それ以来、颯は前と同じように1時か2時にはここに帰ってくるようになった。ずっと颯の机の上にあったあのクリアファイルもいつの間にかなくなっていた。
「東騎クン、寝てた方がいいんじゃない? 顔色悪いわよ?」
言われてみるとなんだか怠い。
けど、部屋の掃除をしないと。いい加減散らかってきて、昨日、颯に注意されたばかりだった。
『綺麗になるまでおまえの部屋ではやらない』ってさ。
……それって、すごい注意の仕方だと思うんだけど。
だから、俺はずっと颯の部屋で寝てる。
颯と一緒に。
「……颯、もう探すの止めたのかな」
掃除機を引き摺りながら、半信半疑で聞いてみた。
諦めたにしても見つかったにしても佐伯さんには話しているはずだと思ったから。
「全部はわからなかったみたいだけど。もういいらしいよ」
佐伯さんは曖昧な返事をした。
「……もういいって?」
諦めたってことなんだろうか。
それとも、俺でもいいってことなんだろうか……
「ん〜、なんて言ったらいいのかわかんないなぁ。……でも、颯ちゃんの中では、あれは東騎くんってことになってるみたいね」
「え……?」
俺は、その答えに失望した。
だって、本当は期待してたんだ。
アイツより俺を選んでくれたんじゃないかって。
でも、違った。
「名前も違うのに。なに考えてるんだかわかんないけど、颯ちゃんは信じて疑ってないのよ」
それが颯の結論。
本当は見つからなかったんだろう。
だから。
俺を代わりにした。
それでいいことにしたんだ。
――――それって……酷いよな……
「やっぱ、アイツじゃなきゃダメなんだ」
俺じゃなくて、アイツじゃなきゃ……
「でも、結果的には東騎クンを選んだってことでしょう?」
「それじゃ、ダメだよ。俺、誰かの代わりなんて、やだ」
颯が俺自身を見てたことなんて、今までに一度だってあるんだろうか。
ここを飛び出しても、颯が探すのはアイツの代わりになった俺なんだ。
「どうしたの。珍しくワガママ言っちゃって。代わりでもなんでも好きは好きなんだから。それでいいじゃないの?」
「嫌だ」
「案外プライド高いのね」
プライドなんかじゃない。
怖いだけだ。
いつ捨てられるかわからない状態で飼われているのが。
突然、アイツの状況が変わって、颯に近づけるようになったら、簡単に放り出されてしまうのに。
いつか、俺を邪魔だと思う日が来るんだろう。
オヤジやお袋が、そうだったように……
雨が降っていた。
冷たくなって何も感じなくなった手足をこすりながら、廊下で言い争うのを聞いていた。
『母親なんだから、東騎の面倒を見るのは当たり前だろう?』
オヤジが怒鳴って。
『あなたこそ、責任があるでしょう?』
お袋が泣き叫んでいた。
あの日、俺はしばらくそこから動けなかった。
吐き気がして、眩暈がして、苦しくて。でも、涙は出なかった。
自分から全部の感情が切り離されたように寒さだけを感じていた。
「……佐伯さん、大事な人に捨てられたこと、ある?」
家を出て、どこへ行こう……―――
目の前の光景から目を逸らすために、そこから逃げ出すことを考えていた。
今の俺も、あの時と同じだ。
「そうねぇ……別れたことなら沢山あるけど。捨てられたなんて思ったことはないわね」
「……そうだよね」
俺が軟弱なだけ。
分かっていても、気持ちはどうにもならない。
あれからしばらくの間、俺は眠っていても眩暈が止まらなかった。
学校で何度か倒れて、でも父親も母親も迎えにはこなかった。
「親にカミングアウトした時は、さすがに嫌な顔されたけど。それにしても捨てられたわけじゃないから東騎クンの気持ちはわからないのよね」
佐伯さんの細い指が髪を撫でてくれる。
やっと顔を上げて、今、自分がいる場所を見た。
佐伯さんがニッコリと笑う。
「けど、颯ちゃんならわかるんじゃないかな? ご両親、離婚してるし」
「……え?」
「それも知らなかったの?……って、まあ、普通はそんなこと、話さないわね」
佐伯さんが俺の手を引っ張った。待島さんも後からついてきた。
連れていかれたのは、颯の部屋。
机の引出しを開けると例の写真が出てきた。
茶色い目の少年は、俺の記憶と少しも違わずに微笑んでいた。
「これ、颯が探してる……」
わずかな痛みを伴って、胸が締め付けられた。
けれど。
「違うわよ。似てるけど」
佐伯さんが思いきり否定した。
「……違うの?」
予想外の返事に戸惑う俺に佐伯さんはサラリと説明してくれた。
「その子は颯ちゃんの弟。離婚した時、お母さんが連れてっちゃったの」
弟?
でも、こいつだ。間違いないのに。
じゃあ、さっきのは……?
ううん、それよりも。
「……佐伯さん、詳しいんだね」
「妬かないでよ。単なる幼なじみってやつなんだから」
幼なじみ。
だから、仲がいいんだ。
俺にはそんな友達もいない。
「でね、颯ちゃんはお父さんが引き取ったんだけど、弟クンは病気がちで5年前に死んじゃったのよ。今でもお墓参りに行ってるわよ」
付け足された言葉にまた疑問が膨らんだ。
―――5年前……?
だって、あの時、颯が言ったんだ。
探してるって。
助けてもらったくせにお礼も言わずにふて腐れてる俺に。
『おまえくらいの年で、おまえみたいな茶色い目の……』
それで、この写真を見せられた。
それも俺の記憶違い?
……そんなはず、ない。
「じゃあ、颯は誰を探してるの?」
「言わなかったっけ? 颯ちゃんの『一生の不覚』」
聞いた。
けど、それがコイツだと思ってたから……
だって、あの時、颯が持っていたのと同じ写真なのに。
「前にね、お墓参りの帰りに偶然街で拾っちゃったらしいのよ。茶色い目の淋しそうな子で、つい弟のこと思い出しちゃったって」
違う?
ホントにコイツじゃない?
じゃあ、俺の知らないヤツが他にもまだいるんだろうか……?
頭が空白になりかけていて、佐伯さんの話が素通りしていく。
「颯ちゃん、いい加減酔っ払ってて、魔が差してその勢いで無理やりやっちゃって。その子も酔っ払ってケンカした後で、こんな時間にお酒飲んで裏町でケンカしてるくらいだから大学生か高校生だと思ってたのに酔いが覚めてその子の持ち物見たら、中学生だったらしいのよ」
それに待島さんも口を挟む。
「そうそう、ノブタカくん」
佐伯さんが机の置くから引っ張り出してヒラつかせたファイルには、颯が探してるヤツの似顔絵、それから特徴……
『頬に3〜4センチの傷。苗字か名前が“信貴”』
―――やっと、判った
”信貴”は『ノブタカ』じゃなくて、『シギ』と読むんだ。
俺の、父親の姓……
「その子が持ってたジャージに書いてあったって言ってたのよね?」
「ジャージには普通、苗字を書くだろう?」
「あ、それもそうね。クラスに同じ苗字の子がいて名前の方にしたとか?」
「んー……その場合は苗字の下にカッコ書きで名前の一文字だけを入れたりするんじゃないのかなぁ……」
佐伯さんと待島さんの話は既に俺の耳に入ってこなかった。
颯と会った時、確かにジャージを持ってた。
中学の校章と自分の名前の入った……―――
あの時は、まだ信貴の姓だった。
『おまえ、中学はどこだ?』
だから、あんなことを聞いたんだ。
名前も聞かれた、苗字も聞かれた、歳も聞かれた。しゃべり方が似てると言われた。
見た目は、わからなくて当然だ。あれから俺は10センチ以上背が伸びた。
今は髪も染めてる。
何より、あの時はケンカした後で、顔も腫れていた。痣もあった。
「東騎クン、どうしたの? 顔色、めちゃくちゃ悪いわよ?」
「え? あ、なんでも……」
『一生の不覚』……その相手が、俺?
頭が上手く働かない。心臓が高鳴る。目眩が……―――――
「東騎クン? ちょっと、東騎クンっ?! しっかりしてっ!!」
佐伯さんの声があっという間に遠くなった。
俺が倒れたと聞いて、颯はすぐに帰ってきたらしい。
目覚めるとベッドの脇に座っていた。
「……信貴って……俺の、オヤジの苗字……なんだ」
俺の告白に颯は、「知ってたよ」と答えた。
それから俺に問い返した。
「何故、言わなかった? 適当に嘘をついておけばいいと思ったのか?」
落ち着いた声だった。
「嘘なんて……」
ついてた。
俺は最初から颯に気付いてた。
横浜の件も、歳も……。でも、それだけだろ?
颯が探しているのは自分かもしれないって思った時もあった。
けど。
もしかしたら、なんてもう2度と考えちゃいけないって何度も自分に言い聞かせた。
「颯こそ、知ってたなら……」
言ってくれれば良かったのに。
いや、何度もいろんなこと、聞かれたっけ。
やっぱ、俺のせいか。
「言わなかったのは、おまえがこの話をしたがらなかったからだ。言いたくない理由があったんだろう?」
颯はもう一度俺に同じことを尋ねた。
「何で、俺に言わなかった?」
「だって、」
本当の気持ちは、いつか言わなくてはいけないと分かってた。
けど、それはきっとここを出ていく時だと思ってた。
「だって……あの時、颯、俺に『ごめん』って言ったじゃねーか。……それって、ヤバイことやっちまったと思ったからだろ?」
颯は黙っていた。
「……自分が、ヤバイことした相手なんて、俺なら二度と会いたくないよ」
気付かれなければ、もう少し一緒にいられると思った。
ハタチの俺なら、このまま颯と一緒にいられると思った。
「颯とずっと一緒にいたかった。だから、言わなかった」
何度も言おうと思ったけど、ホントのことを話したら、また『ごめん』て言われそうで、怖くて言えなかった。
ベッドの上で膝を抱えて泣いている俺の隣りに颯は静かに腰を下ろした。
「……『ごめん』は、そういう意味じゃなかったんだがな」
「だって、」
他の意味には取れなかった。
「悪かったな。……俺も、どうしていいのかわからなかったんだ」
そっと俺の肩を抱いた。
それから、髪に口付けた。
ずっと忘れられなかったと言って抱き締めた。
「けど、どこかで絶対おまえだって思ってたよ」
だから、何回も同じことを聞いた。
諦めきれなかったからじゃなくって、俺の返事が二年前とそっくりだったからだと言って、颯は笑った。
「進歩のないヤツだな」
「うるさいよっ。気付いてるなら、ちょっとくらい態度に出してくれたらよかっただろ? 趣味悪いな」
そしたら、颯はもっと可笑しそうに笑い出した。
「したよ。おまえが気付かなかっただけだ」
「いつ?」
「分かってないなら、いい。もう済んだことだ」
颯が何を思い出して笑っているのか、見当もつかなかった。
けど、抱き締められると初めて全てがしっくりと馴染んだような気がした。
「颯だって、ぜんぜん変わってないよ」
あの時と少しも変わらない颯の腕の中で、泣きながら呟いた。
「颯ちゃ〜ん、雨降ってきたわよ」
佐伯さんが憂鬱そうな声と共に俺の部屋のドアを全開にした。
待島さんも心配そうに顔を出した。
「東騎クン、もう大丈夫なの?」
「……うん」
こんな季節の雨は俺を少し感傷的にさせるけど。
無意識に溜め息をつくと、颯がギュッと俺を抱き締めた。
「颯……?」
見上げると心配そうな視線とぶつかった。
「やだな、大丈夫だよ」
少し笑って抱き締め返す。
「あ〜ら、やだ。公衆の面前で」
ニヤニヤ笑っている佐伯さんと待島さんが目に入ったけれど。
颯はお構いなしだった。
結構キツい颯のキスにまた眩暈がしそうだった。
「颯ちゃんも人前でそんなことするようになっちゃったのねぇ。昔はオクテで可愛かったのに」
俺たちを冷やかしながら、佐伯さんと待島さんがリビングに戻っていく。
佐伯さんの捨て台詞に颯が苦笑いしてた。
「颯、子供の頃、どんなだった?」
「別に普通だったと思うけどな」
なんだか照れているような颯が妙に可愛く見えて、クスッと笑ったらいきなり抱き上げられた。
「ちょっと、颯??」
そのまま寝かしつけられた。
「佐伯が、子供の頃の写真を持ってるはずだ」
「それはさ、見せてもらってもいいってことなの?」
「興味があるならな」
颯がまだ苦笑いしてるから、余計に見たくなった。
「あるに決まってるじゃん」
きっと可愛かったんだろうな。
颯のサラサラの髪に手を伸ばす。
「颯も俺の写真、見たい?」
その手を掴んで颯が微笑む。
「あ、でも、」
俺の中には家族で写真を撮った記憶がなかった。
あったとしてもごくわずかに違いない。
それよりも。
離婚する時、お袋の財産になった家には、もしかしたら既に彼女の新しい家族がいるのかもしれない。そしたら、俺のものなんてとっくに処分されているだろう。
「……一枚も残ってなかったら、ごめん」
嫌なことに気付いて、少し滅入った。
自分で言い出した事なのに。
「東騎、」
「……うん」
「写真が残ってなかったら俺が撮ってやるから。真っ直ぐここに帰ってこいよ」
颯がそんなことを言うから。
俺はまた泣き出して、でも、泣いたまま笑って頷いた。
「明日、家に電話してみるよ」
きっと、もう俺の写真なんか残ってないんだろうけど。
――――それで、いいと思った。
end
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