らいと・ぶらうん
- Light brown eyes -

〜Past Day〜
<1>




その頃はまだわずかだけど希望も持っていた。
血が繋がっているんだから、取り返しがつかないほどに気持ちが離れることなんてないはず。
だから、俺がまだ父親の膝の上にいられた頃のように、もう一度家族として暮らせるかもしれない、と。
そう本気で思っていた。

『東騎、どこ行くの? 今までどこに―――』
『オヤジは?』
何度砕かれても、願わずにいられなかった。
けれど、曖昧に返事を避ける母親と少しずつ部屋から消えていく父親の持ち物。
『どうせまた女のとこに行ったんだろ?』
どうせ壊れるものなら、さっさと壊してしまえばいい。
じわじわと崩れていくのを見ているよりも、そのほうがずっといい。
『待ちなさい、東騎―――』
父親も母親もそう願っているのだから。
みんなバラバラになって一人で生きていけばいい。
お互いのことなんてすっかり忘れて生きていけばいい。

そうすることでやり直せるなら……―――



何度も来たことのある街。
けど、いつまでたっても自分の居場所にはならない街。
欲しいものなんてなんにもない。
どこへ行っても、誰と会っても。
楽しくなんかなかった。

そんなことにも、もう慣れたけど。

「なんだよ、女にでも捨てられたか?」
記憶の断片。残っていたのはそんな言葉。
「……じゃねーよ」
そんな答えを返したかもしれない。
あいつらを捨てたのは俺なんだから。
捨てられたのは俺じゃない。
ただ心の中で繰り返した。
そう思うことで自分を支えるしかなかった。

勝手に産んでおいて、邪魔になったら見向きもしなくなる。
俺が新しい生活には要らないものだから。
帰ってこない父親と、再婚したがっている母親と――――

血の繋がりなんて、何の足しにもならないのだと知った。
『いなくなればいいんだろ?』
どんな言葉を投げつけても、現実を見るたびに抉られる。
だから、そんな事実が視界に入らない場所に逃げることだけを覚えた。


「ガキが遊ぶ場所じゃねえよ。それよか、おまえ、金持ってねえ?」
他人の傷に群がるのは、ロクなヤツじゃない。
俺も似たようなものだった。
「……うるせーよ」
明るいうちから酒をあおって、フラフラ歩いてたらなんとなく絡まれて。
ムシャクシャしてたからケンカになった。
相手は二人。
多分、大学生で、最初から勝ち目なんてなかったのだけれど。
ヤバイと思った時にパトカーのサイレンが聞こえて、一目散に逃げ出した。

どれくらい走ったかわからない。
息が切れて、呼吸さえままならなくて。
使われていなさそうなボロっちいビルの裏路地で、力が抜けて座り込んだ。
動き回ったせいで酒は身体中を回っていた。
殴られた顔と腹の痛みもあんまり感じないほど。
腕から血が出ていた。口の中も血の味がした。
あちこちに擦り傷と切り傷。
傷そのものは全然たいしたことないのに、服にまで滲んでいた。
路地から見える細い道路にも人通りなんて全然なくて。
けど、雲の間から夕陽が見えた。

―――綺麗、だよな……

ぼんやり眺めていたら、知らない男が視界に入ってきた。
地味な服を着てたけど、いかにも遊んでる風体で、良い言い方をすればもてそうなヤツだった。
「何をしてるんだ?」
「……別に。疲れたから休んでただけ。どいてよ。夕陽、見えないから」
まだ息も切れていて、話すのもかったるくて。
ビルの壁に身体を預けてポケットの中に手を突っ込んだ。
ケンカをした時に落としたのだろう。
煙草もライターもなくなっていた。
「な、アンタ、煙草持ってない?」
まだ整わない息で問いかけると男は黙って煙草とライターを差し出した。
受け取る時に自分の手の甲に血が付いているのに気付いた。
たいした傷じゃなかったのに、男の目がそれを凝視していた。
そんなにじっと見なくたってケンカをしたってことは分かるだろうに。

――――面倒なことにならなきゃいい。

そう思う反面、心のどこかでまだ、「警察に連れていかれたら、あんな親でも迎えに来るだろうか」とぼんやり考えていた。
そんな期待は何度も粉々にされたくせに。
バカだよな……と思いながら。

「家は近いのか?」
唐突な質問に俺は曖昧な返事をした。
「……さあ」
とぼけるつもりで言ったわけじゃなかった。
ただ、今いる場所がわからなかった。
どっちの方角に走ってきたのか。
いや、そもそもどこでケンカしたのかも最初から俺の記憶にはなかった。
質問に答える気がないことを全面に押し出した態度だったから、そのまま放っておいてくれるだろうと思ったのに。
「手当てをした方がいいな。立てるか?」
そっと差し出された手。
助けなんていらない。欲しいものなんて何もない。
そう思っていても。

幼い頃はしゃぎながらつかまった大きな手を思い出した。
父親だったヤツの、温かだった手。
幸せだった頃のことなんて、さっさと忘れてしまえばいいのに。
もう二度と戻らないなら、消えてなくなってしまえばいいのに。

「浮浪者同然のヤツに、そーゆーことしてなんになるわけ?」
ビシャリと払い除けて、なんとか自力で立ち上がったけれど。
思うように歩くことさえできなくて、崩れ落ちる直前で抱きとめられた。
「この時間じゃ病院は無理だろうな」
そのままタクシーに乗せられて、駅の近くのビジネスホテルに連れていかれた。
時間はまだ夕方で、無理を言えば病院だって行けたかもしれない。
けれど、未成年のクセに酒を飲んでるなんて知れたら、ただでは済まないだろう。
そんなことに思い当たった瞬間に、「病院は無理だ」と告げたのはそいつの気遣いなのだと悟った。


壁の向こうから漏れてくるかすかな音。
ベッドとテレビが置かれているだけの殺風景な空間。
それから、見知らぬ男。
酒のせいで切れ切れの記憶と、浮遊している感覚。
「薬を買ってくるからここで待ってろよ」
さっき会ったばかりの、まるっきりの他人。
でも、今自分の家に帰っても、誰もこんな顔はしないだろうと思うほど心配そうに俺の顔を覗き込んでた。
「……俺……駅のロッカーに荷物、取りにいかないと……」
酔いのせいでワンテンポ遅れ遅れの会話。
辛うじて自分が何をしゃべっているのかは分かっていたけど、立ち上がる気力はなかった。
「だったら、ついでに取ってきてやるよ。場所はどこだ?」
教えたところで金目の物なんて何一つ入っていない。
万一全てがなくなったとしても困ることもない。
そう思ってだいたいのロッカーの場所を説明してから男に鍵を渡した。
バッグの中味は着替えと本。あとは自分でも思い出せないほどつまらないものばかりだ。
財布もロッカーの中だったけれど、コインが何枚か入ってるだけ。
札だけ抜き取ってポケットに入れていたけど、酒を買ってほとんどなくなって、おつりのコインはケンカの時に落としたらしく、ポケットの中には何一つ残ってなかった。
「……面倒だったら、取ってこなくてもいいよ。……もう、どうせ要らないし」
自分の体だって要らないくらいだ、と口に出して呟いた時、そいつがどんな顔をしていたのかまでは見なかった。



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