翌朝早く出掛ける用意をする俺に佐伯さんがびっくりした顔をした。
「どうしたの、早起きなんてして? 今日は昼のバイトないんでしょ?」
「うん。たまには散歩しようかと思ってさ」
バイトの情報誌でも買ってこようかと思っていた。
仕事を増やしたくらいで一人暮しができるのかは怪しいものだけど。
それに、まだ颯に金も返してない。
……なんか、気が重いな。
佐伯さんは探るような目で俺を見ていたが、やがて口を開いた。
「ふうん。僕も一緒に行こうかな。コンビニでしょ?」
「…えっ、」
「当たりなんだ?……ってことは、昨日の聞いちゃったのね」
やっぱり、お見通し。
佐伯さんには隠し事ができない。
「バイトと部屋、探さないといけないかなって」
正直に白状した。きっと佐伯さんに保証人になってもらわなきゃいけないから。
そこまで世話になっていいのか、わからなかったけど。
佐伯さんに迷惑をかけないようにするためなら、頑張れるような気がしたから。
「東騎クンはここにいていいんだよ?」
「うん。でもさ、」
その先を口にすることができなかったけど、佐伯さんは沈黙の意味をわかってくれた。
「そんなに急がなくてもいいのに。まだ、ノブタカくんかどうか、はっきりは判らないんだから」
「だとしても」
気付いちゃったんだよな、俺。
颯が一番大事なのは、結局、そいつなんだって。
俺は代わりでしかないんだって。
「まあ、いい機会だから、部屋探しでもしてみるよ」
努めて明るく言ったつもりだったけど。
佐伯さんの手が俺の髪を撫でた。
「東騎クン、いい子ね」
「また、子供扱いするし」
普段なら笑って茶化すのに。今は笑顔にならない。
結構、参ってるんだな、俺……
「そりゃあ、10も年下だったらね」
「佐伯さん、27歳?」
まあ、そんくらいか。ちょっと年齢不詳な感じだけど。
「ちなみにマチちゃんは26歳」
佐伯さんより年下なんだ。初めて知った。
「颯ちゃん、いくつか知ってるの?」
佐伯さんの目は、もっと奥深いところを尋ねていた。
俺が颯に何も聞けずにいるのも、お見通し。
「……知らない」
「バカね。聞けばいいのに」
簡単に言うけど。
「颯、いくつなの?」
「教えないわよ。本人に聞きなさいって」
「そう言われてもいきなり年なんて聞けないよな」
「颯ちゃんはいきなりでもナンでも聞きたいことは聞くわよ。東騎クンも遠慮なんかしなくていいの」
そうだけど。
「他にも聞きたいコトあるんじゃないの? 言いたいことだってあるんでしょう?」
黙ったままの俺に少しだけ厳しい口調で付け足した。
「居候だからとか、お金借りてるからとか。そんなことで遠慮する必要なんてないんだから。聞きたいことは聞く。言いたいことは言う。颯ちゃんだって、そうして欲しいと思ってるわよ」
だとしても、今更……
――――今更って言葉は、颯の前ではご法度だったっけ……
「そうじゃなくても、颯ちゃんは細かい所に気が回らない生活してるんだから。東騎クンのことまで心配なんかしてられないのよ?」
「えらい人っぽいもんな」
「まさか会社でナニしてるかも知らないわけ??」
「……うん」
「呆れてモノも言えないわね」
とうとう佐伯さんに見放されてしまった。
「まあ、いいけど。努力はしなさいよ。それでもダメでここを出るんだったら、いくらでも保証人になってあげるから」
「努力って……?」
「ただ、ぼーっとしてても欲しい物は手に入らないってことよ。颯ちゃんのことも、東騎クンの楽しい未来もね」
また髪を撫でる。優しい手。
今まで誰からも貰えなかったものをこんなに簡単にくれる人がいる。
「うん。とりあえず、コンビニ行ってくる。なんか買ってくるものある?」
「じゃあ、冷たいお茶。一リットル。紙パックのにしてね」
「ふえ〜い」
目先のことしか考えてこなかったから、佐伯さんの言葉は正直言って痛かった。
颯に金を返すこと。
一人で生活していくこと。
そんな必要最低限のことばかり。
でも。
言い訳みたいだけれど、敢えてそれだけしか考えないようにしていたんだ。
颯に何一つ聞かなかったのも、いろんなことを知ってからじゃ別れるのが辛いと思ったから。
きっとこんなことになるって、ずっと心のどこかで思ってたから。
コンビニでアルバイト情報誌と賃貸物件の情報誌を買って部屋に戻った。
「ただいま。はい、お茶」
佐伯さんはパソコンの前で仕事中だった。
お茶を冷蔵庫に入れると、俺を自分の部屋に手招きした。
「ね、東騎クン。ライバルの顔、見たくない?」
「颯が探してるヤツ?」
「そう。ノブタカくん」
あの写真のことを言ってるんだと思って画面を覗き込んだが、映し出されていたのは似顔絵だった。
明るい茶色の目もあの写真より少し大人っぽい。
それに、あの写真のように触ったら壊れてしまいそうな儚げな雰囲気なんてなくて、なんだか小生意気そうな印象だった。
なによりも、俺と似ているような気がした。
「似てるわよね、東騎クンに」
「……うん」
多分、これが少し成長したアイツの予想図なんだろう。
「ホントはね、東騎クンを最初に見た時、颯ちゃんが面倒を見たがった理由は分かってたんだけど」
似てるから。
それは、俺もわかってた。
――――…はずだった。
繋ぎ止めるものは、たったそれだけ。
本物が見つかれば代わりは要らなくなる。
「努力なんかしてもさ、」
空白になる。
颯の唇の感触も、匂いも、温度も。
最初に抱かれた日のことも。
「絶対、得られないものって、あると思わない……?」
あの日の雨の音だけが耳に残る。
肌寒さと、湿った匂い。
何年も颯が思い続けた相手に、どうやったら勝てるって?
―――……誰か、教えてくれよ……
何日経ったのか。
俺はずっとぼんやりしてた。
リビングで本を読んでいたのに、颯が帰ってきたことにも気付かなかった。
すごく久しぶりだったのに、ぜんぜん気付かなかった。
「何を考えてる?」
颯に声をかけられた時、驚いて身体が跳ねた。
「そんなに驚くって、どういうことだ?」
俺から本を取り上げた。
「さっきから、全くページをめくってない」
本なんて読んでいないのもバレバレだった。
その声さえ遠くなる。俺はまた放心状態に突入していた。
「……颯ってさ、」
ぼんやりしたまま口を開いた。
「何だ?」
颯が俺の隣りに腰を下ろした。
「年、いくつなの?」
なんでこんなことを聞いているんだろう。
別れるのに。
辛くなるだけなのに。
「27だ。それがどうかしたのか?」
訝しげに俺を見る颯の視線には気付かない振りをした。
「会社で何してんの?」
「取締役だ。オヤジの会社だからな」
「ふうん……それじゃ、忙しいよな……」
脈絡のない会話。
意識などなくて、自分でも何を言ったのかわかっていなかった。
颯は俺のおでこに手を当てて、熱がないかを確認していた。
大丈夫そうだと判ると、立ち上がって電話の横のメモを持ってきた。それからテーブルの上で数字を書いて俺に渡した。
「家からかけろよ。そしたらおまえだって分かる」
手の中に、携帯の電話番号があった。
「かけて……いいってこと?」
そのメモをまともに見るのが怖いような気がして、なんとなく4つに折りたたんだ。
「今度は破って捨てるなよ」
黙って頷いた。
最初に会ったあの時と同じだな。
何かあったら遠慮なく電話しろって、颯が渡してくれた。
けど、翌朝俺はそれを捨てた。
―――あれ……颯、さっき、なんて……―――?
何かが引っ掛かったのに。
俺の思考はそこで止められた。
「忙しければ出ないこともあるからな」
「え……あ、うん?……分かってるよ」
そんな返事をした時、待島さんがバスルームから出てきて、颯に風呂に入るように言った。
颯は俺の方を振り返りながら部屋に着替えを取りにいった。
「あの颯ちゃんが『忙しければ出ない』なんてわざわざ言うんだもんね〜」
佐伯さんが雑誌をめくりながら呟いた。
「それがどうかした?」
忙しければ出ないってことくらい俺だってわかるけど。
「鈍感ね、東騎クンは」
最近、佐伯さんには呆れられ続けている。
「電話に出なくても落ち込むなってことでしょ」
「そんなことで落ち込まないって」
「でも、今日は落ち込んでるじゃない。颯ちゃんがあんまりここに来れないのは仕事で忙しいせいかもしれないのに」
……そうだけど。
「今日みたいに落ち込んでる東騎クンは見たくないのよ、きっと」
そうなんだろうか。
また、期待しそうになって慌てて首を振る。
今だけでも、素直に喜んでおいた方がいいんだろうか……
後で辛くても……?
それも、なんか刹那的だよな。
あさっての方向を見たままで、佐伯さんに見つからないよう、こっそり溜め息をついた。
シャワーを浴びた颯は、無言で俺の手を掴むと自分の部屋に連れていった。
待島さんと佐伯さんがニヤニヤ笑っていた。
「颯、俺、明日は昼間のバイトがあるんだけど」
「何、期待してるんだ。もう寝るぞ」
「え?」
寝るって、眠るだけ?
「ちょっと、颯??」
颯はぜんぜん平気だった。
ただ俺を抱き締めて眠るだけでも。
そんなの、俺はどうすればいいんだよ??
「颯、なあ、颯ってば」
「バイトなんだろ? 早く寝ろよ」
くっそー……絶対、ワザとやってる。
性格悪いよな。
睨み返した時、颯の目はちゃんと俺を見ていた。
何も言わないけど。
心配してた。
「颯、あのさ、」
「なんだ?」
「俺、しばらくここにいていい?」
これでも俺の精一杯。
もっと普通に甘えられたらどんなにいいだろうと思う。
颯なら受け留めてくれるって分かっているのに。
それでも、怖くてできなかった。
拒否された時の痛みが、俺の中にはまだ残っていたから。
颯は何も言わずに唇を合わせた。長いキスの後、真面目な顔で俺に言った。
「勝手に出ていったら、見つかるまで探すからな」
アイツと同じように?
「颯が、俺を、探すの?」
声に出してみても、実感が湧かなかった。
「ああ」
颯は少しだけ微笑んで、俺の服に手をかけた。
「明日、バイト中に寝るなよ?」
この先が長いのはわかっているんだけど。
「……うん」
俺も颯のパジャマのボタンを外しながら、キスを返した。
抱き締めたら、抱き締め返してくれるのが嬉しくて。
何度も何度も颯を抱き締めた。
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