しばらくして意識が戻った。
俺はきちんとアパートのせんべい布団に寝かされており、ちゃんとTシャツを着せられていた。
傍らに白衣の中年が座っていた。
夜中の2時半に、颯が呼び付けた医者。
こんな夜中に、こんなボロアパートまで、しかもただのカゼひきゲイホストのために往診なんてご苦労なことだ。これも金の成せるワザか。
「じっとしていてね」
目を覚ました俺に、医者は子供を諭すような口調で言うとおもむろに注射を取り出した。
その口調がかなり気に入らなかったが、「子供じゃねーんだ」と言う気力さえなかった。
まったく動けない。声も出ない。
颯は、と言えば勝手に人んちのクローゼットを開けて着替えやタオルを探している。
タオルはさっき風呂上りに身体を拭いたヤツしかなかった。着替えは必要最低限しか持っていない。その上、最近は体調不良のため一週間以上洗濯物をためていた。多分、これが最後のTシャツだ。
ため息をつく颯の後姿がぼんやりと目に映った。
「……帰れ……よ……俺に、構うな……」
眠り落ちる間際にそう言った。
怠くて、不甲斐なくて、無性にイライラした。
意識の遠くで雨の音がした。
雨の音が苦手なのは、決まってあの夢を見るからなんだろう。
俺がまだ、ちょっとうまくいってないけれど普通の家庭の子供で、こんな世界に縁のなかった頃の夢。
『……ずっと、探してたんだよ』
俺は、そう言って目の前にいる男に抱きついた。
夢の中でも俺はあの時と同じように白いシャツを着ている。
下はジーンズ。
ケンカをしたせいで薄汚れたままだ。
俺を見てもなんの反応も示さない男に、また会えるんじゃないかと思って何度もあの場所に行ったことや、あのあと自分がどんな気持ちだったかを話そうとするけれど、うまく言葉にならない。
『会いたかったんだよ』
ようやく、それだけを伝える。
けど、男は俯いたきり何も言わない。
目を合わそうともしない。
ただ苦しそうに、『ごめん』と言うだけ。
俺は精一杯ナマイキな顔を作って一歩離れる。
泣かないように、一生懸命他のことを考えながら……
男は最後まであの時と同じ。
去っていく時、一度だけ振り返る。
声は届かないけれど、『ごめん』と言われているような気がした。
俺は視界から男がすっかり見えなくなってから、ようやく口にした。
―――――ずっと、好きだった……
涙が溢れた。
あまりにも喉が渇いて目が覚めた。
カーテンの隙間がうっすらと明るくなっていた。雨はもう止んでいる。
久しぶりにあの夢を見た。
初めて俺が好きになった男の夢。
まつげが濡れていた。
名前ばかりの家族。
忘れたい人。
全部切り捨ててしまうために一人になったのに。
意味ないよな……
気分がブルーになると決まってこの夢だ。
自分では気付いていないだけで、少し気が滅入っているんだろう。
熱のせいだ。
だいたい、落ち込むようなことは何もないんだから。
不意に昨日、颯に冷たくしたことを思い出した。
身体はまだ思い通りには動かず、俺の気分を一層ブルーにする。
水……
起き上がろうとした時、視界の外から声がした。
「気がついたか?」
その声に俺は思わず飛び起きた。
「……えっ?」
まだ、いた?
「なんで、いるんだよ」
わざわざ薬を持ってきてくれた上に、唐突に倒れた俺のために医者を呼び、空が白むまで付き添ってくれた相手に言うセリフではない。
自分でもそう思った。
「まだ熱がある。もうしばらく横になってろ」
颯は、店にいる時と違ってぶっきらぼうだった。
本当はこういうヤツなのか、何かと突っかかる俺にイラついているのかは分からないけど……
俺が寝込んでいる間にシャワーを浴びたらしく、髪がさらさらとこぼれ落ちた。
30過ぎかと思っていたが、本当はもっと若いんだろう。
目眩を起こした瞬間と倒れていく自分の身体、それから、抱き留められる瞬間の腕の温もりが、かすかに記憶に残っていた。
これが、俺をしきりにアパートに送りたがるヤツだったりしたら、俺はとっくに犯られて、もっと酷い熱にうなされていたに違いない。
颯はそういうヤツらとは違う人種だ。
金もありルックスもよく、自信に満ちていて相手に不自由しない。
俺ごときを無理やり抱く必要なんてぜんぜんないんだ。
『彼の恋人になれるなら、なんだってする』
店のナンバーワンでさえ、そう言ってた。
―――……そんなヤツがなんで、ここにいるんだろう?
いずれにしても、俺がこの程度の病状でいられるのはきっとコイツのおかげで感謝すべきことなんだろうけど、礼を言うのも何故か悔しくて変に無愛想になる。
みんなに言われるけど、俺ってホントに可愛いげがない。
とにかく、できるだけ関わらないようにしよう。
思うことと言えばそればかり。
それにしてもなんで俺んち、知ってんのかな……
それに、なんで俺が本当に具合が悪いって分かったんだろ……
店の奴らにも「絶対仮病だよ」って言われてたのに。
「飲めよ」
いろんなことがイマイチ理解できずに、ぼんやりしている俺に「颯さま」はスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。
手にしたが、冷たくない。
「冷えてねーじゃん」
「当たり前だ。腹でも壊したらどうする」
「腹なんて壊すかよ。ガキじゃあるまいし」
言ってから、また自己嫌悪。
家の冷蔵庫には水さえも入っていない。これだって颯が買ってきたに違いないのに。
それにしても、俺、いつも以上に突っかかる。
理由?
キケン信号だから。
――――……気付かれたくない。大丈夫だろうか……
思考能力はゼロに等しかった。寝ているのに目が回る。
身体に力が入らない。なんとか起き上がったものの、身体が大きくグラリと揺れた。
うっ、と思って目をつむったが、俺はまたしてもしっかりと支えられた。
俺の背中を抱きかかえ、ペットボトルのキャップを開けてから俺の手に戻した。
颯の腕の中にすっぽりと収まってしまう自分の身体が、なんとなく嫌だった。
散々文句を言ったくせに、俺は遠慮なくペットボトルに口をつけた。
本当に喉はカラカラで、俺はあっという間に500mlを飲み干した。
ぬるいスポーツドリンクをこんなに美味いと思ったのは生まれて初めてだった。
颯は何も言わなかった。
こんな俺に怒りはしなかったけれど、ニコリともしない。
俺の身体を片手で軽々と支えながら、片手で布団をめくる。
またそっと寝かしつけられた。
そんな風にされると、自分がすごく華奢に思えた。
少し悔しい反面、このまま甘えていたいような、妙な気持ち。
―――――甘えるなんて、俺のキャラじゃないよな……
それにしても礼くらい言った方がいい。
マトモに働かない頭でいろいろ思い巡らせてみたものの、結局はボーッとしているだけだ。
なのに颯は淡々と俺の世話をした。
時間はもうすっかり朝で、アパートの隣人が仕事に向かうため出ていく気配がした。
颯は時計を確認すると、慌しく熱冷まし用のシートを俺のおでこに貼り直し、部屋の鍵がどこにあるのかを尋ねた。
そうだよな……コイツだって仕事がある。
「いいよ、開けといて。金目のものなんて何もないから、いつも鍵かけてねーもん」
声がうまく出せなかった。夕べは感じなかった微かな痛みが喉を刺激する。
「襲われたらどうするんだ」
「別にいいよ。減るもんじゃないし。ついでに風邪うつしたら、治るかも」
呆れ果てたと言わんばかりのため息が聞こえた。
颯は眩しそうに窓の外に目をやってから、上着と車のキーを掴んで立ち上がった。
「もしかして、これから仕事行こうとしてんの?」
「当たり前だ」
「寝てなくても仕事になるわけ?」
実業家って聞いてるけど、具体的には何をしてるんだろう。
「おまえはちゃんと寝てろよ」
言葉は乱暴だったけど、その一言は俺のブルーな気持ちにすっと沁み込んだ。
「ふぇ〜い。いってらっしゃ〜い……」
あくび交じりに返事をして手を振った。
颯は肩越しにチラリと、やっぱり呆れたような顔で俺を見た。
店で見かけた颯の姿がぼんやりと頭の中を巡った。
たまに目が合うくらいで、あまり会話をした記憶もない。
……俺に興味ありそうには見えなかったけどな……
けれど、こんな風に誰かに世話を焼かれるのは悪くない。
少し幸せな気分でまた眠った。
今度はブルーな夢なんて見なかった。
あまりにもぐっすり眠り過ぎて、起きたのは夕方だった。
「やば……店に遅れるっ!!」
飛び起きた時、真正面に颯が座っていた。
真面目な顔で夕刊を読んでいた。日経新聞だ。
どこまでもまともな職業のヤツって感じだな。
それより、なんでまたここにいるんだろ……
「仕事じゃなかったわけ?」
「出先から直帰するついでに寄っただけだ」
「あ、そ」
俺はなんとか自力で起き上がると、バスルームに向かった。
「まさか、店に出ようとしてるのか?」
「当然。俺は日給いくらの生活してんの。毎日行かないと食っていけない」
「いくら貰っているんだ?」
「5000円」
「安いんだな」
真顔で言った。ちょっと、ムカツク。
「そう? 俺には大金だけど」
おそらく店の他のホストに比べたら安いんだろう。
けど、俺の場合、文句が言える立場じゃない。
気も利かないし、媚も売らないし、自分を売り込みもしない。
客の指名がなければ、フロアをこっそり引き上げてロッカールームで本を読んでいるくらいだ。
店長に何度も怒られた。
オーナーが俺を贔屓しているから解雇されずに済んでいるけど。
あんな店でもクビになったら大変だ。
一人で家賃を払って食っていけるだけのバイト先を探すのだって一苦労なんだから。
とにかく仕事に行かなくては。
そうじゃなくても昨日はズル休みって言われたんだから。
思い出したら、ちょっとムカついた。
シャワーを浴びて少しスッキリしたが、また現実に直面して憂鬱になった。
よく考えたら着替えがない。
いくら調子が悪くても、洗濯くらいしておけば良かった。
コンビニまで買い物に行くにも、金が無いんだからどうしようもない。
とりあえず今から洗濯して、生乾きでもいいから洗ったものを着ていこう。
店には衣装のスーツがある。行き帰りだけの辛抱だ。
そう思って洗濯機を回し始めたら、いきなりバスルームのドアが開いて袋が投げ込まれた。
しかも、コンビニのビニール袋とかではなく、デパートの紙袋だった。
開けてみると、着替えが一式。下着だけじゃなく、靴下、シャツ、ワークパンツ。
「これ全部買ってきたのかよ……?」
俺はドアから顔だけ出して颯を呼び止めた。
「これ、着ていいってこと?」
颯は俺の部屋に無造作に積まれた本をパラパラとめくりながら一瞬、不思議そうな顔で俺を見た。
だが、すぐに元の顔に戻った。
「早く服を着て、髪を乾かせ。また熱が出るぞ」
さすが、金持ち。恩着せがましいことなんて言わない。
相変わらず命令口調なのは気に入らないけど。
遠慮なく袖を通した。
いつも着ているヨレた服と違って、気分までシャキッとする。
しかも、ジャストサイズ。
何やらせても完璧ってか。
けど、成り行きとは言え、なんでここまでするんだろう。
「な、こんなに世話を焼くってことは、もしかして俺とヤリたい?」
着替えてバスルームを出るなり、颯に尋ねた。
そして返事を待たずに俺は今着たばかりの服のボタンを外しにかかった。
「おまえにはプライドってものはないのか?」
呆れて…と言うレベルも既に通り越して、思いきり軽蔑している気配が漂っていた。
まあ無理もない。普通の人ならそう思うんだろう。
けどさ、ゲイバーに通ってくるヤツで俺に関心があるって言ったら、そーゆーコトだと思うだろ?
「俺にしては大サービスなんだけど」
実際、自分から誘ったことなんてなかった。最近はとことん金に困ることも減り、誰かと寝ることも無くなった。
颯は肩で大きく息をして、首を傾げた。
これってある意味、失礼か。相手に困ってないヤツに言うセリフじゃないもんな。
……ま、いいや、どうでも。
「違うってことは、ただの善意ってやつ?」
「普通はそうだろう?」
「んー、そう?? 俺、あんまりそういうの、お目にかかったことないからさ。隙あらば、ってヤツしか周りにはいないし」
颯はもうウンザリしていた。
そんな顔されても、実際そうなんだから仕方ねーじゃん。
住む世界が違うんだよ。
うちの店のホストなんて、金積めばやらせてくれるもんだと思われてるんだ。
それに実際、そういうヤツもいる。
「場末のバーのホストなんてさ、そんなもんでしょ」
颯の溜息が聞こえた。
この分ならもう二度と俺のアパートへは来ないだろう。
自分で遠ざけようとしたくせに、少し残念な気がした。
髪を乾かし終わると俺は靴を履いた。
颯も立ち上がった。
「店まで送ろう」
深く考えるのも勘ぐるのも止めることにした。
「ホントにいいの?」
よそ行きの笑顔で屈託なく笑って颯の後から車に乗った。
本当はダルくて店まで自力で行く気力がなかっただけなんだけど。
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