らいと・ぶらうん
- Light brown eyes -





中学を卒業して間もなく、俺は母親の姓に変わった。
夏原という新しい苗字に馴染むこともなく、まるで違う人間を被っているかのような気分で、家を出たのは15の春休み。
中学を卒業したばかりで行く当てもなく、友人やたまたま知り合った相手の家を転々とした。
「仕事してみたら?」
しばらく居候させてもらった男に言われ、紹介されたのは紳士ぶったエロオヤジ。
「バーなんだけどね。キミ、未成年でしょう?」
金はまったくなかった。
紹介してくれた男ともコレで終わりってことになっていて、仕事を見つけないわけにはいかない状況だった。
けど、そう言われたらどうしようもない。
「じゃあ、他当たりますから」
のっそりと立ち上がるとオヤジは俺の顎に手をかけた。
されるままになっていると唇を押し当ててきた。
別に、キスくらい。
そう思って黙って受けていたらニヤリと笑った。
「ゲイバーなんだよ。ホストしてみる?」
ただし、20歳にならないと働けない店だから年齢は内緒にするよう念を押された。
提示された金額は手取りで一日5000円。
アパートはただで貸してくれると言う。
「そんなに一生懸命働かなくてもいいからね」
いかにもな下心を見せてソイツは笑った。
そして、現在に至る。


ホストなんて、サービス精神がない俺には一番向かない職業。
なのに。


――――本当は、ずっと。どこかで偶然を期待していた。



「ふえ〜。かったりぃ……」
俺はいつものようにこっそりフロアを抜け出してロッカールームで本を読んでいた。
オーナーの「そんなに働かなくていい」という言葉を鵜呑みにして。
もちろん同僚たちはいい顔をしていなかったけど。
そんなのは俺の知ったことじゃない。
とにかくこうやって繋いでいる間になんとか次の仕事を見つけなければ。
そんなことを思うなら、客に媚でも売ってコネでも作ればいいんだけど。
それも怠くて、なんとなく流していた。
「ふあ〜っ……」
思いきりあくびをした時、薄暗いロッカー室のドアが不意に開けられた。
廊下の光りが差し込むドアの向こう。
立っていた背の高い影に、「なんか用?」と素っ気なく尋ねた。
逆光でも分かるくらい端整で品のいい顔が、どこか不思議そうに俺を見下ろす。
「グレーのシャツの男が来なかったか?」
落ち着いた声が心地よく響いて。
その瞬間、ドクンッ、と胸が鳴った。
俺の心臓が警告音を発したのだ。
「……清水さんなら、さっき店のコと裏口から出ていったよ」
なんとか平静を装って聞かれたことに答える。
男は裏口の方にチラリと目をやったが、すぐに俺に向き直って尋ねた。
「君は、この店の従業員なのか?」
「そうだよ。一応、ホスト」
早く出ていけ。
また心臓が鳴る。
「何してる?」
「サボってるだけ。店長に言わないでくださいね」
できるだけ能天気そうに答える。
「本が好きなのか?」
何のための問いなのか。
それを考えるとまた心臓が何かを警告する。
「っていうか、店に出てても面白くないし」
早くフロアに戻ってくれないかとそればかりを考えていた。
だが、戻る気配はなかった。それどころか黙って目の前に立って、それから俺の顎に手をかけた。
口元が動き、発した言葉が頭の中を駆け巡る。
警告音が頭の中で鳴りまくった。
「な……んだよ。気安く触るなよ」
俺はパシッとその手を払い落とした。
そして、一目散にフロアに戻った。

怒らせたかもしれない。
だが、そんなことを気にする余裕はなかった。



その日、ソイツは会社の帰りに運転手付きの車で現れたらしい。
店の常連である清水さんに「たまには飲もう」と呼び付けられて。
「こういう店だって知らなかったみたいで、入ってくるなり驚いてたよ。その時の顔が可愛くってさあ」
端整な顔立ちと細身の身体、濃紺で品のいいスーツをきちんと着こなしていた。いい生活をしているとすぐに分かる。
なんていうのか、金の匂いがした。
水商売に従事するヤツらがそれを見逃すはずはない。
どいつもこいつも、われ先にと酒を注ぎに行った。
華やかに遊んで暮らすための後ろ盾は魅力的だったんだろう。
けど、俺にはどうでも良かった。
もともと誰かに干渉されるのは吐き気がするほど嫌だったし、まして囲われるなんてアホ臭くてやってられねーと思っていたから。
適当に日銭を稼いで日々使い果たして、金が無くなったら水で腹を膨らませて早く寝る。そういう生活で充分だった。

「颯(そう)、おまえも何か飲めよ」
いつの間にかフロアに戻ってきた清水さんが男を呼んだ。
だから店の子たちもみんな『颯さま』と呼んだ。
俺はその呼び方も好きになれなかった。
颯は常にちやほやされていて、話し掛けられると作ったような笑顔で周りの相手をした。
それが、いかにも外面のいい金持ち風で。


けど、颯に近寄らなかったのは、それが理由じゃない。



それから何度か颯は清水さんとバーに来た。
ゲイだという清水さんもルックスは抜群で、小洒落た話をした。
その華やかさに、パトロンなんて何人もいそうな奴らまでこぞって媚びを売りにいったほどだ。
俺は颯たちが来るとさっさと店を引き上げてぼろアパートに帰った。
顔を合わせたくなかったからだ。
どさくさに紛れてキスをしようとするヤツなんて、こんな安っちい店には当たり前のようにいるから、気に入らなかったのは顎に手をかけたことじゃない。
あの時。
颯は、俺の顔をライトのある方に向けて「歳はいくつだ?」と聞いた。
その質問をする理由を考えると呼吸ができなくなるくらい心臓が鳴った。

俺を未成年と思っているからか。それとも……――――

どっちにしても、ロクなことにはならない。
思い切って店を辞めようかとまで思ったが、そしたら、また保証人なしで雇ってくれるところを探さなければならない。
仕事を見つけるということがどんなに大変かは嫌というほど分かっていたから、しばらく様子を見ることにした。
幸い颯は気付いているわけじゃなさそうだった。
店で顔を合わせても、他のホストたちに接する態度と何ら変わらない様子で俺に話し掛けた。
「こいつ、もう何年も前から、大事な人を探してるんだよ。だから、他の男に興味ないらしいんだ」
清水さんがそんな話をしているのがチラッと聞こえた。
俺はその一言で俺に年を聞いた理由を察した。

――――そっか……まだ、アイツのこと探しているんだ。

ほっとすると同時に脱力感に襲われた。
あの日、颯が大切に持っていた写真。
茶色い目で茶色い髪。
まるでハーフみたいに色素が薄い、儚げな少年だった。
『探してるんだ。同じように明るい褐色の瞳で……』
あの時そう告げたのは真剣な瞳。
俺は思わず目を逸らした。
踏み込んではいけない気がしたから。


―――そうだよな……

俺のことなんて覚えてるはずない。
そんなこと、ちょっと考えればすぐに分かったのに。
俺って自惚れるタイプだったんだな……なんて、しみじみ思いながら、もう一度あの日のことは忘れようと決心した。




いつの間にか颯はすっかり常連になっていた。
「また来やがった」
心の中で文句を言いながらも俺はフロアから引くこともできずに客の隣りに座っていた。
その日は朝から微熱があってぼんやりしていた上に、運悪くいつも俺を指名する常連がプレゼントなんて物を持ってきていたので、なかなか逃げることができなかったのだ。
身体がダルくて頭が働かなかったせいで、抜け出す口実も思いつかず、逃げるタイミングが見つからない。
「どうしたの? 元気ないね、トーキくん」
竹元さんと言うその客は、週に一度は必ず来る。俺の他にも何人かお気に入りのホストがいるが、最近は何故か俺にプレゼント攻撃をかけていた。
「ちょっとダルくて。薬、飲んできます」
俺は愛想笑いをしながら席を立った。
酒の回りもめちゃめちゃ早くて、とてもじゃないけどこのままいたら倒れると思った。
仕方なく、店に入って初めて正式な手続きで早退することにした。
店の連中は口を揃えて「ズル休み」と言い、いい人でもできたのかと聞いたけど。
「すみません、お客様にうつすといけないので帰ることにしました」
竹元さんに言い訳をして、ペコリと頭を下げる。
「大丈夫なの、トーキくん?」
竹元さんはアパートまで送ると言って聞かなかったが、ちょっとトイレに行くからと言って軽くかわし、そのまま逃げた。



たかが微熱とタカをくくっていたが、家でシャワーを浴び終わった頃には、かなりヤバイ体温になっていた。
その日暮らしの男のアパートに常備薬なんてものがあるはずもなく、店から持ち出してくれば良かったと後悔しているところにノックの音。
(……そう言えばインターホンが壊れたままだったっけ……)
ここを知っているのはごく限られた知人だけ。
俺は何のためらいもなく下着一枚に首からタオルを掛けた格好でドアを開けた。
そして、驚いた。
「……えっ」
ドアの前にいたのは、店で飲んでいたはずの颯で。
誰が俺のアパートを教えたかはわからないが、とにかく一人で不機嫌そうに立っていた。
何か話し掛けようかと思ったが、第一声が思いつかない。
――――だいたい、なんて呼べばいいんだろう……?
店の奴は『颯さま』と呼んでいるけど。
名字は知らなかった。
「……なんか用?」
結局、面倒くさくなって呼ぶのは止めにした。
しかも思いきり無愛想に尋ねた。
なんで俺のとこに来てるかサッパリわからなかったけれど、理由なんてどうせつまらないことに違いない。
それにしても、用があるなら店で言えばいいのに。
指名さえしたことないのに、いきなりアパートを訪ねてくるヤツなんて見たことがない。
とにかく早いとこ引き上げてもらわねば、と思った矢先、颯が口を開いた。
「単刀直入に言うと、君に興味がある」
いきなりアパートまで来るくらいだから、そりゃあそうなんだろうけど。
颯は拍子抜けするくらい素っ気ない口調でそう言った。
「それで?」
俺のことをすっかり忘れている以上、特に困ることもなかったのだが、この時は応対する余裕さえなかった。身体が最悪にダルイ。
正直なところ、立っているのも辛かった。
「とりあえず今日は薬を持ってきただけだ。飲んだら早く寝なさい」
颯は薬の入った袋を差し出してそう言った。もちろん善意だってことくらいわかっていたが、俺はちょっと腹が立った。
そりゃあ、どう見ても俺より10歳は年上だが、いきなり「寝なさい」はないだろう。
俺は命令口調がキライだ。
第一、コイビトでも保護者でもないのに。
これだから金持ちは嫌だ。なんでも金で買えると思うんじゃねーよ。
「命令口調はやめろよ。俺はおまえのもんじゃない」
店では口が裂けても言えないセリフ。
例えここが俺のアパートで仕事中でもなく、しかも、熱に浮かされて吐いた言葉だとしても、店長が聞いたら即刻俺をクビにしただろう。
何と言っても店一番の上客だ。
本当に実業家で金持ちなのかはわからないが、店では金払いのいい奴が一番エライ。
「とにかく帰んなよ。俺に興味があるなら、店で……」
そこまで言った時、急に目の前が真っ暗になり、世界が落っこちてきた。
俺は不覚にも、颯の目の前で倒れてしまったのだった。



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