その後、永海との関係は少しだけ変わった。
言葉を交わしても、以前のように本気で突っかかることはほとんどなくなっていた。
「お帰り、笹原」
朝一のアポ先から戻ったら、永海が事務所の片隅にある打ち合わせスペースでのんびりと茶をすすっていた。
「何かあったんですか?」
一応、仕事口調で聞いてみたけれど。
「別に、遊びにきただけ。気にせず仕事しろよ」
あまりにも呑気な声に気が抜けた。
「……自分こそ事務所に戻って仕事した方がいいんじゃないのか。明日、締め切りだって分かってるんだろうな?」
小声で言ったつもりだったのに、部長のキツイ視線が飛んできた。
そんな場面なのに永海は笑いながら、またシャッターを切った。
「勝手に撮るなって言ってるだろう?」
「はいはい。お姫様」
そんな会話もすっかり当たり前になったけれど。
「……その呼び方はやめろよ」
呆れながら自席に向かう途中、事務の女性に声を掛けられた。
「あ、笹原さん、P社の件で応接に提携先のご担当者が見えてますけど」
時計を見たら、約束の5分前。
「わかりました。すぐ行きます」
焦りながら資料を揃えていたら、隣りの席から冷やかしが飛んだ。
「覚悟して行けよ、笹原。先方の担当者、仁科だぞ」
言われた瞬間に心臓が止まった。
「……え?」
どういうことなのか理解できずにいたら、後に座っていた先輩が言葉を足した。
「仁科が独立して持ってる事務所。そこが提先ってこと。分かった?」
返す言葉も思いつかなくて、何の返事もせずに応接室に向かった。
「笹原、何あせってんだ?」
途中で永海に呼び止められたけれど、振り返る余裕もなかった。
応接室の前に立って、何から話そうとか、どんな顔をすればいいのだろうとかいろいろ考えたけれど、頭の中が真っ白で何も浮かんでこなかった。
だからと言っていつまでも突っ立っているわけにはいかず、一度深呼吸をしてからドアをノックした。
「どうぞ」
忘れたことなどない。
優しくて落ち着いた声。
「……失礼します」
入ってから、自分が書類を何も持っていないことに気付いたけれど。
「久しぶりだな、笹原。元気そうで良かった」
立ち上がって迎える穏やかな表情を見たら、そんなことさえどうでもよくなった。
「仁科さんこそ……お元気そうで」
少し頭を下げる。
まだ、真正面から見つめる勇気がなくて、あちこちに視線をさまよわせていたら、
「相変わらずだな」
彼はそう言って、本当にホッとしたように笑顔を見せた。
変わらない笑顔。
優しい声。
けれど、もう2年―――
あの日のこと、あれからのこと。
話したいことはたくさんあったのに。
不意に隣りを歩いていた少年の笑顔が過って、話す必要のない言葉を告げてしまった。
「……先日、駅の近くで仁科さんをお見かけしました」
言ってから少し後悔したけれど、あの人はごく普通にそれを受け止めた。
「だったら、声を掛けてくれればよかったのに」
なんでもないことのように言ったけれど、声を掛けなかった理由は分かっているのだろう。
少しだけ照れたような表情を浮かべた。
「……でも、少し意外でした」
年の離れた恋人。
どうやって知り合ったのだろう。
どちらが先に好きだと言ったのだろう。
それが彼だとしたら、少し悔しいと思ったけれど。
「……俺もね。ちょっと驚いてる」
彼らしいその返事に、思わず微笑んでいた。
無邪気で明るくて、自分にはないものばかり。
なんの躊躇いもなく彼に笑いかけていたように。
まっすぐに「好きです」と言ったのだろう。
そんな相手を可愛く思わないはずはない。
あまりにも自分とは違い過ぎて。
気持ちが沈んでいく。
立ち尽くしたままうつむいていたら、視界の隅に映っていた彼の口元がゆっくりと開いた。
「まあ、半分は保護者の気分だけどね」
その声に少しだけ顔を上げたら、彼は少し遠くに目を遣った。
それから、
「……でも、笹原の時も、あんまり変わらなかったかな……」
独り言のようにそう呟いて、穏やかに微笑んだ。
2年なんてあっと言う間。
けれど。
思い出さなければならないほど、遠くに置いてきてしまった時間。
「あの子が、笹原と少しでも似ていたら付き合えなかったよ」
穏やかな声が狭い部屋に響いた。
「笹原のこと、ずっと引き摺ってた。あの時、なんで理由も聞かずに突き放したんだろうって……なんで連絡しなかったんだろうって。何度も後悔したよ」
優しい瞳も、仕種も口調も。
変わらない。
「……そう……ですか」
彼の中ではもうすっかり過去になったこと。
なのに、自分はまだ気持ちの整理がつかなくて、少しでも気持ちが緩んだら『ずっと忘れられなかった』と言ってしまいそうな気がした。
だから、何も言うことができなくて、またうつむいた。
気持ちをやり過ごすまでの少しの沈黙。
ふうっと息を吐いて、やっと顔を上げた時、彼から予想外の問いが投げられた。
「笹原も恋人ができたんだって?」
微笑みかける彼の表情。
冗談などではないのだろう。
「松浦が、この間、二人でタクシーに乗るところを見かけたって言ってたから。明るくていい奴っぽかったって聞いて安心したよ」
確認するまでもなく、それは永海のことなのだろう。
だから、すぐには返事ができなかった。
恋人なんかじゃないと正直に答えた方がいい。
心の半分でそう思って。
残りの半分で違うことを考えた。
優しい人だから。
心配などさせたくない……
「あ、違ったら、ごめん。松浦が絶対そうだって言うから、そうなのかなと思っただけなんだ」
申し訳なさそうな顔を見て、結局、首を振った。
別れてから2年も経つのに、今でも変わらず優しさを向ける人。
それが、少し苦しかった。
嘘でもいい。
これ以上、重荷にはなりたくない。
誰よりも好きだった。
ずっと、忘れられなかった。
だから――――
「……でも……なんだか遊び人ぽくて……仁科さん、会ったらきっと反対しますよ」
冗談めかして笑ってみせる。
精一杯の嘘。
他愛もないこと。
こんな嘘で流してしまえるなら、きっとその方がいい。
自分に言い聞かせてもう一度微笑む。
「今、ちょうど事務所に来てますから、ご紹介します」
簡単なことだ。
永海なら、遊び半分でいくらでも付き合ってくれるだろう。
「そう……」
曖昧な笑みとともに、少し考えてから。
「楽しみだな」と言うその言葉がスッと通り抜けていく。
「……じゃあ、少し待っててください」
勢いで言ってみたものの、いざその場になると気が重い。
でも、ついてしまった嘘を取り消すわけにもいかなくて。
なんて切り出そうかと考えながら、お茶をすすってるはずの男を呼びにいこうとドアを開けた。
「……永海……?」
開けたドアの真正面に、永海が立っていた。
「話、もう終わったのか?」
なぜか心配そうな顔で。
少しそわそわしながら。
「立ち聞きなんて趣味悪いな」
そう言ったら、気まずそうに目を逸らせた。
「笹原があんまり遅いから、ちょっと気になったんだ」
入ってから、それほど時間は経っていないのに。
自信家で、いつでも余裕で見下ろしている男が、こんなに子供っぽい顔で目を逸らすなんて。
「打ち合わせなんだ。仕方ないだろう?」
それでも永海は少しも納得していない表情のまま。
「……そんなこと分かってるけどな」
さらに少しだけ不機嫌な顔を見せた。
だから、恋人の振りをさせる気など失せてしまった。
いまさら嘘だというのは気が重かったけれど。
やはり本当のことを言おう。
そう思って、これ以上はないほど憂鬱な気持ちで振り返った。
なのに。
「……よかったよ」
優しい人は微笑んだまま、俺と、明後日の方向を見たまま拗ねている男を見比べていた。
「笹原、」
優しい眼差しで、にっこり微笑んで。
静かに言った。
「俺は、反対しないよ」
本当にほっとした顔で笑うから。
「仁科さん、違……」
言いかけてはみたものの、否定しきれなくてそのまま口を閉ざした。
彼は優しい瞳のままでこちらを見つめていたけれど。
「……じゃ、俺はもう帰るけど……来週辺りにもうちょっと詳しい打ち合わせをしような。久しぶりに会えてよかったよ」
そう言い残して。
たぶん、微笑んだまま出ていった。
それを見送ることもできずに、ただ呆然と突っ立っていた。
ドアが閉まる音が背中に響いて。その瞬間に気が緩んだ。
「さ、笹原……?」
さっきまでふて腐れていた男がうろたえながら、慌ててハンカチを探し始めた。
「追いかけるなら、行ってもいいぜ?」
永海がどんな顔でその言葉を言っているのかはわからなかったけれど。
ハンカチは見つからなかったらしく、代わりに俺を抱き寄せた。
何も言わずに首を振って。
抱き締められたまま目を閉じた。
「笹原が行きにくいって言うなら、俺が引き止めてもう一回連れてきてやっても……」
「……もう、いいよ」
その返事は諦めでも強がりでもなかったのに。
「来週また顔を合わせるから嫌だっていうなら仕方ないけど、でも、一度ちゃんと話して……」
永海はなんだか必死で。
「そうじゃなくて……」
本当はずっと前に終わっていたのだけれど。
「もう、ケリ、ついたから―――」
ようやく、心からそう思えた。
今日までずっと引き摺っていた。
あの人も、自分も。
それがわかった時にはもう戻れないところまで来てしまっていたけれど。
「……永海、」
今、自分がどこに立っているのか、ようやく分かった気がした。
「なんだよ?」
永海がふて腐れていた意味など、とうに承知の上で。
でも、まだ真正面から受け止めることはできなくて。
「……本当は同い年なんだって?」
不意に告げられた言葉に永海はあからさまに動揺した。
「誰に聞いたんだよ??」
「小池さん」
そう答えたら、「ったく」と言いながらも、渋々認めた。
そして、少しだけ悪あがきをした。
「……まあ、学年は一緒だけどな。でも、今のところ、まだ俺が年上だって」
永海が何でそんなつまらないことにこだわるのか、考えるとおかしくて仕方なかったけれど。
「そんなくだらないことで嘘なんてつくなよ」
そう言ったら、背中に回されていた腕に力がこもった。
「嘘なんてついてないだろ?」
真面目な顔で言い切ったけれど。
その後で言い訳をした。
「だいたい笹原が『年上じゃなきゃダメ』とか言うから」
それも小池さんが言っていた通りで。
「そういう大人げないところが駄目なんだよ」
笑ってしまいそうになったけれど。
「あ、そう。いいけどな、別に」
そんなことを言いながらも、永海の手はもうすっかり乾いた頬を拭き続けていた。
遠慮などせずに言い合える相手が目の前にいて。
外では絶対見せないような心配そうな顔で見つめている。
わがままで、どこか子供っぽくて。
同い年なんて絶対に駄目だと思っていた。
それは今も変わってないはずなのに。
「でも、俺は笹原のこと好きだからな」
こいつが案外いい奴だったから。
戻らない日々を追うのは、もう止めようと思った。
彼の新しい恋人のように。
素直に甘えられる日が来るとは思えなかったけれど―――
「永海、」
見上げて、少しだけ微笑んだ。
ただそれだけなのに、永海はずいぶんと先回りした返事をよこした。
「……それ、オッケーってことだよな?」
そんな確認も変に嬉しそうで。
「まだ何にも言ってないだろう? 人の話、ちゃんと聞けよ」
否定の言葉も聞こえていたはずなのに、抱き締めていた腕に力をこめた。
「すっげー嬉しいかも」
「だから、勝手に決めるなって……」
もがいていたら、背中に回された永海の手が上下した。
「……何してるんだよ?」
くすぐったくて体を捩ったけれど。
「ちょっと確認してるだけ」
永海は笑いもせずにそんなことを言った。
「……馬鹿じゃないのか?」
「もう、なんでもいいから」
その後でまた少し笑って、もう一度抱き締めた。
静かな応接室に永海と二人。
しばらく無言のままそうして抱き締められていたけれど。
不意に背中でバタンとドアがしまる音がして、慌てて永海から離れた。
彼が忘れ物でもして戻ってきたのかと思ったけれど、振り返った時にはもう誰もいなかった。
「心配しなくても、もう行っちまったよ」
永海は別に慌てている様子もなく、また背中に腕を回した。
「誰が来たんだ?」
永海の様子からしても彼ではなかったのだろう。
そう思っていたら。
「おまえのとこの部長サン」
涼しい顔でそう言われて、
「バカ、気付いたらすぐに離れろよ!」
思わず怒鳴っていた。
「いいだろ、いまさら。どうせみんなそう思ってるんだし」
「そんなこと……」
あってたまるかと思ったけれど。
実際のところ、周囲がどう思っているのかは分からなかった。
永海との仕事に妙に好意的なのも気になった。
「会社公認の方が何かとやりやすいって」
「まだ付き合ってないだろ?」
永海はその言葉を聞き流した後、いつもの調子で「明日、二人で海に行こう」とか「美味しい店見つけたんだ」とか、そんなことを言いはじめた。
「で、笹原はどこがいい?」
気がつくといつでも永海のペースになっていて、それはやっぱり少し不愉快なのだけれど。
「仕事中にそんなことできるわけないだろう?」
こちらが呆れ果てても、ニッカリ笑うだけで。
「大丈夫だって。気になるなら、ちゃんと俺から部長サンに頼んでOKもらってやるよ」
その後で、こちらの気分をさらに逆撫でするように、「なんなら社長に言ってもいいぜ?」とまで言われて絶句した。
「会社を何だと思ってるんだよ?」
会社勤めの経験がないからと言って、ここまで世間とずれているとさすがに閉口する。
「あ、笹原と別れたらこの仕事はやめるって言っておこうかな。そしたら、平日もデートし放題だろ?」
しゃあしゃあとそんな科白を言い切った。
「……別れるっていう以前に付き合ってないだろう?」
腹立たしいほど気楽で、わがままで。
自分の理解の範疇は軽く超えてしまっているのだけれど。
「さっきオッケーって言わなかったっけ?」
さらりと言いのけて明るく笑う永海につられてしまいそうになる。
「……ひとことも言ってない」
考え込んだり悩んだりするのがバカらしくなるほど屈託のない笑顔。
「でも、まあ、そういうことで。とりあえずその辺は気にしないで楽しんでおこうぜ?
な?」
そう言ってから、またギュッと抱き締めて耳元で囁く。
「なんなら、今から行こうか?」
「え?」
「海。まだ泳げないだろうけど」
その返事に少し面食らいながらも視線を上げる。
「な?」
もう一度、返事を促されて。
真っ直ぐな瞳を向ける男に笑顔を返した。
end
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