翌朝、俺はちゃんとベッドの上で目を覚ました。
顔を洗ってからやっとそれが不自然なことだと気付き、慌てて部屋の中を確認したが、洗っておいたはずの灰皿に短くなりきっていない吸殻が残っているだけで、羽成の姿はどこにもなかった。
「なんでいつも起さずに帰るんだろうな」
抱き上げられたのにも気付かず眠り込んでいたのは、ここ数日余計な神経を使い続けていることが自分で思っているよりずっとダメージになっているせいなのだろう。
こんな精神状態で顔を合わせたら、聞かれてないことまでペラペラしゃべって墓穴を掘る。簡単に予測できることなのだから、これでよかったのだと思うべきなのに、大人しく家にいることを確かめたらさっさと帰るという羽成の態度に少し腹が立った。
けれど、そんな感情の裏側にあるのは、「会いたかった」という子供染みた理由なのだということも自覚していた。
「……アイツのことはしばらく忘れておかないとな」
現実に戻ると頭の中には十河の過去と吉留失踪の件がひしめいている。
関係ないはずの二つの事柄が、なぜか絡みあって離れなかった。
松崎さんから送られてきた住所は神奈川。
住宅街の外れに佇むアンティークカフェのような外観のバーだった。
携帯を片手にそこに辿り着いた時、ドアの前あたりで中年の女性が掃き掃除をしていた。
面差しはもちろん、佇まいまで姪っ子とそっくりで、なんだか微笑ましい気持ちになった。
「おはようございます。初めまして。氷上です」
「あらあ、早かったのね」
人の良さそうな笑顔は事前に松崎さんから送られてきた写真の通り。
「学生さんなの?」
「大学一年です」
「あら、美桜(みお)ちゃんよりずっと年下なのね。学校は都内なんでしょう? 授業は大丈夫なの?」
「今日はちょうど講義がなかったので」
他愛もない会話と愛想笑い。
自分では少しわざとらしいかもしれないと思ったけれど、彼女は訝しく思った様子もなく、それ以上ないほど親しげな笑顔で中に案内した。
「早速で悪いんだけど、これ、運べるかしら?」
「大丈夫です。これくらいなら」
引っ越しの荷物はもうほとんど片付いていて、彼女の手では運べない大きなものだけが部屋の隅に残されていた。
言われた場所に全てを片付けたとしても長居できる量ではない。
「そう、そこにお願いね。助かるわ。細く見えてもやっぱり男の子ね。あと、パソコンもお願いしていい? 自分で繋ぐつもりだったんだけど、もうなんだかぜんぜん分からなくて……」
部屋の片隅には若い頃の写真が何枚か飾られていたが、どれもが銀座辺りのクラブで撮られたもので、あの店と思われるものはなかった。
「お綺麗ですね。ずっとこの仕事をされてるんですか?」
「あら、若いのにお上手なのね。仕事は結婚した時にやめたけど、ちょっと前に離婚して、その慰謝料で店を持ったのよ」
並べられた写真に知った顔がないかと熱心に見つめていると、彼女は楽しげな笑みを浮かべながら薄いアルバムを差し出した。
「これが美桜ちゃんの勤めているお店よ。昔はこんな感じだったの」
時代を反映してか内装は今のほうが随分すっきりしていたけれど、写真から読み取れる空気はさほど変わっていないように思えた。
「それで、これがあの事件の時に亡くなった蝶子ちゃん。女優さん顔負けの美人でしょう?」
彼女の言うとおり、新聞記事の写真など比べものにならないくらい整った顔立ちだった。
蝶子という名前は贔屓にしていた客がつけてくれたもので、大企業の社長か会長か、とにかく相当の金持ちだったその男がタカキの父親という噂もあったらしい。
「でも、そのお客さんってその時もうおじいちゃんだったから、実は息子か孫の子じゃないかって話もあったんだけど、本当のところはどうなのかしらねぇ……」
蝶子の隣に座っている少年は小学校に上がった程度で、新聞に載っていた子供に間違いなかった。
「一度養子に出したんだけどね。やっぱり一緒に暮らしたいって言ってまた引き取ったのよ。ああ、そうそう。確か、蝶子ちゃんがうちに忘れていったもっと小さい頃の写真もあったはず―――」
どこにしまったかしら、と言いながらまだ開けていないダンボールのガムテープを切る。
もともと話し好きなんだろう。箱を漁る間も絶え間なく当時のことを聞かせてくれた。
そのほとんどは十河のことで、多少大袈裟に脚色されているとしても、どれほど蝶子を愛していたかということがよく分かった。
「ああ、やっと見つけたわ。この中のどこかにあると思うんだけど。でも、これじゃ探すの大変ねえ……」
彼女が覗き込んでいるのは大きな書類封筒。
ガサガサと適当に突っ込んであるだけらしく、妙な形に膨らんでいる。
「よかったらついでに整理しましょうか?」
「あら、ホント? じゃあお願いしようかしら。アルバムは買ってあるのよ。なのに、忙しいからってそのままにしちゃって……」
写真にはたいてい日付が入っており、順番に並べる程度なら困ることはなさそうだったし、枚数がそれなりに多くて時間がかかりそうなこともこちらには都合がよかった。
「分からないことがあったら聞きますから、その間にお店の準備でもしていてください」
随分前に購入したらしく表紙が少し褪せたアルバムを開きながらにっこり笑うと、彼女も人懐こい笑顔を返した。
「じゃあ、お言葉に甘えて。分からないことがあったら遠慮なく呼んでちょうだいね」
店に通じるドアがすっかり閉まるのを見届けてから、封筒に入れられた写真を取り出す。
枚数は多かったが、結婚式などで誰かに撮ってもらったものは受け取った時のまま封筒に入っている放置ぶりで、むしろこちらにはありがたかった。
まずは端からざっと目を通し、日付順に並べることから始めることにしたが、目当てのものは予想よりずっと早く見つかった。
写っていたのは若い男とその腕に抱かれている子供、それから、後ろで微笑んでいる整った顔立ちの女。
だが、場所はごく普通の家の中で、テーブルには『Happy Birthday』と書かれたケーキ。4本のろうそくには柔らかな火が灯っていた。
女は蝶子。子供を抱いている男はどう見ても十河だったが、もしかしたら今の自分より年下かもしれないと思うほど屈託のない笑顔を向けている。
そして、知りたいと思っていた事実は確かにそこにあった。
「……子供の頃は普通に小さかったんだな」
それほど親しい付き合いをしていなければ気づくことはなかったかもしれないし、正直なところ、面影はまったくと言っていいほど残っていない。
けれど、子供を見つめている十河の顔を見て、そうなのだと確信した。
酷く懐かしい場面が蘇る。
羽成といる時、十河はいつもこんな目をしていた。
自分の片腕としてどこへでも連れ歩いて。
何がそんなに特別なんだろうとずっと不思議だった。
でも。
とても大切にしていた女の子供。
それだけで十分だったのだと思うと、胸が締め付けられた。
感傷に浸りながら、時間を忘れて見入る写真の中。
幼いタカキと、その小さな手に髪を引っ張られている十河を、蝶子はまるでどちらも我が子であるかのように見守っていて、なんだかひどく不思議な感じがした。
「……これで全部、だよな」
本物のタカキの写真は合計四枚。
そのうちの一枚に写っていた風景に懐かしさを覚えて、記憶を引っかき回すと十河の残した住所に行き当たった。
後ろを走る見慣れない色合いの電車は今と変わっていなかったけれど。
更地だったあの場所には古びた小さな家が建っていて、その前でじゃれあう年の離れた兄弟のような二人には暖かな陽射しが降り注いでいた。
もしかすると十河にはこれが生涯唯一の安息の時間だったのかもしれない。
こんなふうに無邪気に笑うところを俺は一度も見たことがなかった。
日付順に揃えた後、アルバムに写真を並べながらもう一度隅々までチェックし、そのうちの何枚かをポケットに入れた。
川辺のあの家で撮ったもの、それから本物のタカキが写っているもの全て。
吉留絡みの物も何枚か抜き取ったが、その中にはあの写真と同じ日に撮ったと思われるものもあった。
おかげで予想外に時間がかかったが、戻ってきた彼女は全てを張り終えたアルバムを見ると、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「あら、早かったのね。もう終わったの?」
「ええ。一応、日付と時間の順番にしてあります」
これだけ暢気な性格なら、写真を抜かれたことなど気付きもしないだろう。
少なくとも蝶子の子供に関しては、後からここへ来た人間に正しい過去を見つけることはできないはずだ。
「タカキ君の小さい頃の写真はなかったのね。とても可愛らしかったんだけど……あれはお店で見せてもらったのかもしれないわねぇ」
一人で頷いてパラパラとアルバムをめくる彼女の手の中。
色褪せたアルバムに残された写真は「大きくなってまた手元に引き取った」というタカキだけがまるっきり本当の親子のように蝶子と笑い合っていた。
「蝶子ちゃんもいい人生じゃなかったわねえ。生きていれば大きなお店も任せてもらえたでしょうに……」
当時、まだヤクザの下っ端だった十河は『いつかあの店を買い取って蝶子をオーナーにしてやる』と言っていたらしい。
「なんだか微笑ましくてね、お店でも有名だったのよ。でも、蝶子ちゃんはずっと『もしプレゼントしてくれるならタカキが大きくなった時に』って言って……なのに、その息子さんまで亡くしちゃって」
少し涙ぐみながらそう呟く彼女の視線の先は蝶子の肩を抱く十河の写真。
「……本当に残念ですね」
十河はとてもあの店を大切にしていた。
事件の後、あの店を買い取ったのは蝶子の望みを叶えたかったからなのだろう。
そして、最後にはちゃんと『タカキ』がそれを受け取った。
十河と蝶子が望んだ通りに―――
部屋に積まれていたダンボールが全て片付いたのは日が落ちかけた頃。
「じゃあ、このへんで。あまりお役に立てなくてすみませんでした」
「そんなことないわよ。とても助かったわ」
『松崎さんには世話になっているからバイト代など受け取れない』と断ったにもかかわらず、彼女は強引に金の入った封筒を握らせて楽しそうに笑った。
「お酒が飲める年じゃなくて残念だけど、今度は美桜ちゃんと一緒にいらっしゃいね」
そのまま可愛らしく手を振って見送られ、俺もペコリと頭を下げた。
帰りに小さなノートパソコンを買い、マンションからそう遠くないビジネスホテルに部屋を借りた。
セッティングを済ませるとすぐに綾織の私室で携帯に収めた写真を取り込んだが、暗い場所で撮ったせいか大きな画面にして明度を調整しても細部までは分からず落胆した。
「もう少し綺麗に写ってると思ったのに」
自分に足りないのはああいう場面での冷静さだなと呟きながら、ふうっと大きく息をついた。
無意識のうちにデスクに並べていた写真は叔母の家から持ち帰ったもの。
それはまるで幸せな家族の一こま。
生意気そうな表情で十河に抱きかかえられている少年を最初に見た時は面影など残っていないと思ったのに。
「……実はこういう顔だよな、アイツ」
自分の呟きが封印していたものを手繰り寄せてしまう。
どんなに遠ざけようとしても一度思い出してしまうとまた頭から離れなくなる。
部屋のゴミ箱に捨てられた煙草の箱。
大きな手。
俺に背を向けてする電話。
その向こうには深くなる夜の空。
「……なんかの病気なんじゃないか、俺」
ホテルの窓の前。
雑念を振り払うように大きな溜め息をつき、真っ暗な空を見上げる。
それから、もう一度パソコンに向き直ったが、それと同時に鳴り響いた携帯が集中しかけていた意識を引き戻した。
「……誰だよ、まったく」
少し恨めしい気持ちで呟きながら、音のする方に手を伸ばした。
ウィンドウを覗き込み、かけてきた相手が羽成ではないと判った途端安堵が押しよせるのは、こうやって過去を嗅ぎ回っていることに対して、少なからずやましい気持ちがあるせいなのだろう。
『あ、氷上君? 今日はありがとう。もう、叔母さんたら、氷上君がすごくいい子だったってそればっかり―――』
いつも変わることのない明るい声を聞きながら、彼女と叔母とは確かに血が繋がっているなと妙なところで納得する。
「あんなにバイト代もらうほどは手伝わなかったんだけどね」
『いいのよ、もらっとけば。私なんて遊びにいくたび何にも手伝わなくてももらっちゃうし』
ぼんやりと目を遣った時計は八時前。
まだ時間はたっぷりあるなと思った時、聞き流せない言葉が耳を抜けた。
『それより、社長はもう来てる?』
「え?」
『なんだ、まだなのね。氷上君のところに行くって言ってたけど、携帯の電源切ってるみたいなの。そっちに着いたら、お店に―――』
電話して欲しいという伝言を聞く間に、写真やら資料やら大事なものを部屋の金庫に入れ、
『じゃあ、よろしくね』
彼女の言葉が終わると同時に缶ビール半分ほどを胃に流し込んで部屋を飛び出した。
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