その後も姉貴は別にいつもと変わったところなんてなかった。
仕事に行って、文句を言いながら帰ってきて、リビングのテーブルの上に足を乗っけてテレビを見て、飽きたら寝るだけの日々。
「……やっぱ、ダメだったんだ……」
ひどくがっかりしながら俺も毎日を過ごした。
けど。
次の土曜日、姉貴は突然俺を映画に誘った。
高校生にもなって姉貴と映画っていうのもなって思ったけど、それ以上に。
「……また『シスコン』って言われるよ」
思わず呟いたら、姉貴がせせら笑った。
「大丈夫だって。どっかのバカ家庭教師も一緒だから」
「え、高也も来んの?」
そう聞き返して数秒経ってから、自分の声が少し弾んでいることに気がついて顔に血が上った。
一瞬、「ヤバイ」と思ったけれど、『女の勘』なんていうものを全く持ち合わせていない姉貴がそんなことに気付くはずはなくて、
「朋宏、いくらアイツがバカでも一応自分の家庭教師なんだから、ちゃんと『先生』って呼びな」
ただ、それだけに留まった。
ついでに、「10近くも年上の男を名前で呼び捨てにするもんじゃない」って怒られたけど。
「うん……俺もそう思ったけど。でも、高也が『密室で先生って呼ばれるとすごく燃えるよな』って言うから」
初日の言葉をそのまま姉貴にも伝えたら、
「じゃ、『高也』でいい」
あっさりと方向転換した。
楽しげな休日の街。
待ち合わせ場所には高也のほかに稲田さんもいて、二人で仲良く話をしていた。
「悪いね、稲田。週末までつきあわせて」
いくら先輩でもこの話し方は随分とえらそうだよなと思ったけど、稲田さんは本当に爽やかな笑顔で答えた。
「いえ、お誘いありがとうございます」
嫌なら遠慮なく断っていいからね、って言いかけたら、高也に後ろから口を塞がれて。
その後。
「ダブルデートだってさ」
そんな説明が。
「……姉貴と稲田さん?」
それはそれで「え?」って感じだけど。
問題はそこじゃなくて。
「そう。つまり、俺とトモ」
それなわけで。
「デート……なんだ?」
俺と高也が並んで歩くのを姉貴がOKしたことが信じられなくて、「なんか裏があるのか?」って思ったけど。
「トモ」
「……なに?」
俺の思考は高也の言葉に阻まれた。
「クッキーで釣れたらしいぞ」
「え?」
一瞬何を言われているのかわからなかった俺も相当ボケてるけど。
「兄になりたいってさ。どうする?」
それって姉貴と結婚するってこと?
稲田さんを見上げたら、少し照れたように笑ってた。
「……ホント……?」
混乱するばかりで何の返事もできずにいる俺を放り出して、高也はまた勝手に余計な事を聞いた。
「で、念のため、再確認ですけど、弟がホモでも気になりませんか?」
ものすごく身も蓋もない質問に。
「そんなの、たいしたことじゃありませんよ」
稲田さんはあの時と同じようにそう答えた。
「朝子さんのことをこんなに大切にしている弟さんなら、僕ともきっと気が合うと思います」
その返事を聞いて。
いい人、釣っちゃったな……って。
本気で思った。
その後は夜までダブルデートのはずだったけど。
「バカか、おまえ。本気で朝子を嫁にやりたいなら気を利かせろ」
高也にそう言われて、俺たちは速攻でフェイドアウトした。
そしたら、高也と二人で映画……と思ったのに。
「だからってなんで家に戻ってくるわけ?」
「土曜は家庭教師の日だ」
結局、楽しいことは何にもないまま帰宅させられ、いつものように勉強をさせられた。
そして一時間半後。
「はい、今日は『よくできました』にしてやるよ」
大きな花丸がノートを占拠したけど、なぜか高也の視線は部屋の一点に注がれていて。
毎週来てるくせになんだよって思ったけど。
「チョコ発見。リボン付き。未開封」
「んなとこまでチェックすんなっ!」
それは隣りの席の子にもらった義理チョコだと説明したけど、高也の「ふうん」には不信感が満ちていた。
「なんだよ、高也なんて本命からもらってるくせに。なんで俺にばっか―――」
思わずそう言ってしまったけど。
高也は俺の顔をまじまじと見ながら、当たり前のようにさらっと返事をした。
「もらったよ。ってか、おまえも一緒に食っただろ」
「……え?」
高也が今日までの間にうちにチョコなんて持ってきたことがあっただろうかと記憶を手繰り寄せてみたけど、何も思い当たらず、「食べてないよ」と言い返そうとしたら、いきなり怒られた。
それも予期せぬ言葉で。
「トモのことだって言ってんの。いい加減気づけ」
「……へ?」
俺はその後たっぷり一分沈黙した。
高也はその間ずっとこっちを見てたけど。
しばらくしてから両手でしっかりと俺の頬を押さえて、無言のまま深くて長いキスをした。
「ん……っ……苦しっ……」
そう言って身体を離そうとしたのに。
「ダメ。大人しくしてろ」
そんな言葉のあと、もっときつく抱き締められてしまった。
それから、もう一度キス。
「……高也……苦しいってば」
何度もそう言ってみたけど。
高也はほんの少し笑った後、
「キスってそういうもんなんだよ」って。
そんなわけのわからない理由を告げて、また唇を塞いだ。
高也の肩越しに夕焼けの空と、オレンジ色の大きな太陽が見えた。
そしてその後。
高也から「好きだよ」と言われた。
「なに言って……」
今までいじめてたのはなんだったんだよって思いながら、ふくれていたら、
「可愛いといじめたくなるだろ?」
当たり前のようにそんな返事が降ってきた。
けど。
「……ならないよ」
そんなの高也だけだって言おうとして、またキスされて。
「俺が文句を言いそうになるとキスするのやめろよ」
怒ってみたところで、やっぱり高也は笑ったまま。
「それにしても、トモは鈍すぎるよな。全然気付かないってどうなんだよ?」
今時の高校生でそれはありえないぞって言われたけど。
「そんなこと―――」
言われてみれば、高也は確かに好きな子をいじめそうなタイプだけど。
「高也の態度がわかりにくいからいけないんだろ」
気付かなかったのは俺が鈍いせいじゃないはず。
そう思って文句を言ったら、
「はいはい。全部俺が悪いです」
笑いながら。
高也はもう一度「好きだよ」って言って。
それから、またそっとキスをした。
姉貴が帰ってきたのは夜の十時。
そして、そんな時間になっても高也はまだ俺んちにいた。
しかも、「紅茶を入れてくる」と言って部屋を出たきり、ちっとも戻ってこないから、様子を見にいこうとしたら、リビングの方向から姉貴の怒鳴り声。
「ダメだ。ダメに決まってるだろっ!!」
それも、ものすごい剣幕で叫んでるからドキドキしながら声の方に向かったら。
「おまえには絶対にやらないからなっ!」
「なんで? 両者合意の上なのに」
「おまえ、朋宏に変なことばっかり教えてたんじゃないのか? じゃなかったら、朋宏がそんなこと――――」
どうやら、話は俺と高也のことみたいだったから。
「……やっぱ、やめとこ」
そのまま何事もなかったように自分の部屋に引き返した。
でも、ドアをバタンと締めた後も怒鳴り声が止むことはなくて。
「バカ、ふざけんな。ボケ、タコ。ダメだっつったら、ダメだからな」
「朝子、ブラコンもそこまでいくと異常だぞ。いいから、トモのことは俺に任せてさっさと嫁に行け」
「おまえに朋宏を任せるくらいなら一生ヨメになど行かんわっ!!」
そのまましばらくバトルは続いていたけど、結局、どういう結論になったのか俺は知らない。
「でも、なんだかんだ言っても本当は仲がいいんだからきっと大丈夫……だよな……」
そう思い込んで、あとは聞かなかったことにした。
でも、結局その日は高也が帰るまでずっと険悪な空気が渦巻いていて、
「……もう勘弁してほしいよなぁ」
新たな心配事が増えた気配が濃厚に漂っていた。
そんな状態で、俺は今後のことを胃が痛くなるほど心配していたというのに。
高也は翌日も平然と姉貴のいる家に入ってきた。
「ちは、朝子」
それに対して姉貴は「帰れボケ」って言ってたけど、高也はそれさえ気にすることなく俺を連れて部屋に向かう。
一応、家庭教師グッズを持ってたから、姉貴もそれ以上は言わなかったけど。
「なー、高也、昨日ねーちゃんに何言ったんだよ」
あれだけのバトルを繰り広げた後の険悪な空気をものともせず、すぐ翌日にまた来る高也の神経は相当なものだと思う。
「俺は『トモと付き合っていいか?』って聞いただけで、すでにディープなキスをしたとか、ベッドの中でイイコトをしたなんて話は少しもしてないんだぞ。なのにあそこまで反対するってどうなんだ?」
確かにキスもしたし、高也を俺の部屋に泊めたこともあるけど。
でも、「イイコト」なんて言われるようなことは少しもしてないはずだと言いたかったけど。
「な、トモ。今から俺んち来いよ。そしたら、朝子もいないし、ゆっくりできるって。壁も薄くないから声が隣に聞こえるなんてことも―――」
「……なんの話してんだよ」
俺がなんと言い返したところで、高也は最初から聞く気なんてなくて、テーブルに肘をついたまま余裕の笑みを向けているだけだ。
そして。
「俺んちがダメなら今からラブホ行かないか?」
またこんなことを……。
「……何しに?」
「キスの先」
せっかく勉強する気になっているのに、生徒の邪魔をする家庭教師ってどうなんだろう。
「……行かない」
今の高也は俺の家庭教師という免罪符でここに座っているということをすっかり忘れているに違いない。
この後だってバイト代はちゃっかりもらうくせに。
そんなことを考えつつ、ちょっとムッとしてたら、高也は「本当にトモは漏れなく期待通りの返事をしてくれるよな」って笑い転げたけど。
それから、少しだけ話を変えた。
「でも、まあ、あれだな」
「なに?」
今度わけのわからないことを言ったら、姉貴のところに言いつけに行こうと思っていたけど。
「俺たちのことはともかく、朝子はうまくいって良かったんじゃないか?」
その時、高也もにっこり笑ってて。
高也だって友達の幸せはやっぱり嬉しいんだなって思いながら、俺も頷いた。
「……うん」
姉貴はたぶん稲田さんと結婚する。
まだ付き合い始めたばっかりで、二人ともそんな話は全然してないと思うけど、俺にはなんとなくわかった。
「もしも姉貴が結婚した後もここに住むって言ったらどうしよう」
稲田さんは会社の独身寮で暮らしてるから、結婚したら嫌でも出ないといけないってことは聞いていた。
「新婚と同居ってやだよなぁ……」
真面目に憂慮する俺を高也はやっぱり笑い飛ばして、
「おまえ、よくそんな先々の心配まで思いつくよな」
しかも半分呆れてたけど。
同居反対という点については俺と一致した。
「絶対に追い出せよ。アレコレできなくなるだろ?」
「……なんだよ、それ」
相変わらずそんなことしか言わなくて、頼りになるのかならないのかよく分からないけど。
「もし、朝子が結婚してもここに住むって言ったら、トモは俺んとこに来いよ」
「え?」
「今のところが狭ければ引っ越してもいいし。どんな部屋に住んでみたい? どうせなら思いっきりエロ臭い部屋にしてみるのも楽しいかもな。夜は赤いライトとか。どうだ?」
赤いライトだとエロくさいのかってことも俺にはよく分からなかったけど、それで高也の気分が盛り上がるなら、やっぱりそれは危険なことに違いない。
「……やめてよ」
とりあえずライトの件だけ返事をして、高也のところに行くかどうかは保留にした。
「ま、返事は急がないけどな。来年トモがめでたく三流大学に合格したら、一緒にゆっくり考えればいいし」
「……うん」
どこまで本気か分からない高也の言葉を聞き流して、ノートを開く。
「じゃ、ミルクティ入れてきてやるから待ってろよ」
なんとなく楽しそうな背中を見送ってから、小さくため息。
下にはまだ姉貴がいるはずだし。
「……またバトルが始まったらどうしよう」
でも、俺が心配したところでどうにかなるわけじゃないから、諦めるしかない。
「もう、どうでもいいや……」
一人でそう呟いて、また机に向かった。
ふわりと香るロイヤルミルクティを少し気障な仕種で入れる高也を思い出しながら。
それと。
『三流大学』っていうの、ものすごく余計だよな……と思いながら。
end
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