Dear

-前編-



世の中が病んでいると思うのはこんな時だ。
担当した事件が解決した時、容疑者の別荘に設えたハレム――――犯人の加西がそう呼んでいた――が発見された。
少年ばかりがそれぞれ一室に一人ずつ囲われており、閉じ込められたまま何年も生活していた。
ほとんどは物心がつく前からそんな生活をしており、接する人間と言えば主人と身の回りの世話をやく老人だけ。部屋にはテレビもラジオも何もない。
ベッドとバスルーム、冷蔵庫以外は何もない狭い部屋とたまに訪れる主人だけが世界のすべてだった。
「いまさら普通の生活をしていくのは難しいでしょう」
専門医が首を振った。
少年は13人。アジア系と思われるハーフの子供が大半で、ほとんど日本語を話せない子供までいた。
それぞれを好きなように飼いならして育てていたらしい。
彼らの食事や清掃などの身の回りのことをする世話係はもうよぼよぼの老人で、何を聞かれてもまともな返事はしなかった。
子供たちも主人を求めて泣き叫ぶだけで病院に来た後も精神的な回復は見られなかった。
安定剤を投与し、食事を与え、少しずつ現実を受け入れさせる。
そんな治療がいつまで続くのかはわからない。


静かな視聴覚室に流れるモニター。
『ご主人様、どこ? どこ!?』
泣きながら医者に向かってありとあらゆる物を投げつける幼い少年。
『僕、キライになったんだっ! だから、来てくれないんだっ!!』
泣きじゃくる背中をそっとさすろうとして手を差し伸べると、すごい剣幕でまた泣き叫ぶ。
『さわらないでっ! ほかの人にさわったら死んじゃうんだからっ!!』
仕方なく無理やり抑えつけて、安定剤を投与する。
やがて少年は泣きじゃくりながら眠り落ちる。
「毎日この有様です」
「みんなそんな状況ですか?」
「そうですね。そうじゃない子供は何に対しても無反応ですよ。いずれにしてもかなり難しい症状ですね」
俺は深いため息をついた。いったい、どんな洗脳をしたというのだろう。
閉じ込められて、性交を強要されて、中には鞭で打たれた痕まであったというのに、全部が全部そんなだとは……
「無反応組は性交の後も痣も傷もありませんから、ただ閉じ込められて食事を与えられていただけなのでしょうね」
「その違いは?」
「容姿、ですよ」
「容姿?」
「想像するにかなりのメンクイなんでしょうね」
愛玩動物なら可愛い方がいいってわけか。
反吐が出る。
「で、あのエロオヤジがトチ狂ってた相手はどれ?」
医師がずらりと並んだモニター画面の一つを指差した。
クリックして大写しになった画面にベッドに横たわる少年の姿があった。
「なるほどね、言うだけあって可愛いじゃねーか」
ぼんやりと半分だけ開けられた瞳は涼しく美しい。
「12、3ってとこかな。それとももうちょっと上か? 安定剤が入ってるのか?」
「いいえ。安定剤も睡眠剤も与えていません。あの子はここへ運び込まれてからずっとああやってぼんやりしています。不思議なくらい大人しいですよ」
「なんでだ?」
「……さあ、なんとも。一人だけ症状が違いましてね」
「性交のあとは?」
「ありました。ただ、他の子供たちのように身体に傷はありませんでしたし、肛門にも傷や酷い腫れはありませんでした。丁寧に扱われていたんでしょう」
「なんで性交があったって分かるんだよ」
「捕まる直前までしてたんでしょう。腸から精液が検出されました。よほど気に入っていたんでしょうね」
胸くそ悪い。どこまでも狂ってやがる。
「会っても?」
医者がとんでもないと言うように激しく首を振る。
粘ってみたが、さすがに許可してもらえなかった。
「遠くから顔を見るだけでしたら。万一、話しかけられても事件のことには一切触れないでください」
「話せるのか?」
「今のところ何を聞いても無反応です。自分から口を開くこともありません」
そんなヤツが俺に話しかけるはずなかろう?
医師の後について静かに部屋に入った。俺は戸口の椅子に腰掛けて、医師が少年に話しかけるのを黙って見ていた。
「具合はどう? 痛いところはない?」
どんなに優しく話しかけても無反応だ。
「お腹空いてない?」
医師がそっと髪を撫でる。
それでも無反応か……――
そう思った瞬間、少年がこちらを見て。
しかも。
「……こっち、来て」
いきなり喋った。
思わずドアの方を振り返った。俺以外に誰かいるんじゃないかと思ったからだ。
だが、部屋も廊下も静まり返っていた。
「あー……俺?」
少年が頷く。医師は慌てていた。
立ち上がるとゆっくり近づき、ベッドから少し距離をとって置かれていた椅子に腰掛けた。
「もっと、こっち、きて」
医師も「言う通りに」という顔で頷いたので、ずるずると椅子を引いて手を伸ばせば届く距離に座った。
「刑事さん?」
ゆっくりとした口調で問いかける。
「まあ、そんなところ」
じっとこちらを見ているのは、あんなことがあったなんて思えないほど透き通った瞳だった。
汚れるってなんだろう。
頭の片隅でそんなことを考えたその時。
「僕にキス、してくれない?」
「は?」
どんな洗脳をするとこうなるんだろう。
年端もいかないガキが「キスしてくれない?」だと?
しかも、男の俺に??
「ああ……ええと。したいけど、勤務中だからな」
俺は正直な気持ちをそのまま口にした。
医師は適当にかわしてくれたと思ったらしく安堵の表情を見せる。
ベッドの少年は小さく首を傾げたあと、また俺を見つめた。
漂うのは不思議な可愛らしさ。
顔とか仕草とかそう言う限定的なもんじゃなくて、何かがこう、決定的に普通のガキとは違うような気がした。
これが世に言う魔性ってやつかもしれない。
「また、会える?」
「元気になったらな」
「もう、元気なのに」
「先生はそう言ってないだろ?」
おそらくは永久に医者の許可なんて下りはしない。
「ねえ、ホントに。会いたいと思って、くれてる?」
「んー……どうかな。まあ、可愛いとは思ったよ」
俺ってホント正直なヤツ。
隣に立っていた医者がちょっと困った顔を見せた。


その後、俺はまた病院を訪ねた。
「ですが、患者の精神状態もありますから」
「もちろん事件については触れません。『調子はどう?』って声かけてくるだけですから」
医者はしばらく考え込んでいたが、「お天気レベルの世間話以外はしない」という条件で面会の許可を出した。
開け放したドアから中を覗くと少年は相変わらずぼんやりしていた。
どこかに心を置き忘れてしまったような温度のない表情だったが、そっと足を踏み入れるとすぐにこちらに気付いた。
「こんにちは、刑事さん」
たった今目が覚めたかのように、透き通った瞳が瞬きをする。
「ちは。ちょっと顔色良くなったな」
人形のようだった頬には赤みが差し、前に会った時より一層愛らしく見えた。
「この間より、ずっと、気分いいよ」
相変わらず言葉は切れ切れだ。
途中で何度も息を吸っているような、あるいはそのたびに一度呼吸を止めているような、そんな不思議な感じがした。
「そっか。よかったな」
「面会許可、おりてないでしょう?」
担当医と看護師以外は誰であろうと事前の相談が必須。
たとえ院長であろうと「何日の何時に何分間くらい、どんな話をする」と担当医に報告してから会わねばならないらしい。
「先生が、そう言ってた」
「へえ、そうなのか。まあ、そんなに詳しくは確認してないけど」
そのへんは適当でいいよなと答えると、色付いた口元がかすかにほころんだ。
「僕に、会いたかった?」
「まあ、そういうこと」
「キス、してくれる?」
また唐突なリクエスト。
「いいけど。なんで俺なんだ?」
担当医は若いうえに医者にしておくのが惜しいような男前だ。
俺とは比べ物にならないと思うのに。
「一目惚れなの」
その言葉だけは息をするついでにこぼれたかのような滑らかさで告げられた。
「あー……そうなのか。じゃあ」
拒めるほど俺の志は高くない。
遠慮なく、でも、できるだけ優しいキスをやわらかな頬に落した。
よくよく考えたら、これでは俺も犯罪者みたいなもんだ。
けど。
――……まあ、いいか
心地よく風が流れ込む病室には、ただ静かな時間が流れていった。


カツンという靴音が遠くで聞こえて我に返った。
見舞いの件は事前に話してあるにしても、この状況はまずいだろう。
慌ててベッドを離れると小さな声で別れを告げた。
「先生には絶対ナイショだぞ」
自分ではまるで卑怯な大人そのものだと思った。
でも、少年は声を出さずに「うん」と言って、驚くほど華やいだ笑みを見せた。



家族があることを知ったのはそれから間もなくのことだった。
幼い頃、行方不明になったらしい。
精神鑑定を受け、医師の承諾をもらうと、彼は親元に戻った。
6年ぶりの帰宅だった。

他の被害者たちは相変わらず、いや、病状はむしろ悪化しているのかもしれなかった。
現時点では身元がわからない子供がほとんどという状態で、今後の対応についても随分と揉めていた。
故意に歪められた現実の中で植えつけられた価値観。
彼らにとっての加西は唯一絶対で神にも等しい存在だった。
だが、突然拠り所を失い、今まで信じてきたものを根本から否定されたのだ。
未発達の精神は均衡を保てなくなってしまったとしても不思議はない。
誰彼構わずに「抱いて」と懇願するほど渇望し、カウンセラーを押し倒した者もいたと聞いた。
「主人」に愛され、身体を繋ぐことができなければ自分に存在価値はない。そんな強迫観念に支配され、正しい現実を受け入れることができない。
中には身元が判明した者もいたが、とても自宅に連れて帰れるような状態ではなかった。



そんな中、またしても同じような事件が起こった。
監禁事件だったが、肝心の犯人は行方不明。
囲われていた少年たちは服用させられていた薬のせいで激しく常軌を逸脱しており、まともに会話すらできない有様だった。
犯人の顔形はもちろん、どんな性格なのかさえ知る術はなく、身の回りの品からも何の手がかりはつかめなかった。
「服用していた薬は?」
「脳に作用を及ぼすものらしいのですが、どんな検査をしても特別変わった成分は検出されなくて―――」
「手がかりになりそうなものは何にもないってことか」
俺は病院の屋上で腐っていた。
空を仰げば広がる青。風も爽やかで、気温もちょうどいい。
だというのに、世の中全てがグレーに見えた。
「あーあ、行き詰まっちまったなー……」
思わずつぶやいた時、後ろで笑い声がした。
「あ、おまえ……」
「こんにちは、刑事さん」
病院にいた頃に比べると不思議系な空気が薄らいだ気がした。
少年らしい衣服を纏っているからか。
それともさっぱりと整えられた髪のせいだろうか。
「元気だったか? いつの間に退院したんだ? 俺、ちっとも……」
矢継ぎ早に尋ねる俺を涼しい笑顔が見つめていた。
「身元が分かって、家族が迎えにきたんです」
答えた声はひどく落ち着いていた。
しかも、ちゃんとした丁寧語だった。
「そっか。よかった。元気そうだな」
心の底から安堵していた。
それと同時に、本気で惚れたかな、と苦笑いした。
もしかしたら、「一目惚れ」と言われるより前に俺の方が惚れていたのかもしれない。
人となりがわからない相手を好きになるなんてことは絶対にあり得ないと思っていた。
なのに、こうして見るとやっぱり可愛いと思う。
犯人が溺愛した気持ちがわかってしまうというのはある意味末期的な症状なんじゃないだろうか。
「今度の事件のことですか?」
「え? ああ。聞いてたのか」
「僕、手伝いましょうか?」
こちらを見据えていたのはやけに大人びた笑みを湛えた瞳。
なのに、その声にはまったく感情がこもっていない。
「えと……何を?」
「交友関係とか、少し、わかります。関係あるんじゃないかって思うので……」
「あのエロオヤジのか?」
言ってからハッとした。
コイツにとっては元「ご主人様」だ。
気を悪くしたかもしれないと思ったが、少年はわずかに苦笑しただけだった。
すっかりまとも。
それどころか同年代の子より随分しっかりしている。
そんな印象さえ受けた。
「僕、結構大事にされてたんです。普通に会話もしましたし、家庭教師もいて」
家庭教師?
「別荘の近くの、っていっても車で30分くらいのところにある図書館みたいな場所で、毎週二回勉強を教わってたんです。その時は加西に車で送ってもらうんですけど、僕を連れていくのがメインの用事じゃなくって、そのとき仲間と会っていました」
保護された時の空ろな目が、演技だったということに今ごろ気付く。
監禁されている間、ずっとそうしてきたんだろうか。
狂ってしまっているよりもその方が辛いだろうに。
「……話したら、犯人が捕まるまで、警察に保護してもらえます?」
「ああ、そうだな。だが、まず家族の承諾をもらわないと……」
手順とか、影響とか。
いろいろ考える。
こいつにとってそれはマイナスにならないのか。
けれど。
「その前に、キスしてくれる?」
急にタメ口になって。
透き通った瞳はそのままに、少しいたずらな色を浮かべた。
そこから逃げるように視線をずらすと、恐ろしく魅力的な口元が曖昧に微笑んで返事を待っていた。



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