Dear

-後編-




「なんでキスなんだよ?」
目の前の艶やかな唇に問いかける。
「捜査協力のご褒美」
当たり前のように返事が来た。
キスなんてしてやる気はなかったが、テラスに不自然な姿勢で寄りかかっていた俺は、あっさりと唇を奪われてしまった。
体勢を立て直す余裕がなかったことも理由ではあるが、それ以上にされてしまったものを撥ねつけようとは思わず、役得とばかりにそのまま長いキスを貪った。
唇を離した後、透き通った瞳は咎めるように俺を見上げた。
「刑事さん、すぐその気になるんだから」
「俺は理性が少ないんだよ」
きっと、こいつはそんな俺の性格を見透かして口説いているんだろう。
そんな気がした。
それでも、少し考えてから携帯を取り出した。
協力してもらうかどうかは親も交えてゆっくり話してから決めた方がいい。
とりあえずコイツを署に送る手配をしようとしたが、その瞬間手に握られていたそれを取り上げられた。
「今度はなんだ?」
何を考えているのか全く見当もつかない。そんな表情でニッコリ笑う。
それから、俺に言い含めるようにゆっくりと告げた。
「もう一回、キス、しようよ」
本当に何を考えているんだか。
「おまえ、キス魔だな」
そういう問題でもないんだろうけど。
「気持ちいいもん」
悪意など少しも含まない物言い。澄んだ瞳。
疑う気などなかったが、さすがに迷った。
仕事が絡む相手でなければ、もう一回なんて固いことは言わずに、飽きるまでしたいところだが、なんと言っても捜査協力を依頼する相手。しかも、被害者。おまけに、未成年。
……というか、思いきり子供だ。
立場的にはどう考えてもバツだろう。
「やっぱ、ダメだな」
被害者でなければ良かったのに。
せめて未成年じゃなければ……
なんで俺はこの事件の担当なんだろうな。
もっともそうじゃなかったら、知り合うことはなかっただろうけど。
「キスは、犯罪?」
意味深な笑み。落ち着き払った態度。
「おまえが大人なら、そうじゃないけどな」
刑事だって恋愛くらいする。
相手が被害者ってのがマズいだけで。
わずかに首を傾げて俺を見る。
退院できたんだから、精神状態はそれなりに普通なんだろうけど。
「僕がしたいって言ってるのに?」
やっぱりどこかがズレている。
「立場的に難しいんだよ。いろいろあってさ」
狡い大人の曖昧な言い訳。
俺もこんな人間になっちまったんだな、と溜め息をつきながら答える。
目の前の瞳はそれを見透かして不満の色を湛えていた。
「加西は、僕のためになんでもしてくれたよ」
そう。
こいつも、同じだ。
あの加西という犯罪者と同じズレ。
目には見えないだけで、病んでいる。
「なんでも、ってなぁ……」
当然だ。
閉じ込められていた時間に、どれほどの傷を負ったのかなんて誰にもわからない。内部のゆがみも世間との亀裂も。
コイツ自身だって。
きっと、わかっていないだろう。
「その辺が犯罪者になるかどうかの境目なんじゃねーか? 『なんでも』っていうのはダメなんだよ」
ゆっくり。
そう、少しずつ。
本当は何が正しいのかを感じてくれればいいと思う。
「……そうなのかな」
思った以上に素直な返事に少し安堵して、言葉を続けた。
「俺はフツウに恋愛したいよ。職場や世間に気を遣ったり、相手の立場を考えたりしてさ。そういうのがいいよ」
もちろんそれがすべてじゃないけど。
コイツだって、これから自分が生きていく場所を少しずつ理解しないとならないのだから。
いろんな人といろんな話をして、掴んでいく。
俺だってその中の一人のはず。
「……ふうん」
まだ少し不満そうだったけれど。
神妙な顔で考えこんでいる頬に軽くキスをした。
「まあ、我慢できない時もあるけどな」
髪を手で梳いてやりながら笑う俺を眩しそうに見上げた。
その瞳に吸い込まれていく。
なんでこんなに透き通っているんだろう。
不思議なほど深く透明な色。
「ね、捜査に協力したら、一緒にいられる?」
俺と一緒にいたいという気持ちの本意がなんなのかはわからないけど。
「多少はな。けど、毎日会えるわけじゃねーよ。俺も仕事だから、自由時間なんてないしさ。生活そのものが不規則だしな」
一目惚れと言ったその言葉を信じたいと思った。
「ふうん」
「嫌ならやめとけ」
本当はこれ以上、巻き込みたくはない。
「協力して欲しくない?」
「して欲しいけど、おまえを危険に晒したくない。無理もさせたくない」
「心配も仕事のうち?」
試すように。
図るように。
投げかけられる質問。
見上げる瞳。
「心配は個人的な気持ち。危ないことなんてしないで、楽しい毎日を過ごして、早く大人になって、俺の恋人になる。どうだ、そういうの?」
冗談めかした。
だけど、半分は本気だったかもしれない。
何故そんな気持ちになるのかわからないまま。
どんどん吸い込まれていくのを感じた。
「待っててくれるってことなの?」
控えめに輝く。その瞳は綺麗だと思う。
でも、それだけじゃない。
「んー……おまえがハタチになるまであと何年だ?」
「6年」
その事実に面食らいながら。
それでも少し笑ってみせた。
「長いなぁ……」
そうだ。14歳は中学生。
いや、資料は貰ってたから、もちろん知ってたけど。
ちょっと忘れてただけで。
だけど……やっぱ、犯罪チックだ。
「高校生になるまでだって、あと二年もあるんだもんな」
すっかりその気になった俺にはキビシイ現実。
「本気で考えてるの? 適当に流しておけばいいのに」
こうやって大人びた言葉で茶化すのも、きっとコイツの傷。
そんな気がした。
「人が真剣に考えてるのに、その言い方はないんじゃないか?」
少しでも癒えればいい。
俺が笑うことで。
コイツが笑うことで。
だけど、その微笑みはまるっきり作ったように冷たかった。
「刑事さん、マジメなんだね」
そう告げた時も、なぜか乾いた空気が漂う。
「っていうか、俺は下心があるからなあ。真剣にもなるよ」
話してくれればいいのに。
何が不安なのか。
何が欲しいのか。
何を覆い隠そうとしているのか。
「未来のコイビトになるかもしれないし?」
本気とも思えないその言葉の裏を。
「まあな。おまえが俺でもいいって言うならの話だけど」
そんな返事に大人びた表情が崩れて、愛らしい笑みが覗いた。
「刑事さん、僕の名前、知ってる?」
コイツがこんな素直な顔のままで大人になるためには何が必要なんだろう。
温かい家庭、気の合う友人、子供らしい生活、優しい恋人……?
自分の一年後さえ考えない俺がこの間会ったばかりのコイツの未来を思いやる。
アンバランスなようで、しっくりと馴染む不思議な感情の中。
「知ってるよ。高岡瑞希だろ」
瑞希。
少女のような美しい名前。
儚そうなのに、芯は強い。そんな感じがコイツの顔と、口調と、瞳と、身体と、すべてに似合っていた。
「じゃあ、刑事さんの名前も教えて?」
これ以上ないほど楽しそうに尋ねる。
他愛もないこと。
でも、コイツを傷つけない普通の会話。
「狩谷航平(かりや・こうへい)」
ふうん、とつぶやきながら、何かを心に刻みつけている。
そんな横顔だった。
「僕、加西になんて呼ばれてたか、知ってる?」
「知ってるよ」
――――『Dear』……
聴取の間もずっと呼びつづけていた。
恋人だと言った。所有物だと言った。
両者はイコールで繋がる同じものだとも。
絶対に自分に逆らったりしない最高の相手なのだと。
「刑事さんなら、なんて呼ぶ?」
どんな心理でそんなことを聞くのだろう。
尋ねられたのが医者だったら細心の注意を払って答えるのかもしれない。
けど、俺は素人だから。
思ったままを口にするだけ。
「そりゃあ、瑞希だろ」
平凡な答えをどう思うだろうなんて考えているパッと向けられた笑顔。
「なんで笑う? 普通じゃねえか?」
「そうだね。すごく、フツウ」
答えながら、声に出してクスクスと笑った。
それから言った。
「ね、僕、今、わかった」
すごい大発見でもしたみたいに。
「何が?」
「普通がいい理由」
「んー……?」
眉を寄せた俺に、いたずらっ子のような笑みが一転して少し沈む。
「理解不能って顔」
本心を隠し、口元だけで笑う。
「そりゃあな、最近の中学生の思考回路は俺にはわからん」
もっとも、俺だって上司には『若者のすることは解らない』と言われるけど。
「僕が人と違うってこと?」
見え隠れする不安。それも俺が思うよりずっと深いんだろう。
できることなら抱き締めてやりたいけど。
それはきっと瑞希を傷つける。
「今時の中学生だなって言ってるんだよ」
そう。この間もエライ目にあったっけ。
援交中学生をたまたま補導して。パッと見はまったく普通の子供なのに、もらったばかりという一万円札を何枚もポケットに入れていた。
「刑事さん、いくつ?」
「27」
「僕と13歳しか違わないんだ」
しか、ってこともねーと思うが。
加西は……42だっけ。
そりゃあ、比べたら『しか』って言うか。
なんだか複雑な心境だった。
「刑事さん、僕に同情してる?」
「どうかな」
同情ってなんだろう。
俺は瑞希を可哀想だと思っているだろうか。
「んー、まあ、こんなことがなければ、勉強のこととか部活のこととか、友達のこととか好きな相手のこととか考えながら過ごしてるんだろうなとは思うけど」
平穏な日々の中、何事もなく育っていたらもっと明るく笑う子だったかもしれない。
今よりもずっと無邪気で可愛いらしい子供だったはず。
「家の人は刑事さんと違う。なんか白々しいくらい僕に気をつかうよ」
もらった資料には一人っ子と書かれていた。
戻ったと知った時、両親はどんなに嬉しかったことだろう。
「そりゃあ瑞希のことをいろいろ心配してるからだろ?」
考えたところで誰も本当の気持ちはわからない。
知らない男に誘拐されて、何年も閉鎖された場所で抱かれ続けて、家族も友達もテレビもゲームも何もない所で過ごして。
こうして普通に話しているけれど。
そんな生活をどう思っていたのかも今どんな気持ちなのかも、誰にもわからない。
傷つけたくないと思えば思うほど持て余す親の気持ちは俺にも分かった。
「だって、加西なら……」
その言葉が痛々しくて思わず目を伏せた。
だからなのか。
そこで、言葉は止まった。

沈黙の間を風が吹く。
言葉を捜しながら快晴の空を仰ぐ。
「あのな、瑞希」
援交してる中学生を補導した時も、誰かが一緒にいてくれるのが嬉しいからと平然と答えていたっけ。
可愛いと誉めてくれて、思いっきりわがままを聞いてくれるのが、ただ嬉しいからだと言って笑ったんだ。
「……加西もさ、子供ばっかり何人も囲って、それが究極の贅沢だって言ってたけど」
瑞希はゆっくり頷きながら聞いている。
吐き出された言葉のひとつひとつをそっと手にとって、その意味を確かめながら自分の中で振り分けているように見えた。
「俺にはその気持ち、ぜんぜんわかんなかったよ」
瞳の色が微妙に変わる。
光のせいなのか。
気持ちの翳りなのか。
「……ど……うして?」
途切れ途切れの問い。
無理もない。瑞希にはそれがすべてだったんだ。
加西が示す偽物の愛情。
他に何もなければそれに縋るしかない。
「そりゃあ、自分好みの可愛い子ばっかり周りにいたら楽しいとは思うけどな。どんなに平凡な毎日でも、一番大事な人がそばにいて、笑ったり、怒ったり、気遣ったり、たまには我慢したりしながら一緒に生きてくのがいいと思うんだ」
呟きながら、テラスに寄りかかったまま中庭を見下ろす。
それを辿るように瑞希もゆっくりと目線を地上に向けた。
陽射しの中に見える家族、恋人、友達。
絵に描いたような平和で温かな光景は、瑞希の目にどう映っているだろう。
「……刑事さん、恋人いるの?」
感情などなさそうにぼんやりと問いかける。
「いたら瑞希にキスするかよ」
答えながら、ふと思い出す。
彼女と別れてもうどれくらいになるんだろう。
「忙しい」なんて理由にもならない。そんなことも最近やっと分かってきた。
どんなに好きでも、どんなに気が合っても、上手くやっていく努力は必要だってことも。
「絶対、しないの?」
澄んだ瞳が少し驚きを見せて中庭から視線を戻す。
「んー……自信はないけど、少なくともしないように努力はするよ」
こんな曖昧な言葉の意味が今の瑞希に分かるだろうか。
「努力?」
「そう。大切な人と上手くやっていくための努力」
―――タイセツナヒト。
瑞希がその言葉を噛み締めるように口の中で呟いた。
「なぁんてな。……俺としたことが真面目に答えてんなぁ」
自分でも苦笑い。
話した相手が同僚なら一笑に伏されるところだが。
「でもさ、瑞希もそういうの分かってくれるといいって思うんだ」
身体も心もぐちゃぐちゃに汚されたとみんなが言うけれど。
「……わかった」
目の前にあるのは真っ白な笑顔。
深く澄んだ目が俺を見上げていて。
「そうか」
とても綺麗だと思った。
「もう、ほかの人とは、キスしない」
ひどく真面目な顔で言うから。
「……そういうふうに分かってくれちゃったわけか」
俺は思わず笑ってしまった。
「瑞希」
真っ直ぐに見つめるその瞳を。
真っ直ぐに見つめ返して。
「なに?」
「大切な人をたくさんつくって、いい大人になれよ」
この先は幸せになって欲しいと思った。
「うん。……待ってて。僕、きっとすっごい美人になると思うから」
それは、ちょっと違うような気もするが。
まあ、いいか。
なんでもいい。
瑞希が前向きに生きてくれるなら。
俺が願うようなまともな大人になったら、多分、今日のことなど忘れるだろう。
覚えていたとしても、俺の恋人になどならないだろう。
俺にとってはとても残念なことだけど、できることならそうなって欲しいと思った。

心から、そう思った。


青い空と乾いた風と。
楽しそうに笑う瑞希の横顔を。
6年後の俺はどう思い出すのだろう。

まだ始まったばかり。
今、俺に分かるのは。
ただ、それだけ。


                                      end

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