「もう、いいよ、その話はさ……」
休みはもう終わりで、また颯とはしばらく会えない毎日になるんだから。
そう思ったら、なんだか急に淋しくなった。
いつもの生活に戻るだけなのに。
なんかダメだな、俺。
「でね、東騎クン」
そんな気持ちを見透かしたように佐伯さんがほっぺをつねった。
「ふぇ……なに?」
目の前に顔を近づけてにっこり笑って。
「颯ちゃんの帰りが遅い日でも、たまにはあのパジャマ着てあげてね?」
「……うん」
そんなこと言わなくてもせっかく買ってもらったんだから、着て寝るけど。
「でもね、」
まだ注意事項があるらしい。
「なに?」
「パジャマは颯ちゃんの部屋から持ち出し禁止よ」
「それじゃ、着て寝られないじゃん。颯なんてたまにしか早く帰ってこないんだから」
ほっぺを掴んでいた佐伯さんの指にちょこっと力が入った。
「やあねぇ。ほんとにお子ちゃまなんだから。『佐伯さんがたまにはパジャマ着てって言うから、仕方なくやってんだよ』って顔で颯ちゃんのベッドで寝てればいいのよ」
そんなこと言われても、本人が帰ってきてないのに颯の部屋では寝られないよな。
「でもさ……」
抵抗しようとしたんだけど、あっさり却下された。
「グチャグチャ言わないの。そんなこと言ってるから、一週間も颯ちゃんの顔見れなくなっちゃうのよ?」
本当に佐伯さんってすごいなと思うけど。
「そんなに気を回してくれなくっても……」
「だって、東騎クン、颯ちゃんに『一緒に寝てよ』って言えないでしょ」
そうだけど……。
なんでそんなこと分かるんだろ?
「いっつもいっつも、先に自分の部屋で寝ちゃって。颯ちゃんがうちに帰って真っ先に東騎クンの顔を見にいってることも知らないでしょ?」
「……へ?」
颯が?
俺の顔を見に?
「やっぱりねぇ……可哀想な颯ちゃん。ぜんぜん報われてないのねぇ」
「だって、俺、その時、もう寝てるんだからさ、」
だったら、起こしてくれればいいのに。
「だからね、少なくとも次の日のバイトが夜だけの時は、そのパジャマ着て颯ちゃんのベッドで寝てあげてね?」
佐伯さんが『颯ちゃんのベッドで』の部分だけを大きな声で言うんだけど。
「でも、」
「せっかく買ってきてあげたのに。嫌なの?」
佐伯さんの口調。
抵抗の余地はなさそうなカンジだ。
「でも、帰ってきて俺が颯の部屋で寝てるの見たら驚かない?」
だったら颯が帰ってくるまで起きてればいいんだけど。
どうせガマンできなくなってくーくー寝てしまうに決まってる。
「寝てたっていいのよ。喜ぶわよ、絶対」
そんな大きな声で『絶対』とか言わなくてもって思いながら、目線で待島さんに助けを求めたけど、その点については同意見らしく、にこやかに頷いてるだけだった。
「でも、でも、なんかさ……」
それって、恥ずかしいよな?
「もう〜、ダメよ。そんなこと言ってると他のヒトに取られちゃうわよ? 東騎クンが思ってるよりも颯ちゃんはずっとモテモテなんだから」
そんなこと佐伯さんに言われなくても分かってる。
バイト先の居酒屋にもバーにも毎日いろんな人が来るけど、贔屓目ナシに颯が一番カッコいい。
颯がたまに連れてくるすっごい美人の秘書だって、きっと颯のことが好きなんだ。
颯を見る目がぜんぜん違う。
「じゃ、早速、今日からいってらっしゃい」
「え? だって、俺、明日、昼のバイトあるし」
今日、ずっと颯の部屋にいたし。
「バカね。颯ちゃんだって朝までなんてしないわよ」
そりゃあ、そうだよ。
だって昼間ずっとさ……って佐伯さんには言えないけど。
「ほらほら。パジャマに着替えてこっそりベッドに入ってればいいだけでしょ?」
「あ〜……でもさ」
「東騎クン、僕の言うこと聞けないの? せっかくパジャマ買ってきてあげたのに」
そう来たか。
「……わかったよ。いいよ。行くってば」
佐伯さんが颯の部屋の前までついてきて、俺を押し込むとバタンとドアを閉めた。
颯が戻ってきたら、なんて言えばいんだろう。
だって、昼にもやったのに、またヤリたいみたいで。
颯はそういうの好きじゃないよ、きっと。
ひとりで赤くなったり青くなったりしてたら、いつの間にか颯が戻ってきてた。
「楽しそうだな」
って。
いきなり声を掛けられて、心臓が3秒止まった。
……俺、どんな顔してたんだろう?
「仕事、もう、いいの?」
他に言葉が浮かばなかった。
目の前の状況がぐるぐる頭を駆け巡るだけで、次の言葉も浮かんでこない。
けど、颯は自分もさっさとパジャマに着替えると当然のようにベッドに入ってきて。
「佐伯には逆らえなかったか」
そう言って笑った。
なんだ。バレてるのか。
ホッとしたのはその後の颯の行動まで予測できなかったからだけど。
「せっかく着たんだが、まあ、仕方ないな」
……え?
と思う間もなく。
俺のパジャマのボタンは外されていた。
「だって、颯、昼間も……」
言いかけたけど。
最後までは言わせてもらえなかった。
それほどエアコンを効かせていない部屋で、汗ばむほど抱き合って。
「う、んっ、んんっ……」
昼間、飽きるほどしたくせに、それでもまだ俺の身体は勝手に収縮した。
颯の膝の上に抱き上げられて、ギュッと抱き付いたまま。
叫びたくても唇は塞がれてて。
「……う、んんっっ……!」
ガマンできなくて、意識も体重も一気に全部投げ出した。
真っ白にフラッシュして遠くなる視界の中で、颯が俺を抱き留める。
その感触が大好きだから。
後始末も何もしないでそのまま眠ってしまった。
意識が戻った時、俺はもうパジャマを着てた。
薄く開いた目の前で、颯の長い指が俺の手を弄んでいた。
俺が目を覚ましたことにも気づかずに指先にそっとキスをした。
唇がまぶたに触れて、鼻先に触れて、唇に触れた時、俺はやっと言葉を吐き出した。
「……颯、寝ないの?」
視線を上げると、髪が目にかかった。
その隙間から、少しだけ笑ってる颯が見えた。
「普段ならまだ起きている時間だからな」
颯の手がそっとそれを払い除けて、優しい瞳が俺の顔を覗き込んだ。
「悪かったな、起こして」
「ううん……昼間、寝過ぎたから目が覚めただけ」
まだボーッとしてたけど。
颯がまた俺の手を掴んで口元に押し当てた。
「手、なんか変?」
聞き返した時も、颯はしげしげと指先を見てた。
「……店で働いているおまえを見ると心配になる。誰かに声をかけられるんじゃないかと思って」
突然、何を言い出すのかと思えば。
バカじゃん、颯。
たまたま颯が来た時に限って、何故かお姉さまに声を掛けられたりしてるけど。
いつもはそんなこと全然ないのに。
「誰も本気で声なんかかけてこないよ」
「おまえが気付いていないだけだろう?」
そんなこと絶対にない。
それに。
「心配なのは俺の方だよ。颯、いっつもキレイな人と一緒でさ」
俺に声をかけるオネエさまの1、5倍は美人だと思うんだけど。
大人っぽくて颯と歩いてても違和感ゼロで、つい振り返ってしまいたくなるほどキレイな人だ。
「ただの秘書だろ」
颯は本当にどうってことなさそうに言うんだけど。
「知ってるよ、そんなこと」
それ以上言い返す言葉もなくて黙り込んだら、颯の大きな手が俺の頬を包んだ。
「おまえが嫌なら、替えてもいいけどな」
颯がどこまで本気かわからないけど、仕事にプライベートなんて持ち込んじゃいけないんだろ?
「いいよ、そんなことしなくて」
慌てて首を振った。
「だって、そしたら颯の秘書がいなくなるじゃん」
もしかしたら、もっとキレイな人が秘書になるかもしれないし。
「根本一人で十分だ。スケジュール調整くらい自分でできる」
電話の声しか聞いたことないけど、根本さんって人はたぶん颯より年上。
もちろん男の人で、颯の話の感じだと奥さんがいるっぽい。
「それじゃ、俺のせいみたいじゃんか」
颯は相変わらず口数は少なくて。
「おまえのせいじゃないよ」
それだけしか答えてくれなかったけど。
その後はずっと俺のことを抱き締めていてくれた。
「東騎」
おでこに唇を当てたまま俺の名前を呼んで。
「……なに?」
半分、うとうとしながら返事をした。
「今のような生活ができなくなっても、俺と一緒にいてくれるか?」
また唐突な質問。
具体的にどういうことなのかはイマイチわからなかったんだけど。
「うん。金がなくて三日くらい食べられなかったとしても颯と一緒がいいよ」
とりあえずそう答えた。
そしたら颯は少しだけ笑って。
「おまえはまだ育っている途中なんだから、ちゃんと食べないとな」
なんでそんなこと言うんだろうと思わなかったわけじゃない。
でも、颯には颯の事情があるんだろうって思ったから、それ以上は聞かなかった。
その後も颯はなんだか難しい顔でいろいろ考えていたけれど、また全然違う質問をしてきた。
「あの時おまえを見つけてなかったら、どうなっていたんだろうな」
質問というよりは独り言みたいな感じで。
俺の指をもてあそびながら溜め息をついて。
「もう、他のヤツに取られてたかな」
今、颯が何を考えてるのかなんて俺には全然わからなかった。
「……そんなわけないじゃん」
二度目に颯と会った日がずいぶん前のことみたいに思えた。
あの日、颯と会わなかったら。
俺は今でもいろんなヤツに適当に抱かれて。
雨が降るたびに颯と最初に会った日のこと思い出しながら、なんとなく生きてただろう。食いつなぐだけの毎日にどんなにうんざりしても、それが俺のすべてだったに違いない。
誰に抱かれても本当の気持ちは変わらない。
それを何度も確かめて、なのに、また同じことを繰り返して。
「……あの時会ってなかったら、颯はまだ俺のこと探してたと思う?」
緩く微笑む口元が鼻の頭を掠めて。
「見つかるまで探すつもりだったからな」
すごく当たり前みたいに返事が来て。
「おまえが覚えていてよかったよ」
今でもときどき信じられなくなる。
颯とここにこうしていることが。
でも、触れている手は温かくて。
見上げればいつでも目が合って。
「……そんなの当たり前じゃん」
だって、何度も夢に見て、何度も泣いて。
もう一度『ごめん』って言われてもいいから会いたいって、ずっと思ってた。
「あのとき会えなかったら、俺、今でも颯に片想いしてたよ」
大きな手が頬を包んで、それから優しいキスをくれた。
「もう、寝ろよ。明日は早いんだろう?」
「うん……おやすみ、颯」
穏やかな声と見上げた瞬間に降った優しいキスが。
今日の最後の記憶。
end
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