんと10回くらい連呼して、ついでに、
「樋渡麻貴ちゃ〜ん」
フルネームで呼んだ瞬間にまたものすごーく嫌そうな顔をされていた。
麻貴ちゃんはほんの少しも声なんて出してなかったけど、顔は「けっ」っていう感じで。
本当に何かと微妙な態度を取る子猫なのだった。
一方で店員さんはなんとかこの子猫を樋渡に売ろうと思っているのか、せっせと不機嫌の理由を説明してくれる。
「この子、生まれた家は森宮さんというお宅だったので、苗字は森宮じゃないと返事はしないんですよ」
ためしに店員さんが「森宮さん」と呼んだら、子猫はちゃんと振り向いた。
「生まれたときは、チビちゃん1、ちびちゃん2っていうように番号で区別されてたので、下の名前はついてないんですけどね」
その言葉に樋渡はうんうん頷いてから、子猫の名前を『森宮麻貴』に決定した。
「でもね、樋渡、それってなんか、ひとんちの子みたいじゃない?」
子猫を思っての樋渡の配慮なんだろうって思ったんだけど。
「俺に甘えるようになったら『樋渡麻貴ちゃん』にするからいいんだ」
それから、「嫁さんもらうみたいだろ?」って言われたんだけど。
「……麻貴ちゃん、男の子なんだよね?」
それじゃ、猫じゃなくてもお嫁さんにはなれないよって言おうとしたら、
「俺の麻貴ちゃんを名前で呼ぶな」と怒られた。
その後、樋渡は麻貴ちゃんのために高級フードとおやつとおもちゃとその他もろもろの雑貨を買い揃えて、ご満悦で家路についた。
荷物が多かったので樋渡の家まで車に乗せてやったんだけど、その間中、キャリーの中の寝ている子猫にずっとずっと「可愛い麻貴ちゃん」と言い続けていた。
「……樋渡、そんなに話しかけたら森宮は落ち着いて寝られないよ」
生まれ変わったとしても樋渡の家の猫にだけはなりたくないなと思いながらそう言ったんだけど。
「麻貴ちゃん、寝顔も可愛いな〜」
すでに子猫はキャリーの中で手足を投げ出して爆睡してた。
およそ緊張感のカケラもない。
―――……麻貴ちゃん、案外図太いんじゃ……?
俺の心配をよそに、
「麻貴ちゃん、帰ったら一緒にお風呂入ろうな?」
樋渡はもう別世界に行ってしまったあとだった。
こうして樋渡は愛しの麻貴ちゃんと激しく報われないラブラブNewライフをスタートさせたのだった。
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