らいと・ぶらうん
- Light brown eyes -

〜Past Day〜
<2>





男はすぐに戻ってきた。
いや、本当は俺の記憶が飛んでるだけで、時間は経っていたのかもしれないけど。
「軽く汚れを流してこいよ」
俺を支えながらバスルームに入れるとテーブルの上に薬を並べた。
シャワーを浴びようとしたけれど、コックをひねってすぐに湯気にむせて酒を吐き出した。
そのまま狭いバスルームの床にうずくまっていたら、男が俺を抱き上げてベッドに連れていった。
自分もずぶ濡れになって。
なのに、そんなことは気にする様子もなく。
それから、タオルを濡らしてきて丁寧に俺の体を拭いた。

「痛むか?」
「……そうでもない」
傷と言っても腕や頬の擦り傷くらいなものだ。
酒のせいで痛覚も鈍っていた。
体を拭き終わると、手際よく薬を塗り、器用にガーゼを貼る。
その間、俺はただ男の手をぼんやり見ていた。
「染みるか?」
擦り剥けた腕に消毒液を塗りながら、心配そうな目が問いかける。
傷の痛みはさほど感じなかったけれど。
「……ちょっとね」
ケンカなんて珍しいことではなかったけど、こんな風に誰かに手当てされた事は長い間なかったような気がした。
いろんなことを思い返しているうちに涙がこぼれた。
「痛むなら、そう言えよ」
ううん、と首を振る。
濡れる頬を長い指が拭っていく。
「我慢しなくていい」
心配そうに覗き込んだあと、そっと俺の体を抱き寄せた。


ぼやけた時間の中の鮮明な記憶。
いつの間にか降り出した雨がホテルの窓を伝っていく。
その瞳が。
声が。
体温が。
俺の中に深く刻まれていった。


泣き止んだのを確認してから男が遠慮がちに尋ねた。
「この傷はどうしたんだ?」
耳から頬にかけてある痕。
もう、ずいぶん薄くなったけど。
そんなことを聞かれたのも久しぶりだった。
「……ガキの頃、オヤジとお袋がケンカして、突き飛ばされた時にガラスで切った」
それでもあの頃はまだ今よりもいくらかマシで、俺はすぐに病院に連れていかれた。
そのせいでケンカも収まった。
こんなことくらいでケンカをしなくなるなら、いくらでもケガするのに。
六歳の俺は、そう思った。
幼かったから。
亀裂の深さなんてわからなかった。
以来、オヤジとお袋がケンカする度にわざとケガをした。
おかげで俺の身体は傷痕だらけになった。
記憶の中、父親と母親の争いはいつでも俺のことから始まって、お互いのことに発展していった。
父親と母親の間のひずみは、俺が生まれなければできなかったのかもしれない。
自分が問題さえ起こさなければ、言い争うこともないのだから。
そう信じて、何も言わず、何も求めず、できるだけ目立たないように。
家の中でも学校でも、先生の前でも近所でも、それだけを考えていた。
半分は怯え、残りの感情はたぶん諦め。
それでも、いつかはこんな時間も終わるのだと、まだどこかで信じていた。
「親は今でもケンカを?」
「……ううん」
オヤジはもう家に居付かなくなっていた。
どこかで知り合った女の所へ行ったきり家にはほとんど戻らない。
「母親は?」
お袋も同じだ。
俺がいなければさっさと離婚して『あの人』と一緒になりたいと、叔母に電話でこぼしていた。
『あの人』がどこの誰なのか、見当もつかないけど。
「大変なんだな」
男が薬を片付けながらポツリと呟いた。
どうせ他人事なんだから、そんなに苦しそうな顔をしなくていいのに。
俺が返事をしないでいたら、ホテルのデスクに置かれていたメモに数字を並べた。
「何かあったら電話しろよ。少しくらいはしてやれることもあるから」
渡されたのは携帯の電話番号。
少し迷ったけれど、例も言わずに4つに畳んで財布にしまった。
その間、そいつは札が一枚も入っていないボロボロの財布をじっと見ていた。
数枚のコインが重なり合う鈍い音が虚しく響く。
いくらなんでもそろそろ家に戻らないと。
金がなければ一人で生きていく方法も思いつかない。
それを思うと憂鬱になった。
どうせ金と着替えを取りにいくだけ。
それ以上家にいても歓迎などされないことはわかっていた。
このまま行方不明にでもなってしまえば感謝されるのかもしれない。
義務で養われるより、その方がずっといい。
もう、そんなことしか考えられなくなっていた。


ただ過ぎていく時間。
雨はまだ止まない。
酔いは醒めていないのに殴られた所が痛み始めた。
身体が怠い。
「大丈夫か?」
「……うん」
男は隣りのベッドに腰掛けるとテレビの音量を下げた。
経済ニュースなんて俺は見たこともなかったけど、そいつは毎日見てるんだろう。
でも、天気予報とか芸能関係とかにはあまり興味がないらしく、シャワーを浴びに行ってしまった。

酔っていて、疲れているはずなのに眠れない。
耳に残るのは、たいして聞こえていないはずの雨の音。
あとは、テレビからあふれる笑い声。
なんだか全部が質の悪い録音みたいに遠く聞こえた。

「眠れないのか?」
ゆっくり視線を動かすと心配そうに覗き込む瞳。
風呂上りのはずなのに、ちゃんと服を着て。
テレビはもう消えていた。
「……なんで……そんな顔するんだよ? 他人事なんだから、ほうっておけばいいのに」
家に帰っても誰も心配なんてしない。
ただ、迷惑そうにため息をつくだけ。
うんざりしながら靴を履く俺に、苛立った声で行き先を聞くだけ。
なのに、会ったこともない男が「心配だからなんだろうな」と呟く。
独り言のように。
でも、その間もじっと俺の顔を見つめながら。
「アンタ、変わってるよな」
どんなに投げやりに吐き捨てても、呆れもせず、怒りもせず。
俺の目を覗き込むと、深いため息をついた。
「……俺の顔、なんか変?」
その言葉に穏やかに首を振った。
もうそれ以上言う言葉もなくて。
なんだか居たたまれなくなって、男の胸ポケットから勝手に煙草とライターを取り出した。
その時、パサッと乾いた音を立てて床に何かが落ちたけれど、視線を移すのさえ気だるくて、黙って煙草に火をつけた。

深く吸い込むと、また別の酔いが回り始める。
それでも、気が紛れたのはほんの一瞬。
鈍い気持ちの痛みとともに白い煙が視界を少しだけ霞ませた。
静寂の中にかすかな雨音。
もうこのまま朝まで言葉を交わすこともないのかもしれないと思った時、男が紙切れを拾い上げた。
それは一枚の写真。
「人を探してる。おまえと同じくらいの年で、同じように茶色い目の――」
男の手の中で寂しそうに微笑んでいたのは、色の白い、茶色い目の少女。いや、少年かもしれない。
少し古びて見えるのは、こいつが何度も眺めたからなんだろうか。
伏目がちに写真を見る瞳がひどく切なく映った。
「あんたの……恋人?」
尋ねたけれど返事はなかった。
けれど、男の顔にふっと諦めたような表情が見えて、それ以上何かを聞く気になれなかった。
返事が返ってきたのは少し経ってから。
「……似ていたから、思わず声をかけた」

そう言って、俺の頬に触れた長い指がそっと傷跡をたどっていく。
大きくて温かい。
でも、大人の手。
俺がもう二度と掴まらないと決めた、大人の――――

「名前は?」
穏やかに問う声も、落ち着いた口調も。
どこもかしこも俺が見慣れない種類の男のもの。
「……知る必要ないじゃん。なんで、そんなにいろんなこと聞くんだよ」
他人なのに。
関係ないのに。
今日、偶然会っただけなのに。


きっと、もう二度と会わないのに……―――――




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