運命とか、未来とか

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prologue





まるで病気だな、と思いながら、夜になると何かに憑かれたように街に出る。
そのくせ賑やかな場所は肌に合わず、ふらりと入ったのは裏通りのバー。
よく来る店というのは、落ち着く反面煩わしさもある。
「いらっしゃいませ」
いかにも常連に向ける類の笑顔にかすかな溜め息をついてカウンターに腰掛ける。
気だるい毎日にうんざりしながら、目の前に置かれたグラスを一気に空けた。
何も考えず、したいこともなく。
ただ流されるだけでも生きてはいけるんだな、と。
くらだないことを思う。
十河(とがわ)が死んでから、もうずっとこんなことを繰り返していた。
店員が少し気の毒そうに俺の顔を見て、新しい水割りのグラスを置く。
「ボトル、ここに置いていっていいよ。自分でやるから」
水と氷と、見飽きたラベル。
いったい何杯空けたのか。
酔いが回るにつれて味が分からなくなり、グラスの中身も色が濃くなっていく。
どんなに飲んでも記憶がなくなることはなく、むしろ鮮明に残って翌日の憂鬱に変わる。
そうと知っていても溺れずにいられない。
たった一晩、わずか数時間を素面で過ごすことができずに繰り返す愚行。
「今日もお迎えが?」
店員がそんなことを尋ねるのも、潰れられては迷惑だからなんだろう。
「……どうかな」
曖昧な返事にわずかに顔を曇らせたけど、新しい氷を置いたあとは「ごゆっくりどうぞ」と言い残して視界から消えていった。
「……迎えなんていらないのに」
毎晩店を変えて飲み歩いても、酒が過ぎた夜は必ず顔を見せる。
また今日もここを嗅ぎつけてくるだろうか、と心の片隅で思いながら、つまみあげた氷を口に含んだ。



「大丈夫ですか?」
意識が薄くなり始めた時、背中に降ってきたのは聞き慣れた声。
「……羽成か」
やっぱり来たのか、と呟きながら苦い気持ちになる。
いったい誰が俺の所在を連絡しているのだろう。
「まだそんなに飲んでないよ。おまえこそ、店はどうしたんだ?」
金曜の深夜。
本当なら一番忙しい時間帯だろう。
それを放り出してこんなところまで来る。
ほんの少し酔い過ぎただけの男を家に送り届けるために。
「柿田に任せてきました」
いつまでこんなことをする気なんだろう。
約束をした相手はもう疾うに死んでいるというのに。
「で……何か用か?」
自分を迎えにきたと知っていながら投げかける問い。
すべて承知の上で返す答え。
「いいえ」
呆れているなら態度に出せばいいのに。
いつだって涼しい顔で受け流す。
「だったら少し付き合えよ」
バーテンダーから新しいグラスを受け取ろうとすると、羽成の手がそっとそれを止めた。
大きな体に不似合いなほど器用に動く指。
二人分の薄い水割りを作ると、片方を俺の前に置いた。
「飲み終わったら家までお送りします」
カウンターに並んでグラスを傾ける。
けれど、言葉を交わすことはない。
その目がこちらに向けられることも、ましてや欲しているものを与えてくれることもなく、ただ淡々と時間だけが流れていく。
「……一人で帰れる。おまえもいい加減俺に構うなよ」
十河はもういない。
なのに、交わされた約束だけが残っている。
未だ消えない男の影と、こんな意味のない日々をただ潰していく自分。
自虐的な笑みが何か別の感情に摩り替わりそうになる。
その直前、静かな声が耳を抜けた。
「そろそろお送りします」
こちらが投げかけた言葉などまるでなかったかのように、全てを切り捨てて立ち上がった。
「おまえも勝手な奴だよな」
痛むのは心の奥。
そして、記憶の彼方に残してきてしまった何か。
十河が生きているうちに世話を焼く手を拒んでいたなら、もっと違った今があったのだろうか。
こんな約束に縛られることもなかったのだろうか。
尋ねたくても、答えを返してくれる男はいない。
「タクシーを拾ってきます。ここでお待ちください」
一方的に予定を決めて一人で外へ出ていく。
スーツ姿の背中を見送りながらポツンと呟いた。
「……本当に勝手な奴」

かつて十河に問われたことがあった。
羽成をどう思っているのか、と。
その時はただ、「それなりに頼りにしている」と答えたに過ぎなかった。
今にして思えば十河は疾うに分かっていたのだろう。
俺の気持ちと。
それから、こんな未来を。

「歩けますか?」
顔を上げても目が合うことはない。
いつだってわずかに視線は外されたまま。
ただそれだけのことに気分が逆撫でされる。
「うるさいな。そこまで酔ってない」
どんなに投げやりに吐き捨てても、見下ろす男の表情が変わることはない。
「少し降っていますから」
自分の上着をかけると先に外へ出た。
俺が一人で歩けることを確認した後は手を差し伸べることもない。
わざと少し距離を置いているのだと気付かないほど子供ではないのに。
「羽成―――」
明確な言葉にならない感情を持て余し、その腕を掴んだ。
それでも何一つ変わることはない。
肩越しに視線を落した後、体半分だけで振り返ると、十河が生きていた頃にしていたのと同じように、俺の手からそっと逃れた。
「寒くありませんか?」
「別に」
夜はまだ半分も終わっていない。
帰ったらすぐに眠れる程度には酔えただろうか。
「お気をつけて」
タクシーの運転手に行き先を告げ、「釣りはいらないから」と金を渡す。
「……おまえは?」
「店がありますので」
予想通りの返事が耳に届くと、ゆがめた唇から乾いた笑いが漏れた。

あの店は十河から譲り受けたもの。
羽成が何よりも大切にしているものだと知りながら、それよりも自分を選んでくれることを心のどこかで期待していたのか、と。

「おやすみなさい」
顔色一つ変えずにそう告げて見送る。
穏やかな声さえ腹立たしくて、返事もせずに車を出させた。


まるで駄々っ子のようだ。
小雨の当たるガラスを眺めながら重い気分に引き摺られる。
「馬鹿みたいだな……」
羽成を振り回したくて毎度酔いつぶれているわけじゃない。
確かにそう思っているはずなのに。
本当はそれさえ欺瞞で、過去に囚われたふりで羽成を束縛したいだけではないのだろうかと感じるときがある。
あいつだって、もう俺のことなど放り出したいに違いない。
なのに、いつだって何も言わず、傍らに立つ。
十河が生きていた頃そうだったように、怒ることも笑うこともなく、ただ黙って迎えにきて、車に乗せて家に送り届ける。

それが死んだ男との約束だから。

分かっていても、繰り返すたびに痛みと苛立ちが募る。
だから。
羽成が呆れ果てる前に。
思い出したくもないほど嫌なことばかりになる前に。
「……けど、アイツ、人の話ぜんぜん聞いてないんだよな」
顔を見るたびに苛立つようになったのは、いつからだろう。
もう思い出せないし、思い出せたとしても修復などできはしないけれど――



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