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片嶋の姿がすっかり見えなくなると、 「あの子、わがままを言っていませんか?」
唐突にそんな質問をされた。
「いえ、別に」
そういえば片嶋はわがままなんて一度も言わないなと思いながら軽く返事をしたけど、姉さんはあまり信じていないみたいだった。
「私も年が離れていますし、両親と祖父母に甘やかされて育っているので、ご迷惑をおかけしているんじゃないかって」
姉から見た弟なんて、どこのうちもそんなもんだろう。
実際、俺も妹に対しては「甘えてないで自分でやれよ」と思う時が多々ある。というか、そんなことばっかりだ。
けど、片嶋は。
「会社ではもちろんですけど、俺に対してもぜんぜん言いませんよ」
肝心な部分はいつもどこかで遠慮している。
そんな感じだ。
して欲しいこと、足りないこと、なんでも言ってくれていいって。
何度そう告げても片嶋は「もう十分ですから」と笑うだけ。
「俺、そんなに頼りにならないかな……」
うっかり口をついたそんな言葉に姉さんはまたニッコリと笑って。
「あの子、自分がわがままだって判っているんですよ」
嫌われたくないって思っているだけでしょう……と言いながら立ち上がると、小さめの音でクラシックをかけた。
「おいしい紅茶をいただいたので、すぐに入れますね」
「ありがとうございます」
年の離れた姉っていうのはこんな感じなんだな……となんとなく思って。
片嶋が姉さんにだけはちょっとわがままを言ってしまう理由も分かるような気がした。
姉さんがテーブルのセッティングをしている間に片嶋が戻ってきて。
「もう全部洗い終わったのか?」
それにしては早いよなと思ったけど。
「食器は機械が洗ってくれるので」
片付けるのは大きなフライパンの類だけなんです、と言いながら座ろうとした瞬間。
「キッチンのテーブルの上に置いてある紅茶の中から、彰が好きなのを入れてきてね」
姉さんがまた笑顔で用事を言いつけた。
それも「ポットもカップも温めるのよ」なんていう注意つきだったから、片嶋はちょっと首を傾げた。
そして。
「姉貴、さっきから俺を追い払おうとしてない?」
彼女は「そんなことない」と答えていたけど。
「でも、せっかくだから彰のことをいろいろ聞いておこうかなって思って。桐野さんにわがまま言ってないでしょうね?」
俺に聞いたのと同じ質問。
それに対して片嶋は「言ってないよ」と即答した。
本当のことだから当然だとは思いながらも、やはり少し寂しい気持ちになってしまった時、
「―――たまにしかね」
そんな言葉が付け足されて。
「じゃあ、お茶入れてくる」
面倒くさそうにキッチンに向かう片嶋の後姿をわずかな安堵とともに見送った。
「やっぱり言ってるのね」
姉さんは呆れたようにため息交じりの笑いを浮かべていたけど。
「本当に言ってないですよ」
わがままと言えるほどのやり取りは一つも浮かんでこなかったから、そう答えたのに。
「お気持ちが広いから些細なことに思えるだけじゃないのかしら」
こっちが照れくさくなるようなフォローが入って、
「いや、そんなことは絶対にないと思います」
俺はちょっと恐縮してしまった。
しかも、その後。
「桐野さん……あの子を、よろしくお願いしますね」
突然、真面目な顔でそんなことを言われて。
別に驚いたわけじゃなかったけど、だからといって、気の利いた言葉を返そうなんてことも思わず。
俺はただ、やけに普通に「はい」と答えた。
そんな捻りのない返事にもかかわらず、彼女は少し涙ぐんでいて。
なんだかまたひどく恐縮してしまった。
それからは、ごく普通の世間話。
淡いグリーンと白のクロスでセッティングされたテーブルを挟んで、話題のニュースとか最近の陽気とか、そんなことで時間を繋いで。
「桐野さん、アールグレイとダージリン、どっちが―――真面目な顔で何を話しているんですか?」
片嶋が聞きにきた時は明日の天気の話をしてたんだけど。
「片嶋の子供の頃の写真、一枚もらっていこうかなって話」
冗談めかしてそう言ったら、
「……やめてください。怒りますよ」
どうやら本気で嫌がっているらしい片嶋がおかしくて、姉さんと二人で笑ってしまった。
和やかな午後はあっという間に過ぎて。
片嶋が入れてくれたお茶のおかわりを飲み終え、「ごちそうさまでした」の後で席を立った。
ゆっくりしていくように言われたけど、そろそろ家族も帰ってくる頃だろうし、何より片嶋がまだ警戒している様子だったから。
「またいらしてくださいね」
「ありがとうございます」
名残惜しそうに見送られながら、玄関でもう一度挨拶をして。
そのまま出て行こうとしたんだけど。
「彰」
不意に彼女が片嶋を呼び止めて。
「なに?」
その時、片嶋は怪訝そうな顔をしていたけど。
「貴方の好きなだけあげるわよ」
彼女の言葉を聞くと明るい表情で「うん」と頷いた。
それがやけに可愛らしい笑顔で。
片嶋って姉さんにはこんなふうに笑うんだな……と、ちょっと妬いてしまった。
ついでに、
「じゃあ、200点」
謎の会話が交わされて。
「それって何のことだ?」と聞き返す間もなく、片嶋の「義兄さんたちによろしく」のひとことで俺はドアから押し出された。
そんなわけで。
やけにご機嫌な片嶋と仲良くマンションに帰って。
部屋に入るなり、真っ先に聞いてみた。
「さっきの、何の話だったんだ?」
あの流れからすると、紅茶の入れ方とか、片付けの仕方についての評価だと思ってたんだけど。
「桐野さんの点数です」
そんな答えが。
しかも、片嶋が本当に嬉しそうで。
もちろん俺も嬉しかったけど。
でも、心のどこかで少しだけ悲しい気持ちになった。
「片嶋」
片嶋にとってとても大切な相手は、今、俺たちを祝福してくれる唯一の人で。
「なんですか?」
そして、この先何年経ってもずっと一人だけかもしれなくて。
片嶋の笑顔の後ろにはそんな気持ちがあるんだろうって。
そんなことを思ってしまうから。
「姉さんに、俺が200点もらって喜んでたって伝えておいてくれよ」
そんな言葉に、片嶋は少し申し訳なさそうな顔で頷いた。
そして、なぜか「すみません」と呟いた。
なんで謝ってるのか、俺には分からなかったけど。
そういうところが相変わらず片嶋で。
だから、ついつい構ってしまうんだろうなと思いながら。
「片嶋、もうちょっとだけ顔上げて」
遠慮なんてすることないのに。
思いつく限りのわがままを言ってくれたらいいのに。
そんな気持ちで繰り返すキス。
「桐野さん、くすぐったいです」
何度も、何度も。
「じっとしてろって」
片嶋が呆れて笑い始めるまで。
ずっと……――――
その翌週の土曜日。片嶋の姉さんから荷物が届いた。
中味はワインとクッキー、それから。
「うわ、信じられないな。姉貴、なんでアルバムなんて送ってくるわけ?」
片嶋が珍しく丁寧語ではない口調で不満を述べて。
「しかも、直接桐野さん宛てに送ってくるってどういうことだよ」
世間話の合間にちらっと口にしただけの部屋番号を微笑みながらちゃんとインプットしていたんだろう。
なんというか、さすがに片嶋の姉貴だ。
「そりゃあ、そのまんまの意味だろ」
「そのまんまって……」
「片嶋じゃなくて、俺に送ってくれたんだってこと」
きっとあの時、俺はものすごく片嶋の写真を欲しそうにしてたんだろう。
じゃなかったら、送ってくるはずがない。
「桐野さんが一枚もらっていこうなんて言うからです」
片嶋の話によると、彼女はああ見えて悪乗りの激しい性格だから、うかつなことは口にしてはいけないのだそうだ。
……どう頑張っても、そういうキャラには見えないんだが。
そして、その後も片嶋にはしっかりと怒られたけど。
言い訳をしても仕方なさそうなので、
「欲しかったんだから仕方ないだろ?」
思いきり開き直っておいた。
一通りの抗議を終えた後、 「もういいです」
片嶋はムッとしながら姉さんに電話をしていたけど。
耳に当てられた携帯からは、たおやかな笑い声が聞こえてきただけ。
「片嶋、怒りすぎだって」
つられて笑いながら。
俺がもらった200点という評価は、たぶん、最強の味方ができた証なんだろう……と、ふと思った。
end
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