「僕からこんなこと話すの、おかしいって思うんですけど。永海君、このところ本当に上手くいってなくて……笹原さんのことが立ち直るきっかけになるならって思うんです」
永海自身がスランプだと言っていた時はそれほど重く受け止めていなかったけれど、小池さんがこんな席で言うとなれば、それなりに深刻なんだろう。
「10年もやっていれば一度や二度のスランプはあって当然だと思います。でも、」
そこで小池さんは言葉を切った。
「それはそれでチャンスだと思うんです。今度は、売るための写真じゃなくて永海君が撮りたいものを撮らせてあげたい。だから、」
正座したまま向かい合っている状態では適当にはぐらかすこともできなかった。
「……ですが、モデルの件は……」
そう言いかけたけれど、小池さんは「それはわかっています」と穏やかに言っただけだった。
「だったら……」
意図することが解からずに戸惑っていると、小池さんはふっと表情を崩した。
「永海君は10年間ずっと自分の時間を削って写真を撮り続けてきました。でも、今、彼の手元に残っているのはお金と知名度だけなんです」
それだけ、と軽く言うけれど。
若くして金も名誉も手に入れた。
社会的な成功を言うならば、他に必要なものなんてない。
「でも、永海修也の名前があれば、この先も仕事には困らないでしょう?」
何よりも永海には才能があって、それから、永海にない物を補える人が側にいて。
永海はこの先も何も考えずに写真を撮っていればいい。
「そう、でも、」
こんなふうに小池さんが話すのも永海のため。
それが少し羨ましかった。
「永海君の欲しかったのはそんなものじゃないんです」
そう思いませんか、と尋ね返されたけれど。
何と答えたらいいのか分からずに口を閉ざした。
小池さんの表情の半分は諦めに見えたけれど、それでも真っ直ぐにこちらを見て姿勢を正して切り出した。
「それで……笹原さんにお願いがあるんです」
モデルの件については「わかってる」と言ったのだから、きっとそんな話ではないのだろう。
「なんでしょうか?」
聞くのが少し怖かった。
けれど、それは悟られないように短い返事をした。
無理な願い事をする人ではない。
それは判っていたけれど。
彼の口から出た次の言葉は本当にどうってことのないものだった。
「永海君の言うこと、どうか最後まで聞いてやってもらえませんか」
「……え?」
そんな言葉が耳を通り抜けて、急に居心地が悪くなった。
少なくともいい大人が言われるようなことじゃない。
「彼の言葉、慣れない方にはとても自分勝手に聞こえると思います。腹が立つこともあるでしょう。聞きたくないって思うことも」
今までどれほど投げやりな気持ちで永海と接してきたのかを思い出して、顔が火照った。
何度も途中で無理やり会話を終わらせて背を向けたことも、一方的に当たり散らしたりしたこともあった。
小池さんがどこまでそれを知っているのかは分からなかったけれど。
「永海君の言い方がよくないことは分かってます。でも―――」
お願いしますと深々と頭を下げられて返す言葉がなかった。
最後まで会話が続かないのだって、永海が悪いわけじゃない。
悪気はないのだと分かっていながら勝手に腹を立てているだけだ。
「……いえ、こちらこそ……すみません」
どう考えても非は自分にある。
「嫌だな。笹原さんが謝ることなんて」
そう言われたけれど首を振った。
小池さんになら素直に詫びることもできるのに。
なぜ、永海には言えないのだろう。
永海だけじゃない。
あの人にも同じことをしてきた。
ずっと。
たまには二人で出かけようと言われても、理由も言わず断わるだけ。
それさえ笑って許してくれた。
『無理はしなくていいよ。笹原が嫌なら、正直に嫌って言ってくれればいい』
どんな我がままでも受け入れてくれた。
ただ、それが嬉しくて。
だから―――
黙り込んでいたら、小池さんは少しだけ困ったように笑って、突然、話題を変えた。
「笹原さん、今年のお誕生日はもう来ましたか?」
「……いいえ」
あまりに唐突な質問だったから、小池さんも実は酔っているのだろうかと思ったけれど。
「永海君、今、27なんです」
いつもの通り、落ち着いた声と笑顔で静かにそう告げた。
永海の言動からしても、自分とそれほど離れていないだろうとは思っていたけれど。
「……1つしか違わないんですね」
なんとなく頷いて一人で納得していたら、小池さんは少し悪戯っぽくクスッと笑って目を細めた。
「先月27になったばかりなんですよ」
「……え?」
「本当は笹原さんと同い年です」
返す言葉がなかった。
「けど、もう10年以上……」
プロフィールを公表しないカメラマン。
けれど、キャリアがどれくらいなのかは皆が知っていた。
「高校生の時からですから、それは嘘じゃないです。プロフィールを公開しなかったのも永海君が普通の生活を送れるようにという配慮のつもりでした。でも、結局、勉強と写真、そればっかりで……失恋したことがないって言うのも、あるいは僕のせいなのかなって……」
微笑んだままだったけれど。
「もっと他にやりたかったこともあったんだろうなって、今でもときどき思うんです」
眠っている永海に視線を移して、一度、目を閉じた小池さんの横顔はとても苦しそうに見えた。
「笹原さん、」
「……はい」
「永海が笹原さんに年上だって言い張った理由、わかりますか?」
自分の方が上だと言っていた時の永海はとても嬉しそうだった。
「……理由なんて」
本当は薄々分かっていたけれど。
でも、首を振った。
「そうですか。機会があったら永海君に聞いてみてください……まあ、聞いたところできっと笹原さんのせいにすると思うんですけどね」
小池さんはそう言ったきり、あとはただ笑っていた。
間もなく永海が目を覚まして、接待はお開きになった。
「お疲れさまでした」
事務的な挨拶の後、
「おやすみなさい、笹原さん。今日は楽しかったです」
小池さんはそう言って先に帰っていった。
後ろ姿にペコリと会釈をしてから、寝起きでぼんやりしている永海を置いて車を拾いにいった。
タクシーが捕まった時、永海は隣りで大あくびをしていた。
その顔を見ながら、このところ立て続けに無理な依頼をしたことに思い当たった。
「では、お気をつけてお帰りください。お疲れさまでし……」
儀礼的な挨拶が終わらないうちに永海はニカッと笑って、人の腕をいきなり掴むと無理やりタクシーに引き摺り込んだ。
「ちょっと強引か?」
笑いながらそんなことを言ったあとすぐに言葉を足した。
「もうちょっとだけ付き合えよ。軽く飲むだけだから、な?」
どこへ行くのか聞こうとした時、永海がタクシーの運転手に目的地を告げた。
「青梅街道沿いを高円寺方面。環七よりちょっと手前で止めて」
行き先は永海のマンション。
「もう遅いですから……それに永海先生もお疲れでしょうし、」
厭味のつもりはなかったけれど、永海は顔を顰めた。
「その呼び方やめろって。それから、そのあからさまな牽制も。俺んちに来たからって100%何かあるわけじゃないんだからな」
「なんですか、それ」
「そのまんまの意味だよ。別にやらなくてもいいってこと」
呆れたような、可笑しいような、変な気分だったけれど。
すぐには返事ができなくて、沈黙している間に永海のペースで流されていく。
「じゃ、オッケーってことで」
快く承諾したわけではなかったけれど、結局、拒否もしなかった。
マンションに着くと、永海はすぐにバスタオルと着替えを出して手渡した。
「飲んで寝ちまう前に風呂入ってこいよ。酒の用意しておくから」
バスルームのドアを開ける時にチラリと振り返ったら、永海は楽しそうにテーブルにグラスを並べていた。
シャワーを浴びていくらかスッキリした気分でソファに腰掛ける。
入れ替わりにバスルームに向かった永海を見送ってから部屋を見回す。
カメラと本と生活雑貨。
ごく普通の部屋だ。最初に来た時と変わらない。
けれど、いつの間にか、あの写真が壁に掛けてあった。
永海のお気に入り。
白くぼやけた朝の光。
「どうした、笹原。もしかして疲れた?」
風呂から出てきた永海は少しだけ心配そうにちらりと視線を飛ばしてきたけれど。
それでも遠慮なく言い切った。
「ま、軽く飲んでからだな。嫌なら抱かない。嫌がる奴を無理やり抱くほど俺も相手に困ってないし」
そういうところも少しも変わらないなと思ったけれど。
何も言葉を返さなくても、永海は勝手に話し続ける。
「笹原、一人暮しなんだろ? 家でいつも何してんの?」
こちらの態度などまったく気にしない。
他愛もない話をしながら当たり前のように隣りに座った。
「テレビ見て風呂入って寝るだけ?」
半分くらいまで酒を注いだグラスを差し出してから、自分のグラスにもジャバジャバと酒を入れた。
「まあ、そうかな……」
やっとそれだけ答えて。
思い返してみたけれど、出先で話題に困らないようにニュースを見て新聞を読むだけの日々。
あの人と一緒だった頃は平日でも電話をしたり、泊まりに行ったりしていたのに。
別れた後は、自分ひとりだけしかいない部屋で何かをする気にはなれなくて、ただ時間を潰すような生活をしていた。
そんなことを考え始めると、また落ち込んでしまいそうだったけれど。
そのたびに永海が心配そうに顔を覗き込むから、嫌でも我に返る。
「なあ、もしかして笹原って本当は一人じゃダメってタイプ?」
言い当てられて、思わず口篭もった。
「そんなこと……」
あの人と付き合うまでは、どちらかといわなくても一人の方が好きだと思ってた。
なのに。
「だってなぁ……小池さんも言ってたけど、年上じゃなきゃダメなんて包容力を求めるってこと以外の何ものでもないだろ?」
たぶん、そうなのだろう。
無条件で側にいて、いつでも受け入れてくれる相手がどれほど心地良いのかを知ってしまったから。
けれど、永海の言葉を肯定するのが悔しくて、気持ちとは違う言葉がこぼれる。
「大人げない人間が嫌いなだけだよ」
そんな嘘。
小池さんなら、簡単に見抜いただろう。
けれど、永海は気付かないはず。
「ふうん。笹原って自分のことは思いっきり棚に上げられる性格なんだな」
案の定、そんな返事をしてきた。
それだって永海の言う通りだと思うけれど。
「他人の気分を害するのがそんなに楽しいのか?」
また、そんな言葉を返していた。
口で言うほど腹が立っているわけではないのに、突っかからずにいられないのは何故なんだろう
「いや。笹原ももう少し素直な性格なら、優しくて真面目な彼氏ができるんじゃないかなって思っただけ」
それでも永海は笑ってこちらを見て、またほんの少しグラスに酒を足した。
「そんなこと……」
そう言いかけた時、何もしないといっていたはずの永海が肩に手を回した。
そのまま抱き寄せて唇を塞ぐ。
「やめ……っ」
拒むつもりなのに、抗えずに抱きすくめられる。
身動きが取れないほど強く抱き締めた腕とは対照的に、唇は柔らかく求めてきた。
甘い感触に目眩がして。
突き放す事もできずに唇を開く。
温かい舌先が深く入り込んできて、体が緊張した瞬間。
永海はそっと離れていった。
「……な、笹原」
グラスに氷を落として。
「謝ったりとかしなくてもさ、電話だけしてみれば良かったんじゃないのか?
優しい奴だったんだろ?」
急にあの人の話なんてするから。
少しだけ気が緩んだ。
何度も後悔したこと。
いまさら言われるまでもないのに。
「なんなら今から電話してみたら? 聞いててやるから。ほら―――」
テーブルに置いてあった携帯を渡されて。
受け取る時に指が触れた。
温かい手。
真剣な瞳。
「電話番号、まだ残ってるんだろ?」
永海の言葉にわずかに頷いた。
けれど。
「……もう……」
終わったことは分かってるのだから。
かけたところで何も変わらない。
「でもな、」
永海は傍らに置いてあったカメラを取り上げて、ため息交じりに呟いた。
「俺としては、いい加減、ケリつけて欲しいんだけど」
ふざけてなどいなくて。
怒ってもいなくて。
「……永海には関係ないだろ」
ファインダーを覗きながら。
「関係ないって言うけどな、」
また、ため息をついて。
「こっちの身にもなってもらいたいもんだよな……」
独り言のようにそう言ってシャッターを切った。
「勝手に撮るなよ」
何度も繰り返した言葉。
「いいだろ、そんくらい。笹原、お高くとまり過ぎ」
こんな返事もすっと気持ちに染み込んでいくような気がして。
返す言葉をみつけられなかった。
沈黙が流れたけれど、息苦しさは感じなかった。
「……なんだよ、笹原。今日は反撃ナシなのか?」
カメラを手放して顔を覗き込む永海の声が、穏やかに体の奥に響いた。
「言い返して欲しいなら言ってやってもいいけど」
少しだけ、気持ちが軽くなる。
「相変わらず可愛くないことで」
呟きながら、またシャッターを切って。
「いちいち可愛くないって言うけど、俺は、」
そこまで言ったら永海がニッコリ笑った。
「笹原って」
「なんだよ」
「仕事の時以外は一人称『俺』なんだな。初めて聞いた」
そんなどうでもいいことに楽しそうに笑って。
「だったら、なんだよ?」
「いや。別に」
何度も何度もシャッターを切った。
それから、カメラを置いて。
また口付けた。
眠らずに朝を迎えて。
すっかり明るくなってから、永海の隣りで横になった。
「昼過ぎても寝てたら起こせよ?」
永海があくび交じりに呟いたけど。
「……自力で起きろよ。俺も起きる自信がない」
半分眠ったまま言葉を返した。
隣りで永海が笑う声が聞こえて。
つられて笑いながら、目を開けたら。
カシャッという心地よい音が響いた。
「これ、明日見せてやるよ」
傍らにカメラを置いて。
「笹原がびっくりするくらい、いい出来だと思うからさ」
代わりにそっと抱き寄せた。
こんな気持ちで誰かの隣りで眠ることなんて、この先ずっとないと思ってたのに。
朝の光も。
永海の腕も。
温かくて、柔らかくて、心地よかった。
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