パーフェクト・ダイヤモンド

--Someday--


-3-


ワインとつまみを調達してから部屋に戻った時、片嶋はぼんやりとベッドに座っていた。
もっと寛いでいるかと思ったのに、上着さえ脱いでいなかった。
「どうした?」
そう尋ねて、頬にキスをしたら、また困ったような表情で目を伏せた。
「オヤジさんのこと、気になるのか?」
「いえ、そういうわけじゃ……まさか桐野さんに会うとは思ってなかったので、顔を見たらなんだか気が抜けてしまって」
そう言いながらも、片嶋はまだどこかぼんやりとした瞳で伏目がちに宙を見ていた。
あいまいな表情に隠された気持ちの奥までは推し量れなかったけど、朝のような憂鬱そうな顔ではなかったので、俺もそのままベッドに腰を下ろした。
「なら、いいんだけどな」
そっと唇を合わせて柔らかい感触を味わう。片嶋の頬にかかった髪を払うと、くすぐったかったのか、閉じていた瞳が少し開いて少し甘えたような艶を見せた。
「片嶋」
このまま抱いてしまいたい衝動に駆られたけれど。
後で会場に戻らなければならない片嶋のことを考えるとそういうわけにもいかず。
「……ワイン、買ってきたから」
その言葉にやわらかくほころぶ口元を見つめながら、吐息とともに熱を逃がした。



場所がホテルというだけで、いつもと変わらない片嶋との時間。
仕事のこととか夕刊に載ってたニュースのこととか、そんな話はたくさんしたけれど、今日の件も家族のことも片嶋は何一つ口にはしなかった。
なのに。
「そろそろ時間だな」
あと少しでパーティーもお開きだろうという頃になって、突然、真面目な顔で俺を見上げて、少し言い淀んでから口を開いた。
「桐野さん」
「なんだ?」
「父に……会っていただけますか?」
それもなんだか真剣な顔で。
どうしたんだろうとは思ったけど。
「ああ、いいよ」
緩めていたネクタイを一旦ほどいて結び直した。
それから、スーツのほこりを払って、髪を整えて。
「ちょっとヨレてるけど、もうこの時間だし、構わないよな?」
仕事帰りの会社員が多少シャキッとしてなかったところで、咎められるほどのことじゃないだろうと思いつつ一応尋ねてみたが、片嶋はただ目を伏せたまま首を振った。
それから、「すみません」と答えた。
「……何が?」
なぜ謝られているのか見当もつかなくて、ストレートに聞き返したら、
「冗談です。本当にすみません」
もう一度謝られて。
片嶋はこういうところが相変わらずで、本当に何を考えているのか解らないんだけど。
「あのな、片嶋」
座ったまま肩を抱き寄せ、閉じられているまぶたにそっと口づけた。
少し戸惑いを見せながら涼しげな瞳が上げられて、静かに俺を捉えた。
そのまましばらくの沈黙。
『なんですか』と尋ねないのは、まださっきの遣り取りを気にしているせいなんだろうか。
「別に謝るようなことじゃないだろ? 変なこと気にするなよ」
そう言ったあとも片嶋はしばらくそのまま固まっていたけど。
「……はい」
やっとそう答えた時、泣きそうに見えた表情を少しだけやわらげた。


片嶋の気持ちも、オヤジさんの気持ちもわからないわけじゃない。
けど。
「いつか紹介してくれよ。おまえの家族」
急がなくていい。
少しずつで。
「桐野さん―――」
いつもと同じように名前だけ呼んで。
遠慮がちに俺の目を覗き込む。
長い睫毛が再び伏せられるのを確認してから、またそっと唇を合わせた。

一緒に住むようになって、毎日顔を合わせて。
でも、片嶋は今でも悩みを相談したこともなければ、愚痴らしい愚痴もこぼしたこともない。
家族のことも、俺が聞かない限り何も話さない。
そんなことにふと気付いた。
そういうところが片嶋なんだよな……と思うけど、やはり少し寂しくもあり。
でも、それは俺が「仲のいい他人」じゃなくて、「片嶋の問題の当事者の一人」だからなんだろうと思うから。
「片嶋、あのな―――」
言いかけたとき、それを遮るかのように片嶋の携帯が鳴って。
ため息と共に電話に出た片嶋の険のある声が響いた。
「わかってるよ」
父親からの呼び出しに一瞬うんざりした表情を見せたけど、すぐにいつもの涼しい顔に戻って、「ちょっと行ってきます」と告げた。
「本当に一緒に行かなくていいのか?」
俺は本気で心配していたんだけど、片嶋はわずかに微笑んで首を振った。
「すぐに戻りますから」
ネクタイを整えて、髪を直して。
いつもと同じキリッとした表情で立ち上がった。
そして、部屋を出る直前に一度だけ振り返って、
「あと十年こうして付き合っていたら、その時は両親に会ってください」
そう言い残して出て行った。


静かに閉められたドア。
それを見ながら、ふっと息を抜いた。


十年という時間は、アイツと過ごした時間より長かったらという意味なのかもしれないし、何の意味もないのかもしれない。
けど。
「……あっという間だと思うけどな」
十年という不確かな時間が、実際どれくらいの長さなのかはわからないけれど。
泣いても笑っても怒っても悩んでも。
行き詰まっても、衝突しても。
片嶋となら、きっと退屈しないと思うから。
「……っていうか、どうでもいいけど早く戻ってこいよな」
呟きながら時計を見て、片嶋が出て行ってからまだ5分も経っていないことに気付いて苦笑した。




暇を持て余しつつシャワーを浴びて、夕刊を広げて隅々まで目を通していたら、やっと片嶋が戻ってきた。
「で、何て言って逃げてきたんだ?」
俺の問いに片嶋は真面目な顔で言葉を返した。
「年頃の女性に対して中途半端な態度は良くないと思って」
つまりハッキリ断ってきたということなんだろう。
片嶋はそういうところがやけにキッパリしている。
確かにそれが正解なんだろうとは思うけど。
でも、まさか「女性は好きにならない」って言ったわけじゃないだろうな……と心配になった時、俺の心の中が読めるかのように片嶋がクスッと笑った。
「いくら俺でもそこまではしませんよ」
そう言って教えてくれた返事は簡単なものだった。

『好きな人がいるので』

とてもありきたりで、本当に平凡な言葉。
けど、その微妙な言い回しに片嶋の家族に対する気遣いが見えた。
家族ぐるみの付き合いの相手に迂闊に「付き合ってる人がいる」なんて言ったら、ことあるごとに「結婚の予定は」と聞かれるだろう。
その時、父親や母親がどう思うかを考えたら、他の返事はなかったのかもしれない。
「片嶋」
「なんですか?」
片嶋がいつから自覚していたのかは知らないけど、少なくとも十年以上、あるいはもっとずっと長い時間を悩みながらここまできたはずだから。
それに対して今さら俺がしてやれることなんて何もないけど。
この先は支えになれると思うから。
「……お疲れさま」
抱き寄せると涼やかな瞳にふわりと微笑が浮かんで。
それから、長い睫毛が伏せられた。


俺が心配するほど片嶋は弱くも脆くもないけれど。
この先もきっと俺はベタベタに甘やかしてしまうに違いなくて。
そう思った瞬間、
『桐野さん、過保護です』
そんな言葉と共に、真面目な顔で俺を見上げる片嶋が鮮やかに瞼を過ぎっていった。

十年経ってもきっと片嶋は何も変わらず、訳のわからないタイミングで俺に謝ったりするんだろうなと思ったら、なんだかとても甘い気持ちになった。
そして本日も片嶋は鋭くて。
「なんで笑ってるんですか?」
「おまえ、目閉じてたくせにそういうことだけ気付くなよ」
本当に笑ってしまったんだが。
思い出し笑いじゃなくて未来のことだから、と。
そんな言い訳みたいな説明をしながら、見上げている片嶋にもう一度深いキスをした。
やわらかい感触が俺の唇を離れて、首筋に甘い吐息を落とす。
「もう少し、このままでいてもいいですか?」
どこか遠慮がちに尋ねる片嶋を少しだけきつく抱き締めながら、
「……とか言って、このまま寝るなよ?」
そう確認した瞬間。
気だるい表情を浮かべていたはずの片嶋が華やかに笑いこぼれた。
図星だったんだなと思ったら、なんだかおかしかったけど。
その後の片嶋からの返事は、
「朝まで起きていてもいいですよ」
そんな思わせぶりなもので。
「それって、俺の都合のいいように解釈していいわけ?」
間髪入れずに聞いてみたけど。
問われたことに答えることもなく、腕の中で笑い続ける片嶋をもう一度きつく抱き締めて、ベッドサイドの時計が静かに刻む一秒を見送った。

今この瞬間も、これからの十年の一部なんだな……と思いながら。




                                         end


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