土曜日午後三時。冬の日差しが降り注ぐ部屋。
あくびをかみ殺し始めてからもう二時間。
「よし、じゃあ、今日はここまで。ちゃんと復習しておけよ。特に数学。公式なんて丸飲みしておけよ。なんでこの式になるのかなんて、おまえが考えても解るわけないんだから」
「……うーん……」
宿題を含め、やっと今日の予定分が全部片付いて、ホッとしながらも気怠さ全開でカーペットの上に寝そべった。
勉強も終わったし、このまま昼寝でもしようと思った矢先、
「トモってマジでシスコンだよな」
家庭教師兼相談相手の高也(たかや)がいきなり俺に言った。
「……なんでそーゆー話になるんだよ?」
やっと終わって一休みって時に姉貴の顔なんて思い出したくないんだけど。
「バレンタインに手作り? しかも、朝子(あさこ)の好きなブラウニー」
こっそり隠しておいたのに、いつの間にか高也の手に菓子の本。
確かに姉貴は甘いものが好きだけど、別にそれが理由じゃない。
「もっと小さいならまだしも、高校生の男がシスコンってありえないだろ。朝子も朝子で相当なブラコンだしな。そんなことしてるから、おまえはいつまで経ってもそんな性格なんじゃないのか?」
「……『そんな』ってどんなだよ」
「グズ」
高也は口が悪い。
しかも。
「ちなみに『グズ』って漢字で書けるか?」
「……書けないって分かってて聞いてるだろ」
「もちろん」
性格まで悪かった。
姉貴が院生だった頃、同じサークルだった高也はよくうちに遊びにきていて、当時小学生だった俺を楽しそうにいじめてた。
高也が就職してからしばらくは会うこともなかったのに、去年俺の家庭教師になったせいで、また小学校当時と同じ扱いを受けるハメになったのだった。
「……あー、もう……俺の性格のことはいいけど、ブラウニーはそうじゃないんだって」
高也の手から本を奪い返してから、慌てて言い訳をした。
確かにそれは姉貴のためなんだけど、これは俺にとっても最重要課題なわけで。
「じゃあ、なんだよ?」
「……姉貴を嫁に出そうと思って」
もうすぐ三十路の姉貴には彼氏がいない。
いきなり嫁は無理だとしても、せめてもうちょっとなんとかならないかと思案した挙句のことだった。
「おまえ、まだ諦めてないのかよ?」
「悪いかよ」
これについてはシスコンと言われても仕方ないけど。
俺にもいろいろと事情があるわけで。
それは今から遡ること数日。
母と二人きりの午後だった。
「俺、実は同性愛者みたいなんだ」と告げたのだって俺にとっては本当に一大決心で、その時の母親の反応まであれこれと予想して、切り返す言葉まで用意していたというのに。
母は意外と冷静で、ただ溜め息をついたに留まった。
そして言った言葉は次のとおり。
「……ということは、孫の顔は見られないのね」
彼女にとっては息子が同性愛者であることの世間体よりも、孫を抱っこできないことの方が重大だったらしい。
まあ、そんな気持ちも解らなくもない。
けど。
「孫が欲しいなら、ねーちゃんに言えって」
うちは二人姉弟。
孫云々の問題については特に困る事はないはずだ。
―――と思ったんだけど。
「アンタ、本気で朝子がお嫁にいけると思ってるの?」
そのあまりに冷静な突っ込みに俺も沈黙した。
姉貴はとても長子らしい性格で、弟の俺から見てもすごく頼りになる。
だが、あまりにもオトコマエだった。
大抵の男に「おまえ、いいヤツだよな」と言われて終わる、そういうタイプなのだ。
色気なし。フェロモンなし。背もデカければ手足もデカい29歳。
鶏口牛後とかで小規模企業に就職して、2年で主任になリ、今はもう係長。
実は「ツボネ」というヤツなんだろうけど、まあ、仕事は順風満帆。
けど、母が心配するような観点から言えば前途多難。
……というより、希望の光なし。
「いや、でも、母さん、今時29くらいじゃ崖っぷちって言わないだろうし……」
確かにそうだ。だが、姉貴の場合はレベルが違う。
ちゃんと付き合った男が今まで一人もいないのだ。
29にもなって、それってどうだよ。
母も俺もしばらく黙って茶をすすってた。
でも、その後、いつになく深刻な顔で聞かれた。
「アンタね、今からでも女の子を好きになれないものなの?」
……そう言われましても。
こうして、俺がずっと悩んだ一大告白は、別の問題に摺りかえられたのだった。
「ふうん。なんか、アレだな」
高也がニヤニヤ笑ってる。
「『アレ』ってなんだよ」
「アレはアレだろ」
「高也の言うことって、勉強の話以外は8割以上意味不明だよな」
ぶちぶち文句を言いながら一度閉じた課題のノートをまた広げて、ペンをいじって。
それでも気分は浮上しなくて、ついつい何度も深いため息。そのたびに高也がニヤニヤするんだけど。
「こっちは真剣に話してんのに」
他人事だと思って。
「だって、面白ぇもんな」
高也は姉貴の大学院時代のサークルの後輩。
年はたぶん25、6くらい。
去年から俺の家庭教師をしているが、本当の職業はこの辺りでは一、二を争う進学校の教師。
そして、実は俺と同じで恋愛対象は男がいいって体質だったりする。
友達の中にはそういう人間は多分一人もいないから、それまではずっと一人で悩んでたけど、高也が話し相手をしてくれるようになってからはけっこう気持ちが軽くなった。
それについては感謝してるけど。
「なんだよ、またグズグズして」
「グズグズなんてしてねーもん」
そんな反論をしても、『やーい、グズ』と笑いながら言うのが気に入らない。
ついでに、『おもしれー』と言われるのも気に入らない。
「もうちょっと真剣に聞いてやろうとか思わないのかよ?」
「すっげーちゃんと聞いてるだろ?」
「どこがだよ?」
「全体的に」
いつもこんな感じでまともな悩み相談にはならない。
それでも一人で悶々と悩んでいるよりは多少マシだから、ついつい話してしまうんだけど。
「……じゃあ、真面目に聞くけど。うちのねーちゃん、やっぱ、一般の男から見たら女じゃないのかな」
ただ単純に俺が兄弟だからそう見えるだけかもしれないなんて、ほんの少し期待染みた気持ちも持ってたんだけど。
「まあな。アレじゃ仕方ないだろ」
「やっぱ、そうだよなぁ……」
生まれてこの方17年、姉貴を「男らしい」と思うことは何度もあったが、「女らしい」と思ったことは一度もない。それを考えたら、高也の返事はもっともなわけで……。
「どーでもいいが、おまえもいい加減シスコン卒業しろよ」
またニヤニヤ笑うし。俺の顔をうりうり突くし。
「シスコンじゃないって」
実際、うちはよその姉弟に比べたら仲はいいと思うけど、だからって「シスコン」って言われるほどでもない。
……と思うけど。
「だいたいちょっと年が離れてるからって、朝子も絵に描いたようなブラコンだもんな」
キモイよ、おまえら……って言われて、また少しムッとする俺。
けど、とりあえず俺にとっては『自分がシスコンかどうか』はそれほどたいしたテーマじゃないわけで。
「それより、ねーちゃんに彼氏ができないと困るんだよ」
オヤジにカミングアウトする前に、まず母親から「仕方ない」の言葉を取り付けておかねばと思う身としては、「姉貴が結婚する」ということはとても重要なことなわけで。
だから、ものすごくマジメに相談してるのに。
「安心してホモに走れないからか? おまえな、ホモって時点で十分親不孝なんだから、そこだけ頑張っても仕方ないだろ?」
あっさりと却下された。
そんなふうに割りきれるなら俺だって悩んでない。
「いいよなぁ、高也は気楽で」
「バカ。俺は問答無用で親子の縁を切られたんだ。ホモ弟の行く末を真面目に心配する姉貴と嫌々でも容認する母親がいるだけおまえんちの方が百倍マシだぞ?」
そりゃあ、そうだけど。
それにしても問題はそこじゃなくて。
「それはともかく、ねーちゃんなんだけどさ」
話を戻してみたけど。
「うーん、難しいな。なんと言うか、朝子は女としての価値が低いんじゃなくてな」
「うん」
「男らしいんだ」
それは分かってる。ついでに、29にしてすでにオヤジ化してきているので、さらに救えない。
「男らしいとダメかな」
「色っぽい気分にならないだろ?」
男なんてヤリたいところから始まるんだから、と高也は不埒なことをもっともらしい顔で告げてから、忘れていた家庭教師の仕事に戻った。
「じゃあ、総評」
ノートの隅に書き込んだそれは『今日はまあまあ』。
これでも『総評』って言っていいのかは謎なんだけど。
「高也、これって適当すぎ。……まあ、どうせ母さんはこんなの見ないけど」
たとえ見たとしても、「あら、先生さすがに字が上手ね」くらいのことしか言わないだろう。
「じゃ、そういうことで、今日は終わり」
「人が悩んでんのにそんな簡単に片付けんなよ」
解ったことは二つだけ。
姉貴に色気がないってのはおそらくこの世の男全部が思うってことと、高也は相談相手には不向きだってこと。
「朝子も顔とスタイルに特別問題はないんだけどな。まあ、ちと背が高すぎるし、胸もなさ過ぎるが」
「……だよなぁ」
「しかも、ちょっと男顔だしな」
「……うん」
それは触れずに通り過ぎる事ができない事実。
「まだトモの方が可愛いくらいだ」
「高也に言われてもぜんぜん嬉しくないんだけど」
というか、俺、男だし。
「可愛い」とか言われても喜べない。
「まあ、そう言うな。とりあえず『今日はまあまあ』のご褒美だ」
そう言って高也が俺の頭をなでまくる。
そんな扱いにももう慣れたけど。
「どうでもいいけど、なんでこれが『ご褒美』なんだよ。俺、子供じゃないんだよ?
17だぞ。17って子供じゃないだろ?」
力説してみたけど。
「そういうことを追求するのは可愛げがない」
高也の返事は相変わらず意味不明。
「……わけわかんないよ」
いつまでも俺を子供扱いする高也が嫌いだ。
理由なんてないけど、なんとなく悔しくなるから。
――――高也、俺、もう17だよ……?
俺の気持ちなんて知らずに、高也はまたニヤニヤ笑いを浮かべた。
「じゃあ、あえて説明してやるが、これは『子供扱い』じゃないから安心しろ。強いて言うなら、『お手が上手にできた飼い犬へのご褒美』と同じ種類のものだ」
どうだ安心しただろ、って言うんだけど。
「……子供扱い以下だろ、それ」
「まあ、そうだな」
そんな言葉にムキになって高也に掴みかかってみるけれど、すぐにねじ伏せられてしまう。
「そんなんで俺に勝てると思うなよ」
そう言いながら。
でも、俺を受け止める高也の手が心地よくて。
「いつか絶対勝ってやるからな」
そんな憎まれ口を利きながらも、このままずっと高也と遊んでいたいなんて思ってしまう今日この頃。
子供の頃は高也のことが嫌いだった。
年だってすごく離れてるのに、ものすごく楽しそうに俺をいじめるから。
『遊んでやってんだろ?』
笑いながらそう言われるのもすごくイヤだった。
つい最近まで大嫌いだと思っていたのに。
「高也って、ぜんぜん変わんないよな」
今振り返るとそれも楽しかったような気がするのはどうしてだろう。
「おまえもぜーんぜん変わってないけどな。……グズのまんまで」
しかも、「甘やかされたって感じだよな」とか言われて。
「マジでムカつく……」
それでも家庭教師を変えようと思わないのはどうしてなのか。
理由は自分にもわからない。
「じゃ、また来週な。しっかり復習しておけよ」
笑って手を振る。
そんな仕草にさえなんとなく惹きつけられてしまう。
「なんだよ、もう帰んのかよ」
なんとなく引き止めてしまうのも、きっとそのせい。
「トモが『ずっと高也のそばにいたいの〜』とか可愛く言うなら、このままいてやってもいいけど」
「……さっさと帰れ」
こんなバカを言いながらも、毎週土曜日の午後を心待ちにしてしまう。
それも、もう何ヶ月も前から、ずっとこんな気持ちで。
本当は自分でも少し持て余すほどに行き詰まっていた。
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