二つのベッド。夜景と高層ビル。
平日に、しかも都内のホテルに泊まることなどなかったから、この光景が不思議に思えて仕方なかった。
ホテルに入った時もまだ酔っていて、夕方見かけたあの人と恋人のことさえ全部は信じ切れずにいた。
「こんな美人が一人で飲んでるなんて、ラッキーだと思ったんだけど。まさか誘いに乗ってくれるとは思わなかったな」
勝手にしゃべり続ける男を無視して、目を閉じる。
思い浮かぶのは楽しげに並んで歩く二人の笑顔。
「で、上手くいってないのはプライベート?
それとも仕事?」
うるさいと思った。
なのに。
「……両方」
無意識のうちに答えを返していた。
「振られたってことか?」
笑っているのかと思ったのに。
男は真面目な顔でこちらを見ていた。
「……2年前にね」
二度と会わない相手。
ならば、こんな話も今夜限り。
こいつだって、どうせすぐに忘れるはず。
男はさっきからずっと少し心配そうな瞳を向けているけれど、服装も態度もどこか華やかで、自分とは住んでいる世界が違う気がした。
「で、まだ引き摺ってるってか? 見かけによらず一途なんだな」
呆れたように苦笑して、静かに隣りに腰かけた。
「仕事のことなら俺も悩みがないわけじゃないし、聞いてやれなくもないけどな」
笑いもせずに、そこで一度切った後、また言葉を続けた。
「俺、振られたことってないんだよな」
そんな返事をされて、まともに話す気が失せた。
「……もう、いいから、少し黙ってろよ」
どうせ今夜限り。
どう思われても構わない。
「これはまた、随分とお姫さまですこと」
おどけた口調も腹立たしく思えて。
眉を寄せたままプイッと顔を逸らした。
「まあ、それでもいいけど。俺、こういう可愛くないヤツも案外好きなんだ」
ニヤリと笑って顎に手を掛けた。
「生意気なヤツって無理やり組み敷いてみたくなるだろ?」
そんなセリフにも冷たい印象はなくて。
ただ、いたずらっ子のように映った。
「……好きにすればいいだろ」
どうでもいい。
今日のことなどなかったことにするのだから。
「本当に投げやりだな」
男はニヤニヤ笑ったまま服を脱がせて体に触れた。
けれど、口で言っていたような手荒な事はしなかった。
深く探るようなキスも、長くてもどかしい愛撫も。
悔しいほどに余裕があった。
「……ん……っ、っ、」
まだ触れられてからそんなに時間も経っていないというのに、身体は勝手に高まっていく。
「いい反応。それに、もしかしてあんまり慣れてない?
もっと遊んでるのかと思ってたんだけど」
男の読み通り。セックスは好きじゃなかった。だから、あまり経験もない。
特に挿れられるのは何度経験しても不快だった。
けれど―――
「じゃあ、そろそろ覚悟して」
顔色を窺いながら、少しずつ奥に入り込む。
「……っ」
最初こそ痛みを感じたものの、その後は全てが麻痺したかのようだった。
「力、抜いて……そう、そのまま、大丈夫だから」
酔っているせいなのか、あるいは男が上手いせいなのか。
もう、そんなことを考える余裕もなくなっていた。
「あ……っ、…っく」
今夜に限っておかしくなりそうなほど身体が反応して。
「キツイな。もしかしてマジで結構久しぶり?」
返事を求められても、何一つ言葉を返せなかった。
「ん……っ、あ、」
挿れられた時に萎えなかったことなんて今までに一度もなかったのに。
絶えず身体を愛撫する手が現実から遠ざける。
ただ、感じるだけでいい。何も考えずに任せておけば。
もう2度と会うこともない。
朝になったら、忘れればいい。
あの人の事と一緒に―――
「どうやら、本気で落ち込んでる時にやっちまったみたいだな」
眠れなくて虚ろに天井を見上げていたら、不意に言われた。
その言葉もなぜかため息交じり。
「……どうでもいいだろ」
他人に言われるようなことでもない。
「それは今夜限りだからって意味?」
思わせぶりな質問。
けれど、他の選択肢があるとは思えなかった。
それ以上に、もう2度と会いたくないと思った。
数秒間の沈黙の間に、男はちゃんとその意味を掴んだ。
「それは残念。顔、体ともカンペキなんだけどな」
不意に抱き寄せられて、額に男の唇が当った。
「それだけ美人なら、好きなだけ取っ替え引っ替えできるだろ。なのに慣れてないってことは、めったに体の関係は持たなくて焦らすだけ焦らしてサヨウナラってタイプ?」
口を利く気にもなれなかったけど。
「……それも、あんたには関係ないだろ」
何故、こんな男と寝てしまったんだろう。
そう思った瞬間にそこを突かれた。
「軽薄な男は嫌いってか。なら、なんで俺と寝た?
一夜限りなら後腐れのない相手がいいと思った?」
不注意だったと今更ながらに後悔が押し寄せた。
「……うるさいって」
どんなに不機嫌な顔をしても、男は話し続ける。
触れられたくない部分を抉るような言葉で。
「実は振られるのは生まれて初めてで、そのショックから立ち直れないとか?」
なのに、キスをしながら。
少しも視線を逸らさずに。
「なあ、どんな相手なら気持ちまで許すわけ?」
薄く笑う口元もバカにしているわけではなさそうだったけれど。
なぜか無性に苛立った。
こんな相手に神経をすり減らしても仕方ないのに。
「ふうん。何を聞いても返事なし、か」
どうしても離れない。
あの人の面影。
真面目で優しい人だった。
きっと今でもそれは変わっていないだろう。
「ホントにお姫さまなんだな。今まではそれで許されてきたわけ? それじゃ仕事も恋愛も上手くいくはずないだろ?」
無神経な男。
あの人とは正反対。
「それとも外面はいいのか? おネエさまとかオヤジなら顔だけで口説けそうだもんな」
隣りでしゃべる男の声が遠くなった。
あの人を見上げて笑っていた制服姿の少年。その華やかな笑顔が脳裏を過る。
無邪気にはしゃいで。
本当に楽しくて仕方ないと言うように笑っていた。
あんな恋人なら、誰だって可愛く思うだろう。
あの人も優しい眼差しで見つめていた。
以前は自分に向けられていた瞳。
あの頃に戻れるなら、同じようにあの人の隣りを並んで歩きたい。
人目なんて気にせずに、笑い合って、キスをして。
―――けれど、もう戻れない
目覚めると同時に目が合った。
「おはよう、お姫さま。ご機嫌は直りましたでしょうか?」
すっかり身支度を整えていた男は、そう言いながらベッドに腰掛けてキスを落とした。
昨夜のことを思い出すと少し心苦しさもあったが、朝から悪ふざけなどされてはそんな気持ちも吹き飛ぶ。
無言のままシャワーを浴びて、昨日と同じ服に身を包んだ。
その間も男はしゃべり続ける。
「仕事場が近くなんだ。車取ってきて送っていこうか。自宅に帰る? それとも会社?」
あくまでも能天気な口調にうんざりしながら、視線を逸らせた。
「今朝も返事はナシか? 冷たいね、お姫さま」
馴れ馴れしく肩を抱いた手を払い除けてホテルを出た。
「その呼び方、止めろよ」
そうでなくても朝は調子が悪いのに。
「じゃあ、お嬢さま?」
ニヤニヤ笑いながら頬に唇を当てる。
「ふざけるなって言ってるだろう?」
思い切り振り払っても、「はいはい」と肩を竦めて隣りを歩く。
怒りもしない。
珍しいものでも見るように、ずっと視線を外さない。
何を考えているのかわからないことが余計に苛立ちを大きくさせた。
「駅まで送るのも拒否? まだご機嫌斜めなのか?
それとも低血圧? もしかして腹減った?」
全て無視して歩き続ける。駅まであと少し。
その間も男は笑いながらついてきた。
「名刺も受け取ってくれないわけ? そんな奴、初めてだな」
何がおかしいのか。
ただ笑いながら、改札を抜けていく後ろ姿を見送っていた。
シャツもネクタイも昨日のまま出社した。
仕事が上手くいっていないことを思い出して苛々した気分に憂鬱が加わる。
昨夜のことが頭を掠めるたびに自己嫌悪が倍増する。
本当に最悪の朝。
とりあえず席に着いたものの、仕事をする気にはなれなかった。
だが。
「やったな、笹原。オッケーの返事が来たぞ」
いきなり肩を叩かれて、そう告げられた。
「え?」
一瞬、何のことか分からずに先輩を見上げた。
「永海さんの件だよ」
そこまで言われても状況が分からずに眉を寄せる。
「……その件でしたら、昨日、担当の方にはっきりと断わられましたが」
そうだ。
昨日。
応接室に通されて、本人の代理という人と15分ほど話して。
その後、もう諦めて欲しいと言われたはずなのに。
「何かの間違いじゃ……」
100%疑いの気持ちで聞き返す。
けれど返事は変わらない。
「いや。確かにオッケーだったよ。しかも今朝、初めて永海先生本人が電話に出た」
担当の先輩が昨日の件を詫びるために電話をしたのが、つい10分前。
「うわぁ、いいなぁ。菊池さん話したんですか?
どんな声でした?」
事務所内は妙に浮かれていたけれど。
「意外と若い。でも、やっぱ大物って感じだったな」
今までずっと、それこそ半年間NOと言われ続けていたのに。
「……そんなこと……」
あるはずがない。
「まあ、とにかくオッケーはオッケーだからな」
二日酔いのせいなのか、頭がまともに働かない。
「あ、今日の打ち合わせには笹原行ってくれ」
課長の言葉も危うく素通りするところだった。
「え?」
「先方のご指名だよ。担当は必ず昨日来た人にしてくださいってさ。オメデトウ」
どういうことなのか分からなかった。
だって、昨日はハッキリと―――
訝しく思いつつも電話を入れて、課長と二人で挨拶に出向くと伝えた。
だが。
昨日は失礼致しましたという型通りの謝罪の後、
『上司は抜きで気楽にやりませんか?』
そんな言葉が返ってきた。
『どうせ実際の仕事の話は担当者同士がするんですから、上の方は居てもいなくても同じことですよね?』
昨日と同じ担当者だったが、打って変わって親しげだった。
「……わかりました」
できるだけ早い時間にと言われて、すぐに出かける準備をした。
「くれぐれも失礼のないようにするんだぞ?」
部長に言われて。
「わかっています」
気乗りがしないまま返事をする。
その側から、
「笹原、頼むぞ。失礼のないようにな?」
課長にも同じセリフを言われて、うんざりしながら事務所を出た。
受付でベルを鳴らす。
静かなオフィスには人の気配さえ感じなかった。
だが。
「いらっしゃい、笹原さん」
数秒後、ニヤニヤした顔が出迎えた。
「……昨日の……」
夕べの男が短い返事と共にニヤリと笑った。
「どうも。今回はちゃんと名刺もらってくれるよな?」
差し出された小洒落た名刺には『永海修也』と書かれていた。
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