あと1週間でバレンタインという日。片嶋が言ったんだ。
「桐野さん、」
「ん?」
「チョコはやめましょうね」
また例のイベント嫌いの一環なのかと思って理由を聞いてみたが、どうやらそういうわけではなさそうだった。
「だって、桐野さん、食べ切れないくらいもらってくるでしょう?」
「んなこともねーけどな」
去年はまだ支店にいたから、事務の女の子3人と代理店と取引先、あとは同期の女の子くらいで、せいぜい10個だった。いや、それでも多いとは思うけど。
彼女は気を遣って、セーターをプレゼントしてくれたんだけど。
今、そのセーターは片嶋の普段着になっている。
……それでいいんだろうか。
「片嶋だって会社でもらうだろ?」
俺よりたくさんもらって来そうだと思うんだけど。
「そうでもないですよ。俺、女の子じゃダメって言ってあるし」
そう言えば、そうだった。
「じゃあ、お互い頑張ってチョコを食わなくてもいいんだな」
もらった以上は食べないと……と思うから、2月14日以降はしばらくチョコレートを食い続けることになる。
俺は決して甘い物が嫌いなわけじゃない。それでも、せいぜい1日1個だから、10個あれば10日かかる。
彼女がいた時は食うのを手伝ってもらってた。
「ちなみに、片嶋、チョコは好きなのか?」
日頃の食生活から見ても、まず大丈夫だと思うが。
「甘い物、なんでも好きですよ」
自分の誕生日にわざわざケーキを買いに行くくらいだからな。
……俺にとって、それはちょっと苦い記憶だけど。
なんて浸りかけた俺を片嶋が笑顔で現実に引き戻した。
「ワイン買ってきて、つまみにしましょう」
「へ??」
「美味いですよ」
そういうものか?
俺にはわからん。
「デザートだと思えばどうってことないですよ」
「ふうん……」
まあ、片嶋がそう言うなら。それでもいいけど。
せっかくの金曜だ。少しくらいバレンタイン気分を味わいたいもんな。
クリスマスも楽しかったし。
「片嶋、俺から貰うなら何がいい?」
その質問にしばらく考え込んでいたけど。すぐに、にっこり笑って、
「なんでもいいです。桐野さんがプレゼントしてくれるものなら」
そう答えた。
『なら、俺をあげるから』というベタな返事も考えたが、また片嶋に「オヤジくさい」と言われるのは目に見えているのでそれは止めておいた。
「桐野さんは何がいいですか?」
『じゃあ、片嶋』って言って『はい』って答えが返ってきたら、俺はまたしても即座にキレるだろうけど。ここで片嶋を押し倒してしまったら、また怒られそうだし。それも止めておいた。
……その前に、そんな嬉しい返事は絶対にしてくれないよな。
「考えておくよ」
何なら、『はい』って言ってくれるんだろう。
せっかくだから片嶋の許容範囲ギリギリを狙いたいと思うんだけど。
片嶋の微妙な男心は女の子より難しい。
「なら、会社が終わったらどこかで待ち合わせて一緒に買いに行きましょうか?」
俺を見上げてそう答える片嶋は案外楽しそうだった。
「そうだな。ついでにワインでも買って帰るか」
そんなに張り切る必要はないけど、美味いワインがあれば片嶋のご機嫌も麗しいに違いない。
あわよくば、いつも以上に可愛いところなんかも見られるかもしれないという期待も高まる。
……イベントはやっぱり楽しい。
俺の思惑通り、片嶋はとびきりの笑顔で俺を見上げた。
「いいですね。じゃあ、俺へのプレゼントはワインにしてください」
いかなる時も酒なんだな。
ってことは……朝まで飲むか、途中で寝るかのどっちかだ。
色っぽい展開は期待できそうにないかもな。
う〜ん。
お姫さま状態で止めておく方法があるといいんだが。
「じゃあ、桐野さん、義理チョコは持ち帰ってくださいね」
片嶋は俺のヨコシマな考に気付くことなく、バレンタインの予定を立てる。
それにしても、『義理チョコは』の箇所だけ力が入ってるような気がするのは何故なんだ?
「本当にチョコをつまみにする気か?」
「もちろんです」
……ワインの種類にもよるんだろうけど。
片嶋の酒量を考えると「デザート」とは思えないし。延々とチョコとワインって、どうなんだろう?
「まあ、もらったものは持って帰ってくるとは思うけどな」
会社に置いておくと、残業時の非常食にはなるけど。
知らない間に宮野に食われそうだ。
「桐野さん、」
「ん?」
「本当に義理チョコだけ、持って帰ってくださいね」
また、妙に力が入ってるんだけど。
それって言うのは、もしかして。
……ちょっと心配してるってことなんだろうか。
「バーカ、本命チョコをくれるヤツなんていねーよ」
「桐野さんって、そういう読みは甘いんですよね」
そんなことを言いながら、本気っぽい溜め息をつくんだけど。
心当たりは全くないし、絶対に大丈夫だ。
「片嶋、余計なことばっか気にしてるとジジくさくなるぞ」
「けど、」
真面目に心配しているらしいのが可愛くて笑えるけど。
「じゃあ、14日の朝、見えるところにつけていいから」
「何をですか?」
「キスマーク。クリスマスの時、思いっきりつけてただろ?」
別にからかうつもりはなかったんだけど。
片嶋は赤くなってた。
「そう言えば、あの時のお詫びって、まだしてもらってないよな」
なんでも聞いてくれるって言ってたんだけど。
あの後、仕事がバタバタしたせいで、実行されないままうやむやになってしまった。
「楽しみにしてたんだけどな」
こうなると、もうほとんど愚痴だなと思ったけど。
「じゃあ、それはバレンタインの時に……」
片嶋は赤くなったまま、オッケーの返事をくれた。
言ってみるもんだな。
「なんでもいいんだよな?」
念を押すと片嶋がちょこっと頷いた。
……なんだか、えらく楽しくなってきたんだけど。
待ちに待ったバレンタイン当日。
朝起きたら、片嶋がこっちを見てた。正確に言うと、視線の先は俺の首筋。
「おはよう」
俺が目を覚ましたことにそこで初めて気づいたらしく、片嶋はちょっと慌ててた。
「おはようございます」
なんとかそう返したけど、動揺が顔に出ている。
会社なら絶対そんなことはないのに。面白いヤツだよな。
「ほら」
キスマークをつけやすいように首を傾げてやったんだけど。
片嶋は困ったように首を振って、
「いいです。信用してますから」
と言っただけだった。
片嶋はきっと目を覚ましてから、ずっとキスマークをつけるかどうか迷っていたんだろう。そう思ったら、急におかしくなって。
笑ったら、やっぱり怒られた。
「なんで笑ってるんですか?」
「別に」
答えなくても薄々分かるんだろう。片嶋は、また赤くなった。
「なんでこんなに可愛いんだろうな?」
笑いながらギュッと抱き締めたら、片嶋はまたムクれて。
「可愛くなんかないです」
なんだかムキになって返事をした。
……そういうところが、可愛いんだけど。本人はわかっていない。
「片嶋、」
「はい」
いつまでたっても返事は「はい」。丁寧語もぜんぜん抜けないんだけど。
最初は少しだけ不満だったそれも今では可愛く思えて。
「今日もネクタイ結んでくれよ」
簡単なことだから、嫌なんて言うはずもなく。
腕の中で「はい」と言って頷く片嶋のサラサラの髪にキスをして、ベッドを出た。
結局のところ、俺は片嶋の「はい」が聞きたくていろんなことを頼んでるだけだったりするんだけど。
細い指がネクタイを結ぶのをじっと見ていることができなくて。
「動いちゃダメです」
片嶋に怒られながら、何度もキスをして。
バタバタと朝の準備の後、二人で家を出る。
毎日同じことの繰り返し。
なのに、いつまでたっても楽しいから不思議だよな。
浮かれた気分で会社に行き、席に座る。
メールのチェックをしながら、片嶋に何をねだろうかと考えたら。
「桐野さん、支社から社内メールです〜。チョコって感じですね〜」
朝っぱらから他支社の同期と前の支店の女の子から大きな封筒が届いた。
「律儀に義理チョコ送ってくれなくてもいいのにな」
いや、それはそれで嬉しいんだけど。
「桐野さんは本命の彼女だけいればいいんですよね〜」
まあ、そういうことなんだよな。
「いいなぁ、今日もデートですか? 週末もずっと一緒?」
「ああ」
答えたら答えたで「のろけてる」とか言われるんだけど。
怖いもの見たさなのか、聞かずにはいられないみたいで、みんな寄って来る。
「彼女、なんか言ってました?」
「え? ああ、義理チョコだけ持って帰って来いって……」
言ってたけど。
まあ、そんなことはどうでもいいか。
「もしかしてヤキモチ焼きですかぁ?」
「……どうだろ」
彼女じゃないぞ、とは言えない。
片嶋だぞ、とはもっと言えない。
「絶対そうですよね。可愛いなぁ〜」
そりゃあ、片嶋は可愛いけど。
俺にからかわれて妙に赤くなってた今朝の片嶋が俺の頭の中を過って行った。
「あ、桐野さんたら、また緩んでます」
すかさずツッコミが入るんだよな。
「わりい。ちょっと思い出し笑い」
「うわっ、やらしい〜」
事務の子たちにからかわれながら、チョコの送り主にお礼のメールを入れる。ついでにお返しは何がいいかを聞いておく。
どうせ片嶋ももらってくるだろうから、お返しは二人で買いに行けばいいもんな。
それもきっと楽しいに違いない。
その後もチョコは増え続け、出先で代理店と取引先から受け取り、会社に戻ってから業務課や営業アシスタントの子から受け取って、その時点ですでに十数個。
しかも、残務整理をしてたら内線で会議室に呼ばれた。
顔を見て、6階の事務の子だってことはわかったけど。
資金部か、調査部か……
「運用部の富田です。お忙しいのにお呼び立てしてすみません」
自己紹介をされて、チョコの入った箱を差し出された。
見るからに高そうな包みとリボンにちょっと怯む。
呼び出されるというシチュエーションが、なんとなく重みを感じさせるよな。
「義理なら受け取るけど」
我ながらデリカシー皆無。
業務で接点のない相手がくれるチョコが単純な義理であるはずはない。
それでもハッキリ確認してから受け取らないと。
片嶋は顔に出さなくてもきっと気にする。
彼女はにっこり笑ってから、もう一度チョコを差し出した。
「義理チョコ扱いでいいので受け取ってください。桐野さんに彼女がいらっしゃることも知ってますから」
う〜ん…と思ってしまうこの返事。
これって、受け取ってもいいんだろうか??
なんとなく片嶋の顔が過ったけれど、ここで断わるのも可哀想な気がして、礼を言って受け取った。
絶対、義理なんかじゃなさそうな包みを見て片嶋はどう思うだろう、と考えていたら、
「桐野さん、片嶋君と仲いいんですよね」
いきなりそう言われて固まった。
でも、そんな気持ちは隠して聞き返す。
「片嶋と知り合い?」
運用部と企画はあまり接点がない。片嶋はずっと企画だから、彼女がもとは企画部だったのでなければ一緒に働いていたなんてこともないだろう。
じゃあ、どういう関係だ?
……などと考えたが、余計な心配だった。
「私、片嶋君と同期なんです」
正直なところ、ホッとした。
片嶋とのことを知られても俺は気にしないつもりだけど、片嶋が気にしたら可哀想だし。
第一、それが理由で付き合いにくくなるのは嫌だからな。
「今度、片嶋君と飲みに行く時、ご一緒してもいいですか?」
真正面から誘われて真正面から断るわけにもいかず、とりあえず逃げの返事をした。
「片嶋がこっちに来ることがあればな」
まあ、滅多に来ないし。来ても片嶋はたいてい忙しいいから、すぐに親会社に戻るし。
確率はかなり低いだろう。
「わぁ! じゃあ、さっそく片嶋君に聞いてみます。大丈夫そうだったら、またご連絡しますね」
本当に嬉しそうに笑う。可愛いし、明るくていい子だと思う。
でも、片嶋とは比べられない。
それにしても。
アポを取るにしても女の子は手際がいい。宮野や阿部がこうやってうまく事を運べるかと言うと、かなり疑問だ。
……俺の周りって、ホントに要領の悪いヤツしかいないんだな。
「じゃあ、仕事が押してるから戻るよ」
ペコリと頭を下げてエレベーターホールに向かう彼女の後姿を見送ってから、仕事に戻った。
その後も何人かにチョコを渡されて、さすがに参ったけど。
「……これ見たら、少しくらいは妬いてくれるかな?」
そう思うとなんとなく顔が緩む。
ヤキモチなんて焼かれた日には、また歯止めが利かなくなって、片嶋に怒られるんだろうな。
片嶋にはよく言われるんだけど。
ホントに俺って先が読みやすい性格だな。
結局、チョコは俺のカバンに入り切らず、会社の紙袋を拝借して持ち帰ることにした。
「いいなぁ、桐野さん、チョコたくさんもらえて。……彼女からも貰うんですよね?
虫歯にならないでくださいね」
阿部がうらやましそうに見てたけど。
「本命からはチョコなんてもらわないよ」
俺の気持ちは準備万端。片嶋にねだるモノはもういくつか考えていたから、ニッカリ笑ってそう答えた。
片嶋がどんな顔してそれをプレゼントしてくれるのかを考えたら、ニヤニヤ笑ってしまいそうだったけど。
また業務の女の子に「桐野さん、緩んでます」とか言われるのもどうかと思って、無理やり顔だけは引き締めた。
けど、気持ちまでは引き締まらなくて、仕事がすっかり片付くまで俺はずっと浮かれていた。
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