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 初めて羽成に会った時、俺はまだ15だった。
 
 高校に入ったばかりで、家庭は崩壊中。
 父親に女がいることが発覚し、母親は自殺。
 俺は半ば自暴自棄で度を越えた夜遊びを繰り返し、行き着いた先があの男、十河の元だった。
 
 「ちょっと待て」
 呼び止められたのは繁華街を過ぎた裏通り。
 俺は父親を殺すためにナイフを持って愛人宅へ行く途中だった。
 「……何か?」
 ちょっとぶつかっただけだ。軽く謝れば済むだろう。
 そうタカをくくっていた。
 けれど。
 ガシャンと音がしてガラスが割れた。
 いかにも「今わざと手から落としました」というタイミングに俺の神経は簡単に逆撫でされた。
 「アンタ、言いがかりつけて俺から金巻き上げようったって―――」
 振り向いた時、いきなり顎に手をかけられて、街路灯に向けられた。
 「どっかで見た顔だと思ったら、イイジマの店荒らしてったヤツじゃないか」
 明らかにまともな話のできる風貌ではなかった。
 いつもなら、ヤクザ相手に事を荒立てようなんて思わなかっただろう。
 けれど、その夜の俺はひどく酔っていた。
 「アンタが勝手に手すべらせたんだろ? それに『イイジマ』なんて店――」
 言ってから、ハッとした。
 思い当たることがあったからだ。
 「一本隣の通りにある雀荘だ。知らないとは言わせないぜ? オヤジ連中相手に随分儲けたんだってな?」
 金欲しさに年を偽って何度か出入りした。
 そろそろ顔を覚えられる頃だろうとフェイドアウトしたのはつい数日前のことだった。
 「……ああ、あそこね」
 シラを切っても無駄だと思い、覚悟を決めて答えたが、次の瞬間には平手で一発入れられて地面に転がった。
 相当酔っていたからもともと足元は覚束なくて、力の方向に逆らいもせず飛ばされたおかげでさほど痛みも感じなかった。
 「まあ、いい。これからおとなしくするっていうなら、今回は金でカタをつけてやる」
 取り上げられたカバンの中には財布さえなく、大き目のナイフが一本だけ。
 「コレで何をする気だ?」
 工作で使うようなものでないことは明らかだ。
 何より、嘘をつく必要などない。
 「父親を刺しにいこうと―――」
 正直に答えたが、言い終わらないうちに俺の体はまた小汚い路地に転がった。
 走って逃げるにも酔いは回っている。
 次の手を思案している間に追加の蹴りが腹に入り、自力で立ち上がることもできないまま引き摺られるようにして路地を出た。
 連れていかれた場所は、すぐ脇に止めてあった車の前。
 「……何だ、それは」
 俺の顔を見るなりそんな言葉を吐いたのはドアにもたれて立っていたガタイのいい男。
 いかにもなヤクザ風ではなかったが、かと言ってまともな職業にも見えなかった。
 「イイジマの店に出入りしてたヤツだ。ちょっとシメておこうかと思ってな」
 ニヤニヤ笑いながら俺の髪を掴んだ男を見ながら、そいつは少し呆れたような表情で「ガキなんて放っておけよ」と投げやった。
 多少マシな口調で頼めば逃げられるかもしれない。
 「じゃあ、そういうことで離してもらえませんか? 俺、マジで行く所があるから―――」
 せっかく決心をしたのにこんなところで足止めされてたまるか、と心のどこかで思いながら顔を上げたが、さすがに甘かった。
 すぐにもう一発殴られた挙句に腕を掴まれ、車に置いてあったガムテープであっという間に縛り上げられてしまった。
 背中できつくテープを巻かれた手首がドクンドクンと脈打つのを感じた。
 「ほらよ。できあがりだ」
 男が無造作に俺の髪を引き、無理矢理顔を上げさせると、切れた唇から流れた血が肌を伝った。
 車に寄りかかっていた男は手を貸すわけでもなく、無関心そうにあさっての方向を見ていたが、不意に何かを思いついたようにこちらに視線を投げた。
 「身元は分かってるのか?」
 目が合ったのはほんの一瞬。だが、ゾクリと背中に悪寒が走った。
 「それがカバンの中味が包丁一本でな」
 そんな遣り取りに心臓が跳ねる。
 ポケットに学生証が入ったままだということに気付いたからだ。
 無意識のうちに目線を動かしてしまったんだろう。
 突っ立っていた男の手が俺のシャツのポケットに伸びた。
 「あっ、待って――――」
 抵抗しようにも、身動きさえままならない。
 学生証はあっさりと男の中に収まった。
 「んだよ、高校生か。ったく、店じゃ21とか言ってなかったか?」
 俺を捕まえていた男は写真のついたそれを覗き込みながら口元をゆがめたが、やがて面倒くさそうに携帯を取り出すとどこかに電話をかけた。
 短い会話は仰々しい敬語で、ひどく不自然な感じがした。
 「あ、はい、かしこまりました。では、そのように――」
 見えるはずのない相手にペコペコと頭を下げて締めの挨拶をすると、再び携帯をポケットにしまい、フウッと息を吐いて肩をすくめた。
 「事務所にかけたら社長が出た。『暇潰しにちょうどいいから連れてこい』ってよ」
 それを聞くと、それまでどうでも良さそうな顔で突っ立っていた男が眉間にシワを寄せた。
 「まったく何するつもりなんだかねえ、うちの社長さんは」
 ヤクザ風の男が愚痴をこぼしながら俺を車に押し込むと、そいつは運転席に座って、ひどく投げやりな様子で車を出した。
 
 
 
 連れてこられたのは大通りから少し入ったところにあるマンション。
 背中を蹴飛ばされて、転げ込むように足を踏み入れた部屋はどこかの企業の社長室といった風情だった。
 「連れてきました」
 ちらりと振り返ると運転していた奴の姿はなく、代わりに背後に立ったのは絵に描いたようなソレ系の面々。
 部屋の真ん中には男が一人、椅子に踏ん反り返って座っていた。
 「ふん、本当にガキだな」
 それが十河だった。
 中年と呼ぶにはまだ早い。だが、やけに威圧感があった。
 隣にはシルクのローブ一枚だけを羽織った派手な顔立ちの女が不機嫌を露わにして立っている。
 「手を解いてやれ。……名前は?」
 低いが腹に響く声は穏やかとも言えたが、同時に向けられた視線は直視するのが怖いほど鋭かった。
 「……氷上真意(ひかみ・しんい)」
 どういう字を書くのかと聞かれたが、酔いの回った頭にはその説明がひどく面倒に感じられた。
 「さっきの、返して」
 隣に立っていたヤクザに声を掛け、学生証を奪い取ると椅子に向かって放り投げた。
 ケースに入れられたカードはちゃんと男の手元に届いたが、その瞬間一層冷たい視線が俺を射抜いた。
 「自分の立場がわかっていないようだな。それともアザができるほど殴られてもまだ酔いが醒めてないのか?」
 周囲の空気が一気に張り詰め、傍らに突っ立っている女の顔が強張るのが分かった。
 「……そうでもないけど」
 答えながらも、本当のところはかなり酔っている自覚があった。
 それでも自分としてはとてもまともに会話をしているつもりで、特にまずいことを言ったつもりもない。
 丁寧語でこそなかったものの、そこまではごく普通の高校生の態度だったと思う。
 けれど、自分で認識していた以上に俺の機嫌は悪かったらしい。
 気を抜くとふらつく足元に力を入れ直し、手で口元の血を拭ったあと、椅子に踏ん反り返ったままの男を見返した。
 「アンタの目には泥酔してるように見えるわけ?」
 この一言がいけなかったのだろう。
 「なるほど。確かに無理矢理啼かせてみたくなるタイプだな」
 口元に薄く浮かんだ笑いがそれを語っていた。
 「いいよ、もうどうにでもすれば?」
 挑発しようなんてことはこれっぽっちも思っていなかった。
 ただ、どうせ今夜父親を刺していたら終わったはずの人生だという気持ちが俺を一層投げやりにしていたのだと思う。
 「そうか」
 十河はただそう呟くと、俺の隣りに一瞥を投げた。
 それを受けた男はわずかにペコッと頭を下げると何も言わずに他の連中と女を引き連れて出ていった。
 
 「さて」
 再び俺に向き直った十河の口元には意味ありげな笑みが浮かんでいた。
 「ついてこい」
 それだけ告げると、入ってきたのとは違うドアに向かって歩き出した。
 
 
 
 大きなベッドの置かれたそこは、ホテルのような雰囲気だったが、わずかに生活感があり、女の持ち物と思われるものがいくつか置き去りにされていた。
 「女とは寝たことがあるのか?」
 いきなりの問いがどんな意味を持つのかなど考えもせずに、差し出されたグラスを受け取ると中味を一気に飲み干した。
 むせかえるほど強い酒で、味など感じる余裕はなかったが、何とかのどに流し込んで口を拭った。
 「ないよ。だったら、何?」
 答えながら空になったグラスをテーブルに置いた瞬間、いきなり平手で頬を叩かれた。
 「今後は口の利き方に気をつけろ」
 固まったばかりの唇の傷が再び裂けて血の味が広がる。
 返事もしないまま呆然と立っていたら、またグラスが差し出された。
 「酒は飲めるようだな」
 三杯ほど空けたところで眩暈を感じ、ふらりと揺らいだ瞬間にベッドに押し倒された。
 「……な……に?」
 目の前でニヤリと笑みが浮かび、俺はようやく自分が置かれている状況を正確に把握した。
 
 
 それから数十分。
 すでに涙で顔はグチャグチャで、体のあちこちが悲鳴を上げていた。
 それでも口の利き方だけは直さない俺を十河は心底面白がっていたようだった。
 「気が強いのか、馬鹿なのか。それとも躾が足りないという意思表示なのか?」
 「そんなわけ……あっ、っく―――」
 どんなに強がってみせても、当時はまだ15。
 十河が強いた行為はかなり酷なもので、俺はまもなく意識を失った。
 
 
 
 
 翌日は起き上がるだけで一苦労という有様で、体の痛みはもちろん、ひどい二日酔いに一日中悩まされるはめになった。
 「……気持ち悪……」
 這うようにしてトイレに行き、吐くだけ吐くと、その後は冷蔵庫から取り出した水を腹が膨れるほど咽喉に流し込んだ。
 「……怠ぃ……」
 立ち上がる気力もなくキッチンに座り込んでいると、それまで姿の見えなかった十河が急に現れた。
 スーツにネクタイ。髪もきちんと整えた様子は、本当にどこかの社長といった様子だったけれど。
 ―――目つきが違うんだよな……
 ただの高校生にさえ分かるほどだから、普通の人間ならすれ違う時に避けて通るだろう。
 「気分はどうだ?」
 「……二日酔いで最悪」
 その返事にまた薄く笑って、それから、店に出入りしてオヤジ連中相手に荒稼ぎしていた理由とナイフの使い道を聞いた。
 「アンタに話すようなことじゃ―――」
 そこまで言うと十河は無言で俺の腕を捻り上げた。
 「痛っ……わかったよ。言えばいいんだろ」
 どうせ信じてもらえないだろうと思っていたのに。
 「―――で、オヤジを刺して、店で稼いだ金を持ってどこかに逃げようって思って」
 もうあんな男の世話にはならない。
 一人で生きていける場所ならどこだっていい。
 反吐が出るほど嫌いな相手との血の繋がりを断ち切って、最初から一人で生まれてきたみたいな顔で暮らしていきたいのだと告げると十河は意外な言葉を告げた。
 「これから素直に言うことを聞く気があるなら、ここに住まわせてやってもいい」
 「……なん……で?」
 俺の何を気に入ったのか。
 そんなことは言わなかった。
 「理由が必要か?」
 「……いらない」
 ただそれだけの遣り取り。
 だが、俺はそれにためらうことなく頷いた。
 そして、そこから高校へ通うことになった。
 
 
 俺が欲しかったのは、今までとは違う生活。
 けど。
 十河が俺に望んだものは、最期まで分からないままだった。
 
 
 
 
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