クッキーは効果てきめんで、食べたらいきなりドアにちょうどいいサイズに変身できた。
「おいしいお茶をごちそうさまでした」
片嶋がキリッとお礼を述べるとチビが「もう行っちゃうんだ」と言いながらちょっと残念そうな顔をしたけど。
「またきてねー」
短い手が振り切れそうなほどのバイバイに見送られて、俺と片嶋は小さなドアをくぐった。
また妙な場所に飛ばされるんじゃないかと心配したんだが。
そこは本当にごく普通の廊下で。
だが、異常に長い上に、先に行けば行くほど天井が高くなり、廊下の幅も広がっていた。
「遠近法で描けない廊下ですね」
「……そうだな」
頭から天井までの距離、およそ1メートル。
それほど圧迫感はなかったが、また同じ風景の中をひたすら歩き続ける。
「その時計を信じるなら、もう30分は歩いてるよな」
「32分です」
「いい加減飽きてきたよな」
「そうですね」
なのに、先へ行くほど高くなっているはずの天井はまったく変わらないまま、俺の頭上1メートルの位置にあった。
もちろん、廊下の幅と自分の身体と比率も変わらず。
「廊下に合わせて体がサイズ変更してるんだな」
まあ、だからと言って何が不都合ってわけじゃないが。
「じゃあ、出口に近くなればなるほど早くたどり着くわけですね」
片嶋は嬉しそうだったけど。
「……たどり着いた先がどんな場所かにもよるけどな」
一抹の不安が無きにしもあらず。
「それにしても、本当に遠足だな」
「桐野さんが『散歩がしたい』なんて言ったからじゃないですか?」
それは、この世界に来る前の話だけど。
でも、なんとなく俺もそのせいなんだろうって気がしてきた。
そんなわけで。
「やっと終点です」
ホッとした様子もなくそう呟いて、ドアの前に訝しそうな顔で座り込んでいる片嶋の背中を見ながら少し笑った。
廊下の突き当たりはやっぱりドア。今度は普通サイズだったけど、その向こうがきっとまともな場所じゃないんだろうなと思いたくなる気持ちも分からないではない。
「じゃ、開けるからな」
片嶋を抱き上げて恐る恐るノブに手をかけるとそっと開いた。
視界を占領したのは大きな城。
振り返ってみたが廊下はもう跡形もなく消えていて、俺と片嶋はどこかの城の広い中庭のど真ん中に放り出されていた。
青空と色とりどりの花々に囲まれた、いかにも金がかかっていそうな庭には縦横に延びる小道全てに赤いじゅうたんが敷かれている。
「……ゴージャスを履き違えているような気がするのは俺だけか?」
片嶋に同意を求めたら、
「王子がまだ小さいので危ないからと、歩く所可能性のある場所に漏れなくじゅうたんが敷かれているらしいです」
マメ知識の本にはいつの間にか「城」という項ができていて、その外観や庭の見取り図などが書かれていた。
「……さぞかしわがままな王子なんだろうな」
いずれは一国を背負って立つというのに、そんなに甘やかしてはロクなことにならない。
この国の将来は見えたようなものだ。
などと、よけいな心配をしながら庭を見渡すと、だだっ広い庭の彼方に衛兵に囲まれた人影が。
そこには立っていたのはどこかで見た男。
黒いスーツに身を包み、手には金糸の刺繍つき座布団。
そしてその上にはダレているチビ猫が一匹。
さらに、「王子様の御成り」というアナウンス。
「……あの黒スーツの男は子猫の下僕なんだよな? ってことは、もしかしてここの王子ってあのチビ猫か?」
その間も黒スーツの男はネコ付き座布団を恭しく掲げていた。
木の上にいた時とまったく同じでダルーンと垂れているだけのチビ猫の頭には、プリンスの証明なのか、小さな王冠型の飾りが乗ってた。
「……ホントにやる気のなさそうな王子だな」
思わず呟いてしまった俺の口は、やっぱり片嶋の手によって押さえられた。
「下僕に聞こえたら『俺の可愛い麻貴ちゃんになんてことを言うんだ』の刑ですから」
片嶋はしばらくキョロキョロした後、誰も聞いていなかったことを確認するとやっと小さな手を離した。
「ああ、そうだったっけ」
『麻貴ちゃん』という名前のネコ。キラキラ刺繍の座布団にもそう書いてあったが、まさか王子だとは思わなかった。
となると。
……本当にこの国の将来が心配だ。
ぼんやり考え事をしていたら、やけにカラフルな制服を着た衛兵に周りを取り囲まれた。
「そこの人間とネコ。おまえら、誰の許可をもらってここに入った?」
許可もなにも、この状況になるまでの間、俺たちには選択する余地がなかったのだから仕方ない。
「実は……」
出だしは端折って、魔法研究所で道を教えてもらい、その通りに歩いてきたらここに出たことと、出来るだけ早く元いた世界に帰りたい旨だけを伝えた。
それを聞いた衛兵は「そうか」と言って頷くと、タレているネコ王子を見て緩んでいる下僕に報告に行ったが、下僕は王子にしか興味がないようで「麻貴ちゃん、今日も可愛いな」という的外れな返事しかしていなかった。
それでも、片嶋は怯むことなくキリリとした面持ちで下僕という名前の黒スーツに向かって。
「出国許可をいただきたいんですが」
恭しくお願いをしていたが。
黒スーツの返事は。
「麻貴ちゃんがいいって言ったらな」
そして、ゆるんだ視線がやる気のないネコ王子から離れることはなかった。
「なんか、ダメっぽいな」
「でも、諦めたら帰れません」
今日はお気に入りのワインで夕食のはずなんです、と真剣に訴える片嶋を見ながら、俺も気を取り直してお願いしてみることにした。
「許可をいただけたら、すぐにここを出ますから」
何とか承諾してもらおうと必死になっていたら、衛兵は同情してくれたようで。
「では、王子、ご決済を」
王子に催促してくれたんだが、肝心の子猫は座布団の上ですぴすぴ眠っているだけだった。
しかも下僕が、
「麻貴ちゃん、まだお眠でちゅか〜?」
と呼びかけても知らん顔。
ちゃんと起きてくれるんだろうかと心配になった矢先。
「王子はお加減が悪いので、これにて散歩は終わり。城内に戻る。出国手続き申請は王子の気が向かれた時に行うものとする」
それはどう聞いても、「麻貴ちゃんがこんなに可愛い顔で寝てるのに、おまえらごときのために起せるか」ということらしく。
「どうやら、俺たちはこのまま放置なんだな……」
どうにも解せなかったが、これがここの国のやり方なら仕方ない。
これで無理に起そうものなら、『可愛い麻貴ちゃんの安眠を妨害した刑』とかが適用されてしまいそうな気がしたので、ここは王子が目覚めている時間帯に改めて出直すのが賢明だろう。
……けど、起きている時なんてあるんだろうか。
そう思った時、片嶋がポケットから取り出したのは。
『おやつチーズ(猫用)』
ネコのイラストと共にそう描かれた手ごろな大きさの袋だった。
「王子への献上品です」
もしかして、それはワイロってヤツか……。
だが、その瞬間、パッケージに猫の絵が描かれたいかにもネコのおやつ風なそれは、下僕の手を通過することなく王子の両手でしっかりとキャッチされていた。
その後、ネコ王子は器用にそれを開封し、おもむろに食べ始めた。
「……さっきまで寝てたよな?」
揺すったくらいのことじゃ起きそうもない爆睡ぶりだったのに。
しかも、王子なんだから食べ物に困ってるなんてことは絶対にないと思うのに。
……この食べっぷりは何なのだろう。
「まあ、王子様と言えど、まだ子猫だし、育ち盛りだからな。おやつは嬉しいんだろうな」
あるいは、単に食い意地が張ってるだけかもしれないが。
その言葉は『俺の麻貴ちゃんになんてことを言うんだ』の刑に該当しそうだったので、心の中にしまっておいた。
「それで、出国の許可をいただきたいのですが」
あっという間におやつを食べ終えた王子は、片嶋の声なんて聞こえないような顔でまた眠そうに座布団の上に伸びてしまったのだが、
「あの、王子」
もう一度呼んだら、一応起き上がってくれた。
……ひどく面倒くさそうだったけど。
それから、おもむろに片嶋のポケットに手をつっこむと勝手にピンクのスタンプパッドを取り出し、手のひらをぺたぺた押し当てた後、俺と片嶋の頬にペシッ、ペシッと投げやりなパンチをした。
俺と片嶋の頬に、ピンクの小さな足跡が残されて。
「麻貴ちゃん、そんなどこの馬の骨とも分からないヤツに触っちゃダメだろ?!」
下僕が血相を変えて王子の手を拭いている間に、「出国を許可する」という衛兵のアナウンス。
そして、同時に俺と片嶋はどこかに落下した。
……ような気がした。
「……のさん……桐野さん」
目が覚めた時、俺の頬に当てられていたのはぐーたら子猫王子の手形ではなく、片嶋の手のひらだった。
「苦しいです」
そして、なぜか俺は力任せにギュッと片嶋を抱きしめていて。
「わりい。夢見てた」
どうやら俺は落下しながらも「片嶋と離れ離れにならないようにしなくては」と思っていたらしい。
「楽しい夢だったんですか?」
片嶋がキリッとした顔でこちらを見上げる。
「……ああ。片嶋と一緒に旅行して、やる気のない子猫に面倒くさそうにパンチされた夢」
それを聞いた片嶋は「自分は何もしてません」と主張したけど。
「わかってるよ。パンチしたのが片嶋の手だったら、俺だって分かるし」
ついでに片嶋にも「触ったのが俺の手だったら分かるか」と聞いてみた。
片嶋はいつもと同じキリリとした顔で俺を見上げて、とても真面目な表情で頷いてから、
「もちろんです」
きっぱりとそう答えた。
それから、小さな手を俺の手に乗せて、「ほら、大丈夫です」という顔でまたこっちを見上げて。
だから、そのまましばらく見詰め合ってしまった。
温かくて、やわらかく、少しくすぐったくて。
いいよな、と思いながら笑っていたら、片嶋には怪訝そうな顔をされてしまったけど。
「今度二人で旅行にいこうな」
そう言ったら、やっぱり真剣な顔で「はい」と答えた。
「だったら、明日―――」
人型に変身してくれたら、ドライブにでも……と言いかけたが。
片嶋は急にくるんと丸くなって、俺の胸元に鼻先を埋めてしまった。
……たぶん、たぬき寝入りだと思うんだけど。
でも。
「気が向いたらでいいよ。いつか一緒に行こうな」
幸せそうな横顔がとても可愛かったから、思いきり許した。
「おやすみ、片嶋」
おでこにキスをして。
ふと見ると、片嶋の頭にはまるで白うさぎの付け耳の名残のような跡がついていて。
「あとで一緒にワインを飲もうな?」
その言葉にピクッと動く耳を見ながら、ほんの少し微笑む。
俺と片嶋の、ほんのり不思議な休日の午後。
end
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