-なんの代わり映えもしない日々-



-1-

長らく係長が不在で課長の下は主任の俺というあり得ない状況だったが、前回の人事異動で一気に課長補佐と係長と主任が赴任してきた。
その時点で既にヤバイという予感はあったんだが。
「森宮、ちょっと」
終業後に部長に呼ばれて「来たか」と思った。

つまり、異動だ。

話はとても簡単で、新しい支店ができるから開設準備に出向けというものだった。
準備期間は三ヶ月から半年程度。
異動前の部署に戻ってくることも選択肢の中にないわけじゃないが、たいていは自分の立ち上げた支店に愛着が湧いて、そのまま居残りを希望するらしい。
「今までも東京管轄で十分フォローしていた地域だから、それほど手はかからないだろう。正式オープンとなれば肩書きは支店長補佐だから、頑張りなさい」
とか言われたが。
その時、俺の脳内に浮かんでいたのは、慣れない地方生活への不安でもなければ、激務と評判の開設準備業務のことでもなく、どこかのバカの顔だった。
これでようやく鬱陶しい週末から開放されるとか、そんなことよりも先に。
「……あのバカが『会社を辞めて一緒に行く』とか言い出したらどーするよ?」
そこまでバカじゃないと思いたいが、実際バカだからなんとも言えない。
面倒なことにならないうちに対策を考えなければ。
そう思いつつフロアに戻ったら、「おめでとうございます」の声で迎えられた。
「……何がめでたいんだよ」
支店の開設準備のストレスで倒れたヤツが何人もいることは百も承知で言うセリフとは思えない。
揃いも揃って他人事だと思いやがって、と悪態をついていたら、
「森宮なら大丈夫だよ」
ほのぼのとした笑顔で俺の肩を叩くヤツが。
「頑張ってね」
まったく他人事だな。
まあ、コイツの場合は本気で天然だから、この満面の笑みも厭味でないことは確かだが。
それよりも。

……問題は、アレなんだ。

妙な気を起さないようにあらかじめ言葉を用意しておくべきだろうと思ったが、よく考えたら、俺が家につく頃にはとっくに樋渡の耳にも入っているわけで。
だとすれば、次に顔を合わせる時にはもうヤツの腹は決まってるだろう。
「……ちっ、めんどくせー」
どうやら今から策を講じたところで対処のしようがないってことは明白だったので、そのまま放置することにした。
だいたい樋渡の言動は俺の理解の限度を超えてるんだから、考えてみてもどうにもならない。
そうと決まったら。
「……さっさと帰るか」
栄転祝いだから飲みに行こうなんて言われる前に、さっさと帰ってメシ食って寝よう。
できることならこの先に待ち構えているヤツとの遣り取りなどキレイさっぱり俺の未来から抹消してしまいたいところだが、樋渡相手にそんなことが許されるはずはない。
俺の中では忘却の彼方になっても、そこへ無理矢理割り込んでくる性格なのだ。
それはちょっと考えただけでかなりダルい事態だった。
やはり飲みになど行かずに体力を温存しておくに限る。
「んじゃな」
机の上に置いてあった携帯やら手帳やらをカバンにポイポイ放り込んで席を立つ。
「もう帰るんすか?」
「残ってると面倒くせーからな」
ダルいことは一つでも少ないほうがいい。
上着を適当に着てカバンを掴み、フロアを出ようとしたその瞬間、目の前に立ちふさがったものがあった。
「麻貴、一緒に帰ろう」
そう、アレだ。
「……ここまで迎えに来やがったか」
それよりも、なんで俺が帰ろうとしてんのが分かったんだ?
チラッと振り返ったら進藤がニッコリ笑って手を振っていた。
なるほどな。
本当にいい友達を持ったもんだ。
っつーか、本気でよけいな世話だ。

「おまえさー、小学生じゃあるまいし『一緒に帰ろう』とか言ってフロアまで迎えに来んなよ。まず電話しろ」
かかってきても取らないような気はしたが、まあ、気配だけでも察知できるなら、いきなり来られるより百倍マシだろう。
「んで、なんだよ?」
一緒に帰ろうと言うくらいだから、途中でメシでも食うのかと思ったが、そんなこともなく、しかもいつもよりかなり口数が少ない。
だからと言って俺から話題を提供することもなく、極めてお天気レベルの世間話のみをしながら一緒に電車に乗り、駅から真っ直ぐマンションへ向かう。
「麻貴も毎日これくらい早く帰れたら、毎日一緒にメシ食えるのにな」
「そーだな」
お互い身の入らない言葉の遣り取りをしているうちに無事帰宅。
そんな妙な空気のまま樋渡は手早く着替えてすぐにキッチンに立った。
「今から料理なんて面倒じゃねーのかよ?」
腹が減ったからすぐに食える物がいいという意思表示も込みだったが、ヤツの性格上俺の話など聞くはずもない。
「一時間くらいでできるからな。待ってろよ」
そんな返事だったので、仕方なく。
「……なんか手伝う?」
一応聞いてみたけど、いつもと同じように「麻貴はいいよ」の返事。
もっとも、そんな言葉だって本音ベースで遠慮なく変換したなら、「おまえがいても役に立たない」になるんだろうとは思うが。
「座って新聞でも読んでろって」
ニッコリ笑って、生ハムとレタスをクルッと巻いたものを俺の口元に差し出した。
「麻貴ちゃん、あーん」とか言われたのはさすがに「けっ」って感じだったが、面倒だったのでそのまま口を開けて押し込んでもらった。
もはやそんな程度ならどうでもいいレベルにまで樋渡慣れしてしまったのはえらく不本意だが、実際どうでもいいことだからこだわっても仕方ない。
雑念は排除して新聞を持ってリビングのソファに腰を下ろした。


テレビをつけて、ぺらぺらと紙面を眺めていたら、そのうちに眠くなって。
「ねみー……でも、腹減った」
あくびをしてキッチンに目を遣ったら、樋渡が今にもとけそうな顔でこっちを見ていた。
相変わらずよくわからない態度だが、樋渡なので仕方ない。
とりあえず夕飯の用意がなされている間にシャワーを浴びて、パジャマに着替えた。
「麻貴、ちゃんと髪を拭けよ」
キッチンから声が聞こえたものの、面倒だと無視していたら、ドライヤーを持った樋渡が登場。楽しそうに俺の髪を乾かし始めた。
「自分でやるからいいって」
まあ、いつものことだし、他のに比べたら鬱陶しさは低レベルなんだが、
「麻貴の髪ってサラサラだよな」
遠くへ行った樋渡がなかなか帰ってこないのがとても困る。
だが、転勤したらこれもなくなるわけで。
そんなこともふと思ったりしたが、だからといってそれほどの開放感もなかった。つまり。

―――こんな生活にも樋渡の鬱陶しさにも、実はもうすっかり慣れたってことなんだろうな……。

そう思った瞬間、着実に人生を踏み外していることを実感してしまった。



髪がすっかり乾いてから、二人でテーブルに着いた。
樋渡は帰宅途中と同じく薄気味悪いほどいつもと同じで、世間話の他は「うまいか」とか、「味薄くないか」とか、そんなことしか聞かなかった。
まさか転勤のことを知らないわけじゃあるまいと思いながらも、遠回しに探る言葉が思いつかず、おもむろに「異動するんだ」と告げたら、「知ってる」と即答された。
「準備期間は最短三ヵ月なんだろ?」
しかも、意外と普通の反応だ。
「らしいな」
このまま何事もなかったようにこの話は終わるんだなと安心した瞬間、樋渡に満面の笑みが。
「有給はたくさん余ってるし、週に一回はちゃんと会える。麻貴は何にも心配しなくていいからな」
ついでに「ちゅー」っと頬に吸い付かれたが。
「食ってる時にするなって言ってんだろーよ」

……っていうか、おまえが頻繁に来ることのほうが心配だってーの。

とにかく、樋渡が会社を辞めるとか人事部に駆け込むとか、そういう心配はなさそうだったので、この状態で良しとしておくことにした。
というか、コイツにしてはすごく普通っぽい反応なのが気持ち悪い。
まあ、常識的なのは良いことだから、それをとやかく言う必要はないんだけど。
「じゃ、そういうことで」
あいまいな返事だけしてさっさと夕飯を食べた。
この程度の反応で済むなら、なんで「一緒に帰ろう」なんて言ってきたのかはけっこう謎なんだが。
何にしても樋渡のすることだから考えても仕方ないってことで。
この件については強制終了した。



それから引っ越しまでの間、樋渡は荷造りのほとんどをやって、俺の新居の合鍵を作って、有給の残りまで確認してた。
もちろんこの先三ヶ月のカレンダーはすでに頭の中に記憶され、ともすれば有給を取る日まで決まっているかもしれないという徹底した準備っぷり。
「まあ、どーでもいいけどな」
引っ越しの当日も業者のおっさんが見ている目の前でキスをした挙句、
「じゃあ、また週末に。愛してるよ、俺の可愛い麻貴ちゃん」
当たり前のようにそう言って思いきり俺にボコられた。

新居は支店の近くで、地方都市なりにビジネス街の外れ。
マンションは単身者専用とかで家具も家電も供えつけだったから、大きな物を動かす必要もなく、とても楽な引っ越しだった。
「んじゃ、まずは持ち物をチェックしておくか」
結局、荷物のほとんどを自分で梱包してないので、この期に及んで実は何が入っているか判らないという状態。
もちろん全てにおいてマメな樋渡のことだから、それぞれの箱にはしっかりと中味の表示をしてくれていたが。
「……いちいちハートマークとか付けてんじゃねーよ」
本当に何をやらせても何かがよけいなヤツだった。
「着替え、雑貨……あとは……料理道具なんて絶対に使わねーな」
たらたら文句を言いながら必要最低限のものだけを取り出して、残りは箱のまま積み上げておいた。
キッチン用品の中で取り出したのは、ポットとマグカップ一つだけ。
いつか樋渡が来るってことがわかっていながら自分のカップしか出さなかったこの状況をヤツがどう思うのかなんて俺の知ったことじゃない。
とにかく今日から自由の身。
手足を広げてのびのびと一人暮らしをすることにした。
とは言っても、明日からすぐ仕事だから、のんびりできるのも今日だけなんだけど。
「とりあえず寝溜めしておくか」
そんなわけで、テレビも見ないで十時に就寝した。



翌朝は5時起床。
しばらくは9時に出勤していたら全てが間に合わないということは事前に聞いていたから、俺が新築ピカピカのオフィスに足を踏み入れたのは7時。
だが、俺を含めて下っ端は全員来ていた。
「おはよう」
全員と言っても開設準備委員は4人だけ。
しかも、のちのち支店長になるはずの委員長は営業本部の課長が兼任しているため、準備段階では滅多に支店に来ない。
よって、残りは俺と一期下の男と総合職の女の子という緩んだ職場環境。
事務職の採用は開設準備期間中に並行して行うことになっていたが、どうせ若い女の子なんだから、一人増えても大差ない。
「よろしくお願いします」
そんなわけで、初日は俺ら3人でひっそりとスタート。
朝一で本社から届いた荷物の中、赤丸つき重要書類の封筒には「権限委譲承認書」。そこに羅列された業務の数々を見ていきなりめまいが。
「……っつーことは、費用がかかること以外は俺が決済するのか??」
冗談は大概にして欲しいもんだ。
「くっそー……面倒くせー」
思い切りうんざりしてしまったら、残りの二人に遠慮なく笑われた。
事前に仕入れた進藤の『お弁当情報』によれば、総合職の女子、多田はしっかりしてるという噂だから心配は不要。一期下の桑山もまあまあデキる感じに見えた。
まあ、よかったんじゃないか?
……と思ったのも束の間。
「森宮さんって樋渡さんの同期なんですよね」
いきなり樋渡の話をした時点で桑山の評価はマイナスになった。
「だったらなんだよ」
よけいな話はするな。
というか、せっかく忘れてるんだから、名前を口にするな。
「僕、大阪で樋渡さんの下だったんですよ」
「あ、そ」
だからナンだと言いたいところだが、とりあえずそう返した。
『そりゃあ、ご愁傷様』とか言ってやればよかったかもしれない。
たぶん俺らのことは聞いているってことを遠回しに言った感じなんだろう。
だとしたら、「俺に樋渡のことでコメントを求めるな」と最初に叩き込んでおいたほうがいいかもしれないという案も過ぎったが。
「……んじゃ、まずはこの先の予定表見ながら打ち合わせだな」
面倒だったから、その手の話は一切しない方向で行くことにした。

こうして、俺の新生活はそれなりのスタートを切ったのだった。


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