「東騎、勉強してるのか？」
カップに口をつけたままボンヤリしているとドアの方から颯の声が聞こえた。
今日もずいぶんと早いご帰宅だった。
擦れ違わないように俺が家にいる日を選んで早く帰ってきてるんだろう。
……会社、大丈夫なんだろうか。
「お帰り、颯ちゃん」
俺の代わりに佐伯さんがドアを開けた。
「どうなんだ、東騎は？」
「マチちゃんが言ってたけど、なんだか優秀らしいわよ。ダテに本ばっかり読んでないわね」
颯は黙って俺のノートを覗き込んだ。
「中学の勉強は終わったのか？」
「うん。英語とか古典とか以外は。興味あるところはどんどんやれって待島さんが言うから。先に数学」
文系は置き去りだった。でも、本を読んでいたせいか歴史とか現代文学はそれなりになんとかなっていた。
英語も店に来る外人さんの話し相手をさせられるせいでヒアリングはまあまあイケる。
ただし、文法は全くダメで、スペルもメチャクチャだ。
どうにも致命的。
だいたい俺の生活になんの関係もないんだから、仕方ないだろ？
「まあ、やる気はあるようだな」
それだけ言うと颯は出ていってしまった。
「颯ちゃん、嬉しそうね」
俺も嬉しかった。
颯が喜んでくれるから。
自分のためにはできない努力も、颯と一緒に居るためだと思えばどうってことないから不思議だ。
それにしても。
スタートしてそれほど経ってないのに、既にちょっと息切れ気味。
大学なんて遥か彼方の目標じゃなくて、もうちょっと手の届きそうなゴールがあればいいのに。
「ご褒美があればなぁ……」
思わず呟いたら、背後から声がした。
「何が欲しいんだ？」
「うわっ……」
いつの間にか颯が戻ってきていた。
「脅かすなよ」
「おまえが勝手に驚いているんだろう？」
「だってさ、ノックもなしに……」
「俺の家なんだからいいだろう？」
そりゃあ、そうだけど。
「で、何が欲しいんだって？」
「別に……欲しい物があるわけじゃないんだけどさ」
はずみで言っただけなんだけど。
颯はドアに寄り掛かったまま、静かに返事を待っていた。
……どうしようかなぁ。
フリーズしていると、佐伯さんがこっそり耳打ちしてきた。
いい機会だから好きなものねだっちゃいなさいよって。
「でも、俺、ホントに欲しいものなんて……」
「例えば、颯ちゃんとか？」
佐伯さんがからかっても、颯は真面目な顔のままだった。
「やぁだ、颯ちゃん。今でも東騎クンのものなんだからって顔してる」
颯は肯定もしなかったけれど、否定もしなかった。
「あら、やだ。ごちそうさま」
佐伯さんは勝手に一人で納得してた。
「何でも言えよ」
「ん〜……」
あればいいなと思うものが一つだけあった。
「じゃあ、自転車」
暑い中、バイト先まで延々と歩かなくて済むし。
「そうだな。夜は危ないから、歩きよりはいいだろう」
「往復にかかる時間を考えたら、一時間くらい余計に勉強できるしね」
そっか。
そうだな。
って真面目に考えてたら、颯がいきなり俺を抱き上げた。
「うわっ……」
「でも、今日はもう止めておけよ」
「なんで？？」
「問題集は終わったんだろ？」
「うん、そうだけど」
「紅茶も飲み終わったようだし」
「うん。だから……？」
颯は答えなかったのに。
「ニブいわよ。東騎クン。その体勢で他にナニがあると思ってるの？」
佐伯さんが呆れた。
「え？ ええっと？？」
慌ててたら、
「本当に鈍いな」
颯にまでバカにされた。
「違うって。ちょっと焦っただけで、分かってないわけじゃ……」
っていうか、今、わかった。
颯がニヤリと笑った。
「じゃあね、颯ちゃん、東騎クン。遅くならないうちに寝るのよ〜」
佐伯さんがバイバイと手を振った。


「あ、あのさ、颯」
俺はあっという間に颯のベッドに寝かし付けられていた。
「何だ？」
「あ、え〜と……」
やっぱり自転車はバイト代で買うからいいと言うつもりだった。
でも、ご褒美は颯の気持ちだってことも分かってるから、断わるようなことも言えなくて。
俺はそこで固まってしまった。
颯は相変わらず焦れたり苛ついたりすることもなく、俺の言葉を待っていた。
静かに俺を見つめたまま。
だから余計に言えなくて。
考えた挙句、もの凄い婉曲表現をした。
「……俺、颯だけいれば、いいよ……」
最後の方は声が小さくなっていた。
言ってる途中で後悔したから。
断わったことを颯はどう思うんだろう。
やっぱ、不愉快だろうな。
心配になってちらりと颯を盗み見たら、颯はふ〜んって顔で笑ってた。
「……颯？」
その表情が解せなくて、小さく呼んでみたら、予想外の一言が返ってきた。
「鈍いと思ってたが、そうでもないんだな」
「へ？？」
意味がわからなくて呆然としている俺の服を脱がし始めた。
「あの……さ、」
なんで自転車の話がこんな展開になってるんだろう？
「おまえに誘われるなんて１０年は先かと思ってたけどな」
「え？？」
状況を悟った頃にはすっかり服は脱がされていて、俺は颯の腕の中だった。
そんなつもりじゃなかったんだけど。
「……ん、んん」
長いキスに半分意識を奪われながら、明日の予定を心の中で確認した。
明日は昼のバイトはないから、午前中は勉強だけだ。
「颯は……明日も普通に会社だよね？」
たまに休日出勤の振替休日だったりするけど。そんなことは滅多にないし。
「それは、朝までやりたいってことなのか？」
「え？ 違うって」
慌てて顔を上げたら、颯が笑ってた。
ちぇっ。
俺をからかってるんだ。
「もう、颯、性格悪……」
颯は笑ったまま、ふて腐れる俺の頬にキスをした。
それから耳元で囁いた。
「朝まで、付き合えよ」

自分のことに精一杯で、時間を作る事さえしなかった。
颯に任せきりで、なのに肝心な時に変に照れて拒んだりして。
なのに颯はいつでも何にも言わなかった。
けど。
颯の肌が熱かった。
いつもより、ずっと。
熱が欲しくて、身体を合わせて、首に腕を回した。
首筋に顔を埋めて、脚を絡ませた時、痛いほどきつく抱き締められた。
「颯、苦しいって……」
「おまえが焦らすからだろ」
そんなことを言うのも、相変わらず憎たらしいくらいに落ち着いた声。
「焦らしてなんか……あっ、」
颯の手が後ろに回った。
思わず身体を引いたけれど、脚を絡め取られていて身動きはできなかった。
いつの間にローションなんてつけたのか、指がスルリと割れ目をなぞり、入り口を探し当てる。
触れられただけでヒクヒクと動くその場所をゆっくりと解していく。
ツプリと音を立てて入り込む指先が中で蠢きながら奥へ進む。
「あ、……んんっ、ぁ……」
指が増やされるたびに声が漏れる。
「ダメ…颯……ん、あぁっ」
我慢できなくて颯にしがみついたまま身体を揺するとまた耳元で声がした。
「遠慮せずに達けよ。」
「だっ……て……」
「朝まで我慢するつもりじゃないんだろう？」
颯の少し意地悪い声さえ、気持ちを煽るだけで。
「……颯、」
その先は言葉にならなくて。
目を閉じて、全部、颯に任せた。


朝なんてあっという間だった。
「……颯、会社で眠くなったりしないのかよ？」
「眠くなってる暇なんてないからな」
颯は当然のようにそう答えると俺を抱き直した。
「東騎」
呼ばれて顔を上げると目が合った。
「なに？」
たぶん、颯はいつもこんな風に俺を見ているんだろう。
瞳の奥を覗き込むように。
それから。
少し心配そうに。
「ずっと、ここに居ろよ」
優しく頬に触れる唇を感じながら目を閉じた。
「…うん……俺、頑張るから」
目は閉じていても、颯がほんの少し微笑んだのが分かった。



翌朝、眠い目を擦りながら机に向かった。
もちろん颯はとっくに会社に行った後だった。
俺の部屋の机に『しっかり勉強しろよ』という颯のメモが乗っていた。
「東騎くん、眠そうだね」
待島さんが笑っていた。
「うん……なんか、あんまり寝れなくて」
油断をするとあくびが出る。
「颯に寝かせて貰えなかったんだ？」
「……うん。なんか、そんなことになっちゃって」
ぼーっとしたまま言い訳をすると佐伯さんに呆れ果てられた。
「当たり前でしょ。東騎クンったら、相変わらず読みが浅いわよ。なんで昨日、颯ちゃんがあんなに早く帰ってきたと思うのよ？」
なんでって……
「……仕事が早く終わったから」
それ以外の理由があるかよ…って思ったのは俺だけだったらしい。
待島さんまで「東騎くんは本当に可愛いよね」と言って笑った。
「やぁね、もう。東騎クンが朝まで付き合える日だからに決まってるでしょ？ そうは思わなかったの？」
「思わなかったよ」
普通はそんなこと思わないって。
「……にっぶ〜い」
「そんなこと言ったってさ」
「でも、ちゃんと朝まで付き合ってあげたのね〜」
いい子いい子とか言われて頭を撫でられた。
それって誉められるようなことかな。
「だって、颯に『誘った責任は取れよ』なんて言われてさ……」
「そりゃあ、東騎クンに責任アリよ。颯ちゃんだけいればいいなんて本人に向かって言ったら、ねぇ？」
佐伯さん、目が三角だし。
「自転車は自分で買うからいいっていう意味だよ」
「東騎クンのお勉強部屋で言ったのなら、そういう意味かもしれないけど」
佐伯さんがうふふと笑った。
「……ベッドで言ったら、意味は違うのよ。どんなにお子ちゃまでもそれくらいはわからないとね？」
ダメよね、東騎クンは……なんて言いながら、佐伯さんは妙に楽しそうだった。
待島さんに助けを求めてもそれは同じことで。
「男だったら、それ以外の意味には受け取らないだろうね」
なんて言われてしまった。
１０も離れているとさ。
やっぱ、俺だけ子供なんだと思ったりもするわけで。
「これってジェネレーション・ギャップ？」
俺の独り言に、
「意味が違うわよ」
佐伯さんが突っ込み、
「はい。じゃあ、『ジェネレーション』のスペルを書いてみて」
待島さんがペンを取り出した。
「ふえ〜……」
渋々ノートの隅に、一文字目を書いた。
その瞬間に待島さんが大きなバツをつけた。
「ぶぶ〜。不正解」
ケラケラと佐伯さんが笑う。
「なんで、『Ｊ』で始まるのよ〜。センスないわね〜」
「Ｊじゃないの？ じゃあ、何？？」
また大笑いされて。

この先、どれくらい努力が必要なのかを考えたら眩暈がしたけれど。
これ以上はないくらい温かい家庭に、言葉では言えないくらい感謝した。


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