Maybe … "Yes"

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ずっと待っていた。
「元気か?」と電話がかかってきて。
何もなかったように週末の約束をして。
すぐに元通りになれるって。
そう思っていたのに……―――

あれからずっと、楽しいことなんてなかったような気がした。




どう贔屓目に見ても一流とは言えない広告代理店。
フロアの片隅にある応接室にはいつになく重い空気が流れていた。
「ですから、どうしてもね、永海(ながみ)先生の写真でお願いしたいんですよ。それが駄目ならこの話はなかったことに――」
正確に言えば、重苦しくなっているのは自分も含めた代理店側だけ。
このクライアントからの依頼なしでは今期の数字が厳しいことくらい嫌というほど承知していた。
「永海修也先生ですか……ええ、もちろん大変素晴らしい写真家ですが」
課長の声も引き攣っている。
たとえそれが絶対に不可能なリクエストだと分かっていても、はっきり無理だと言うことはできない状態だった。
とりあえず引き受けて代わりの対策を練るしかない。
「いえ、こちらだってね、無理は承知でお願いしてるんですよ」
永海が撮れば必ず売れる。
この業界にはすっかりそんなジンクスができ上がっている。
『どうしても彼の写真で』という注文だって今に始まったことじゃない。
「ですが、永海先生はここのところ広告関係の仕事は受けていらっしゃらないので……」
どんなに良い条件を提示しても永海のマネージャーという男が頑なに断わるだけ。
大先生になったら二流以下の仕事は受けないのだとか、実はスランプらしいとか、勝手な憶測はいくらでも流れていたけれど。
「とにかく頼みますよ。おたくとは長い付き合いだから、私だってなんとかこのままお願いしたいんですよ。ですがね、今回はうちも勝負所で」
テーブルを挟んだ向かい側、依頼主である企業の広報課長はわざとらしいほど申し訳なさそうな顔を作った。
「実は今、他の代理店からも打診してもらってるところなんで、そちらからの話がまとまったら、申し訳ないんだが……まあ、そのつもりでお願いしますよ」
かなりの大手に声をかけたということなのだろう。
最悪の場合はこの会社からの依頼全てがそこに流れていくことになる。
「かしこまりました。なんとかご要望にお応えできるよう尽力いたします」
そう答えたものの、部長の言い方には諦めが見えた。


客が帰った後、緊急会議が開かれ、今後の対応について申し渡しがあった。
「笹原、今日から本郷の代わりに行ってくれ」
これまでだって永海を口説くことを怠ってきたわけではない。
好物だという差し入れを用意して、何人もの営業が朝に夕にご機嫌伺いをしてきた。それも半年以上だ。
向こうはいつだって窓口役の担当者が出てくるだけで、誰一人永海本人に会った者はいないというのに。
いまさら担当を替えたところで、どうせダメに決まってる。
「……わかりました」
無駄だと知りながら足を運ぶのは不本意だったが、断われるはずもない。
「じゃあ、くれぐれも頼んだからな」
うまく行かなかったら自分のミスにされるのかもしれない。
そんな邪推さえ頭を過ぎった。
「大変だな、おまえも」
隣の席の先輩がそっと同情の声をかけてきた。
「会えたとしても気難しいヤツっぽいしな」
プロフィールは公表していないが、この業界で名が知られるようになって10年余り。
発言が傲慢だという理由で同業者からの評判はあまり良くなかったが、写真を撮ってもらったというモデルたちは口をそろえて『素敵な方』だと噂しているらしい。
直接会った者には緘口令を敷いているのか、それ以上の情報が流れてこないという点においても徹底していた。
「ロクなヤツじゃないんだろ。だから表に出ないんだ。性格悪いって話も聞いたしな」
斜め前に座っていた同期が渋い顔で相槌を打つ。
永海の担当だった営業はそうやって自分を納得させているのだろう。
『必ず売れる』なんてつまらないジンクスがあるせいで、バカな企業が踊らされているだけだと言う者さえいた。



夕方、言われた通りに永海の事務所に出向いた。
だが、予想通り結果は散々だった。
対応をしたのは30過ぎくらいで、物腰のやわらかな男性。
けれど、返ってきた答えは容赦のないものだった。
「永海は現在休養中です。当面仕事のご依頼を受けるつもりはありません。本当に申し訳ありませんがどうかご理解下さい」
その言葉の後、もう来ないで欲しいと頼まれた。
最後通告だった。
諦めきれずに粘ってみたが、結果は同じ。
「今後は永海本人が納得した依頼以外は一切お引き受け致しません。お越し頂いてもお時間の無駄になりますから、どうか他を当たってください」
そうまで言われては引き下がるしかなかった。
思えば10年もの間、人気カメラマンの地位にあるのだ。
休養中でなくても小さな代理店の仕事など引き受ける気にはならないのだろう。
「……お時間を取らせて申し訳ありませんでした」
頭を下げてオフィスを出た。
エレベーターでため息をつき、外に出て事務所に電話する。
そうでなくても憂鬱だったのに。
『まったく。笹原の言い方が悪かったんじゃないか? だいたいオマエ、口調が冷たそうだっていつも言われてるからなぁ』
前に担当していた先輩に散々文句を言われ、課長に説教されて、苛立ちが押しよせた。
「……とにかく、そういうことですから」
事務所に戻る気になれなくて、適当な理由をつけて直帰することにした。


最悪の気分で駅に向かう。
煌びやかな装飾が施されたウィンドウが続く通りは腹立たしいほど賑やかだった。
夕飯を済ませて帰ろうかと思ったが食欲もない。
視線を上げれば、駅まではずっと人の波。
エネルギーがどんどん吸い取られていくような錯覚に陥り、うんざりしながらため息をついた。
「上手くいかないな……」
この件に限らず仕事は順調ではなかった。
2日前にも依頼主からクレームが来て、課長には散々厭味を言われた。
どう考えても自分に落ち度はなかった。
思うような結果を得られなかったせいで依頼主が八つ当たりしてきただけなのだ。
「ですが、御社も納得して採用してくださったものですし……」
そこまで言った瞬間に怒鳴られて、先方の機嫌をとるために担当を外された。
同僚は慰めてくれたが、だからといって気が晴れるわけでもない。

彼がいてくれたら――――

嫌なことがあると決まって、穏やかな微笑みが脳裏に浮かぶ。
別れてからもう2年も経つと言うのに、結局今でも忘れられない。
真面目で誠実で誰よりも優しかった。
あの人なら何と言っただろう。
『気にするなよ』でも『頑張れよ』でも何でもいい。
声が聞きたい。
笑顔が見たい。
今すぐ―――

そう思った瞬間、足が止まった。
「仁科……さん……?」
大通りの向かいを歩いていたのは間違いなくあの人だった。
久しぶりに見る笑顔も本当に変わっていなかった。
ただ一つ、隣りに新しい恋人がいることを除けば―――
仕事に追われてずっと一人だと聞いていた。
けれど、もう二年。
微笑み合う二人の間には誰が見ても判るほど特別な空気が流れていた。
「そ……うだよな……」
いつまでも引き摺っている自分がおかしいのだ。
分かっていても、その事実に打ちのめされた。

―――もう、戻れないんだな……

別れた日のことは今でも鮮明に覚えている。
親しい取引先の担当者と食事をした帰り。
話が弾んで少し飲み過ぎて、自分も相手も少し酔っていた。
『楽しかったですよ、笹原さん。また一緒に飲みに行きましょうね』
そんなことを言いながら時々肩を抱いて、耳元で冗談を言って。
でも、それだけのことだった。
『昨日の男、誰なんだ?』
翌日、あの人に尋ねられた。
『偶然、帰りに見かけたんだ』
そう告げた時、あの人の表情は硬かった。
やましい気持ちなどなかったのだから、相手は取引先の担当者で、仕事が終わった後で飲みに行ったのだと言えばよかったのに。
『信じる気がないなら、別にいいけど』
無性に腹が立って、気付いたらそう返していた。
これくらいのことで壊れるはずはない。
そう思っていたのに。
あの人は何も言わなかった。
勢いで部屋を飛び出したあとも、追いかけてきてはくれなかった。

それが最後。

そのあとすぐにあの人は独立して、それ以来会うこともなかった。
まさかそれきりになるとは思いもせずに電話を待っていた。
ほんの少し素直になれば良かっただけ。
自分から電話をして『ごめん』と言って、本当のことを話せばそれで済んだはず。
なのに、それができなかった。

それからは誰と付き合っても長続きしなかった。
心のどこかでいつも思ってた。
またやり直せるんじゃないかと。

―――……でも、それも終わりだ

投げやりな気分でバーに入った。
今までは一人で飲んだことなどなかったが、気が滅入ってどうしても部屋に帰る気になれなかった。
大通りからは少し外れた場所だからか、店内は意外と落ち着いていた。
客のほとんどはサラリーマンで、どのテーブルからも楽しげな声が聞こえた。
「同じ物でよろしいですか?」
「……はい」
カウンターの隅の席で煽るようにグラスを空けた。
今口をつけているこれが何杯目なのかも分からない。
バーテンダーが心配そうに話しかけてきたけれど、答える気になれなかった。
時間の経過もわからなくなって、酒が回り始めて。
軽く目を閉じた時、不意に声を掛けられた。
「隣り、座っても?」
チラリと視線を投げた先には若い男。
服装は決して派手ではなかったが、どこか雑誌に出てくるモデルのような感じで、遊び慣れた空気を漂わせていた。
「……どうぞ」
相手をするのは面倒に思えたが、無視していればそのうちいなくなるだろう。
わざとそちらを見ないようにして、カウンターに肘をついて飲み続けた。
けれど、隣りに座った男はそのあと一言も話さなかった。


閉店だと言われたのが午前0時。
「……すみません」
どうやら眠ってしまったらしい。
ぼんやりと起き上がったが酔いは少しも醒めてなくて、椅子から降りる足元がふらついた。
「……っ」
倒れる、と思った瞬間に抱き留めたのは、隣りに座っていた男だった。
「……まだ、居たんですか……」
無言のまま飲み続けていたんだろうか。
何時間もずっと……?
「つい見惚れちゃってね」
初対面でこんなことを言う男を信用する気にはなれなかったけれど。
回された腕に体を預けた。
もう、どうなってもいい。
今は何も考えたくなかった。
「それはOKってことだと思っていいわけ?」
男の質問には答えずに目を閉じた。
長い指がそっと顎にかかり、そのまま静かに唇を塞ぐ。
「ずいぶんと投げやりなんだな。人生、捨てちゃいましたって顔してるよ」
視線を上げると目の前に、思いがけず整った顔立ち。
そんなことさえどうでも良かったけれど。
「何か嫌な事でもあったのか……っていう質問は、ホテルに着いてからな?」
何も答えなくても勝手に進んでいく。
男は自分を抱き留めたまま会計を済ませてタクシーを拾うと、ホテルの名を告げた。



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