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 何か勘付いているから毎日のように様子を見にくるというのは考え過ぎかもしれない。
 そう思ったのは息を整えてリビングのドアを開けた時。
 ソファで脚を組んで夕刊を読んでいた羽成はもうすっかりシャワーを浴びた後で、サラリとした前髪が目元に翳を落としていた。
 寛いでいる、というのとは少し違うとしても、何かを探りにきているようにも見えない。
 「……あのさ」
 ただいまと言うのも妙な気がして、そんな歯切れの悪い言葉を掛けた。
 「松崎さんが電話くれって」
 いきなり用件を告げても羽成が呆れることはなく、わずかに面倒くさそうな顔をしただけ。すぐにテーブルに置いてあった携帯を取った。
 「ああ、それで構わない。あとは適当に―――」
 自分の部屋に向かう間、耳に飛び込んでくる短い受け答え。
 用件はアポイントの調整らしく、俺がタオルと着替えを用意してバスルームに向かう頃には終わっていた。
 ―――なんか変な感じだな……
 羽成が当たり前のようにそこにいることが何故だか少しくすぐったくて、それを意識した途端に居心地が悪くなる。
 何の予告もなくフラリとやってくるのは十河も同じだったし、今さらどうというわけでもないはずなのに―――
 
 ピリリッと肌を刺す熱い湯で体を流した後、ふうっと一呼吸してバスルームを出た。
 濡れた髪を拭きながらリビングに戻るとテレビ画面いっぱいに株価の折れ線グラフが映し出されていたが、羽成はそれほど真剣に見ていないようだった。
 「吉留のこと、何か分かったか?」
 そう尋ねた時もすぐにこちらに視線を移し、「まだ」という短い答えを返した。
 今夜の用事がそれでないことにホッとしながら、大雑把に手で髪を梳いてテーブルを見遣ると、先ほどまでその手に握られていた携帯のウィンドウはもう真っ暗で、そのあからさまなオフモードにまた少し居心地が悪くなった。
 「電源くらい入れておけよ」
 何かあればどうせこちらにかかってくるのに……と、無意識のうちに愚痴をこぼすと、羽成はおもむろに俺の携帯を取り上げ、電源を落とした。
 「勝手に触るな」
 文句など言ったところで聞くはずもない。
 何もなかったような顔で元の場所に戻した後、今度はテレビを消した。
 「もう帰るのか? 用があったわけじゃないのかよ」
 二日続けて来るくらいだからそれなりの理由があるのだろう。
 そんな憶測もあって少し身構えたのが顔に出たのか、羽成は不意にこちらに視線を投げると笑ったような口元でフッと煙を吐き出し、まだ長いそれを灰皿で揉み消して立ち上がった。
 「何がおかしいんだよ?」
 反感が混じった気持ちで見返すと、今度は本当に笑みが浮かんだ。
 「そんなに子供っぽいことを言われるとは思わなかったので」
 予想外の返事に言葉が詰まる。
 「それって……どういう―――」
 続きは目の前に立った大きな身体に遮られた。
 「……ん……っ」
 不意に抱き寄せられ、少し乱暴に唇を塞がれた後、ようやく「子供っぽい」という言葉の意味を理解したのだった。
 
 
 ついさっきまで、周辺を調べまわっていることを悟られないように警戒していたはずなのに。
 「待て……って、ん……っ」
 唇を割って入り込む舌の動きやシャツ越しに伝わる手の温度を感じるとゾクリと肌が粟立ち、同時に体の奥から疼きが湧き上がる。
 「……んだよ……ヤリに来たってことなのか?」
 茶化すように投げつけた後も離れたばかりの唇はまだ目の前にあって、羞恥心に似た感情に押されるようにフッと横を向いたが、すぐに大きな手でクイッと正面に戻された。
 「顔を見に来ただけだ」
 答えはありきたりなものだったけれど。
 口元はまだわずかに笑っていて、それに気付いた時、また熱が上った。
 
 顎を押さえていた手が火照った頬を撫で、首筋を滑って胸元に降りていく。
 部屋着代わりにしていたシャツのボタンを易々と外す間も片方の手は腰に回されたまま、少しでも離れようとすると一層きつく俺を拘束した。
 抱きとめられながら、柔らかく肌を食む唇の感触に耐えかねて体を反らす。
 「……痕、つけるなよ」
 そう言った時にはもう、開けられた胸元にはいくつもの朱が残されていて、ただ溜め息をつくしかない。
 唇が離れてからその場所を指でなぞったのは、服を着てもなお見えるような位置でないことを確認するためだったけれど。
 それに気付いた羽成は少し乱暴に両手の自由を奪ったあと深く長いキスを強いた。
 「ん……っふ……っ」
 呼吸さえままならない状態でふと目を遣ったのはテーブルに置かれた腕時計。
 秒針が真下に向く頃にようやくその手は緩んだけれど、それと引き換えに淋しさが流れ込んだ。
 「……朝までいられるのか?」
 わざと明後日の方向を見たまま尋ねたが、大きな手はそっと頬を包んだだけ。いつものように無理矢理正面に向かせることはなかった。
 「お望みなら」
 穏やかな声で告げられる短い返事と、触れた場所から伝わってくる温度に安堵しながら、夜明けまでの時間を思う。
 無意識のうちに羽成の背中に腕を回そうとしたが、それよりも早くふわりと抱き上げられた。
 「ベッドに」
 至近距離でいきなりそう言われてまた顔に血が上る。
 「……自分で歩ける」
 酔ってもいないのにと小さく文句を言ったが、「分かっている」という素っ気ない返事があっただけ。
 結局、一度も床に下ろされることなく薄暗い寝室に横たえられた。
 
 
 やわらかく唇を押し開く、長く甘いキスに眩暈がする。
 羽成と関係を持った最初の頃はこうしていることにさえ疑念があって、手放しでのめりこむこともなかった。
 本当は仕方なく抱いているだけで、熱を帯びたように感じる手も見下ろしている絡みつくような視線も、すべては自分に都合の良い錯覚なのかもしれないと思ったからだ。
 けれど、回を重ねるごとに猜疑心は薄れ、快感は深くなっていく。
 「ぅ……ん……っ」
 勢いだけで抱かれてしまった頃は羞恥など感じる暇もなかったのに、こんなふうに時間をかけて身体を解され、高まっていく過程を見られると全身に余計な熱が回ってしまう。
 「羽成……もう……」
 視点の定まらない目で切れ切れに先をねだると、すぐに身体は深く折り曲げられ、熱をもったものが後ろを探り当てた。
 「あ……っ」
 ドクンと心臓が鳴り、押し広げられた場所からじわりと疼きが広がっていく。
 息苦しくて、縋るように伸ばした指はその背中に届かず、空を切った後で大きな手に捕らえられた。
 「っ……んっ……あ、あっ」
 身体の奥をグッと突き上げる感触に押し殺していたはずの声が漏れる。
 何度も深く穿たれて意識を飛ばしそうになりながらも、身体は快楽を貪り、より濃密な行為を求めた。
 「……あ……あ、羽成……っ」
 名前を呼んだ唇はそのたびに呼吸を奪われ、陶酔を引き起こす。
 「あ、あ……っ、ん……」
 声が掠れ、身体が軋み始めた時、「我慢などする必要はない」と告げた腹立たしいほど落ち着いた声を聞きながら、その手の中に一度目の熱を放った。
 
 その後は本当に意識がなくなるまで。
 過去も現実も、明日のことさえ忘れて、熱に浮かされた時間はあっという間に過ぎていった。
 
 
 
 「大丈夫ですか?」
 自分が目覚めたことに気付いたのはそんな問いかけがあったせい。
 「……うん」
 ぐったりとベッドに横たわりながら、ぼんやりと宙を仰ぐ。
 身体の重さとは対照的に、意識は半分夢を見ているような浮遊感の中で明日のことを考えていた。
 「……おまえが部屋を出る時、寝てたら起こせよ」
 呟いたのはひどくありきたりで、「はい」という返事だったらまたすぐに眠ってしまっただろう。けれど、
 「黙って出ていったら、また電話を?」
 笑いを含んだ返答のせいで眠気が一気に引いてしまった。
 「この間は……ちょっと調子が悪かっただけだろ」
 子供でももっとマシな言い訳をするだろう。
 我ながら馬鹿だと思ったけれど、羽成は呆れた顔もせず、ただその長い指でベッドサイドに置かれた煙草を取り、口に運んだ。
 鈍い銀色のライターが少しくぐもった音でその先端に火を点ける。
 薄暗がりにじわりとオレンジ色の光が滲んで、やがて白い煙が広がった。
 いつになく優しげに見える横顔に甘えるような気持ちで、手繰り寄せたのは未だ鮮やかに残る記憶。
 「……十河ってさ、いつも朝にはいなくなってたんだ」
 目が覚めるとベッドには自分ひとり。
 カーテンを開け放した窓に広がる空が息を飲むほどの透き通る青でも、風景さえ見えない土砂降りでも、取り残された寂寥感だけがすっぽりと俺を包んだ。
 「最後に会った日も、気がついた時にはもういなくて―――」
 起こされたとしても特別なことができたわけじゃないだろう。
 けれど、あの日のことは今でもどこかに引っかかったまま、飲み下せない感情を燻らせている。
 「……『いってらっしゃい』とか『気をつけて』とか、そんなありきたりな言葉でよかったのに」
 どんなに陳腐な最後でも少しくらいの救いは得られたかもしれない。
 そんな、今さら考えてもどうしようもないことを巡らさずにはいられなくて。
 後悔を数えながら天井を眺めていると、目の前が白く煙った。
 「7時にはここを出ます。それでもよければ」
 「……別に何時でも」
 おまえが帰ったらまた寝直せばいいのだから、と。
 言いかけた時に思い出したのは写真の中、幼い昂輝と戯れる笑顔だった。
 感謝の言葉も、十河への気持ちも、今ならちゃんと自分の口で伝えることができるのに。
 泣き顔は似合わないから最後まで笑っていろと言った十河の言葉が穏やかな音で耳に蘇る。
 けれど、薄れていく意識の中で、それは「おやすみなさい」という聞き慣れた声に摩り替わった。
 
 漂う煙と、何年も前からいつも記憶のどこかに染み付いている甘い香りの中。
 泣きたいほど懐かしい夢を見た気がした。
 
 
 
 物音で目が覚めてベッドを抜け出すと、リビングにはもうすっかり支度を整えた羽成が立っていた。
 「起こせって言っただろう?」
 「よく寝ていたので」
 出かける前に声をかけるつもりだったという返事を聞きながら、まだここに居たことに安堵する。
 けれど、チラリと目を遣った羽成はもう仕事中と変わらない表情で携帯のメールをチェックしていて、それがなんだか無性に淋しく感じた。
 「もうこんな時間なのか……」
 そんなに眠った気はしないのにと思いながら、適当に着込んだ服を直し、ペットボトルの水を咽喉に流し込んでふうっと一息ついた。
 そして、あと少しで7時ちょうどを告げる時計の針に追い立てられるように、きっちりとスーツを着込んだ背中を玄関まで見送った。
 「じゃあな」
 そっぽを向いたまま素っ気ない言葉を吐き出すと、羽成はドアに手をかけたままクルリと振り返って意味ありげにこちらを見下ろした。
 わずかに笑った口元の意味など判るはずもなく、
 「……なんだよ?」
 訝しく思いながら尋ねると、また少し唇が緩んだ。
 「『行ってらっしゃい』とか『気をつけて』とか言うつもりなのかと」
 「え……」
 厳密に言うなら起こすよう頼んだのは見送りをするためではなかった。
 目覚めた時に自分だけ取り残された気分になるのが嫌だっただけ。なのに、面と向かって催促されてはサラリと流すこともできない。
 「……おまえって昔はそういう性格じゃなかったよな」
 返事は「そうですか」で、その後は何も言わなかったけれど。
 部屋を出ていく気配も、視線が自分から外されることもなくて、それを確認するとまた顔が火照った。
 「分かったよ。『いってらっしゃい。気をつけて』……これでいいのか?」
 急いでこの状態を抜け出すために、少し早口で見送りの言葉を吐き出したが、それにさえ羽成はフッと笑ってみせた。
 昔、十河がそうしたように。
 少しだけ目を細めて。
 
 やっぱり似てるんだよな―――
 
 またグズグズと過去を引っ張り出しそうになったけれど。
 それを見透かしたように口を開いた羽成の言葉が俺を現実に戻した。
 「『見送られるのは苦手だ』と、よく言っていました」
 寂しそうな顔をするから置いていくのがつらくなると、十河が何度も事務所で話していたという。
 「……ふうん」
 いつでも俺が寝ている間にいなくなった。
 今日までずっと、忙しいから朝までゆっくりしてはいられないのだと決め付けてきたのに。
 「けど、俺は別に寂しそうな顔なんて―――」
 そう言い掛けて。
 でも、羽成が突然そんなことを話すのもそれが理由なのだろうと思ったら、その先は言えなかった。
 
 廊下からかすかに漏れる人の声。
 ドアの外にはもう慌しい朝の光景が広がっている。
 「真意」
 名前を呼ばれて顔を上げると、羽成はまたそっと首筋に痕を残した。
 その後、「ちゃんと大学へ行くように」といつもの保護者面をしてから部屋を出ていった。
 
 パタン、と静かにドアが閉まる。
 「……気をつけて」
 もう聞こえないと分かっていながらそんなことを呟いた。
 「見送っても何も変わらないんだな……」
 あの日、十河をちゃんと送り出したとしてもそれは同じだったのだろう。
 今さらそんなことを確認しても遅いのは分かっていたけれど。
 過ぎてしまったことは自分の中で少しずつ整理していくしかない。
 ただそれだけのことなのだと、ようやく心の底から理解した。
 
 
 シャワーを浴びた後、ベランダに出て空を仰いだ。
 「俺も、もう行かないと」
 まだ片付けなければならないものがある。
 羽成の車が消えていったはずの道路を見ながら、ゆっくりと大きく息を吐き出して、ホテルへ向かうために靴を履いた。
 
 
 
 
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