ロイヤルミルクティ・ブレンド

<8>



バレンタイン当日は用があって父も母もいなかった。
そして、「別に用もないのでさっくり帰ってくる」と言ってたはずの姉貴も一向に帰宅する気配がなく、『今から帰るから風呂沸かしといて』という電話もない。
「変だなぁ……家で夕飯食べるって言ってたのに」
別に先に寝てもよかったんだけど、持っていったチョコクッキーが少しは役に立ったのかを知りたかったから、じっと待っていた。
けど、10時になっても11時になっても全然帰ってこない。
「もしかして、なんかあったとか……」
急に心配になったその瞬間、いきなり電話が鳴って、俺はソファから転げ落ちそうなほど驚いた。
慌てて受話器を取ったら、男の人の声が。
『入谷さんのお宅ですか?』
丁寧で優しそうな感じだったけど。でも、相手はまったく知らない人。
どうしていいか分からなかったから、黙って話を聞いていた。
『朝子さんの会社の後輩で稲田と申しますが』
聞けば姉貴が「迎えに来い」と言ってるらしい。
どうして姉貴本人が電話してこないかと言うと、
『かなり酔われていて』
……そうだと思ったけど。
「すみません。でも、今日は両親が留守で」
『困ったな』と電話の向こうでつぶやく声が聞こえ、『じゃあ、家までの道順を教えてもらえませんか』と言われたんだけど。
俺がわかるのは自分が自転車で行ける範囲の道だけ。
姉貴の会社の近くからなんて到底説明できるはずもない。
「すみません。車、あんまり乗らないから道とか全然……」
姉貴もなんでこんな時に限って酔っ払って潰れるかなと呆れそうになったけど。
よく考えたら、ふられた後のヤケ酒なのかもしれない。
とりあえずどうすればいいんだろうと途方に暮れかけた時、
「あ……」
いいことを思いついた。
「ちょっと待ってもらえますか? 心当たりがあるので迎えにいけるか聞いてみます」
『それじゃあ15分後にまたかけます』という声を聞いた後、一旦電話を切った。
それから。
「もしもし」
高也に電話した。
幸い高也は一人で寛いでいるところで、酒も飲んでいなかった。
『で、朝子を迎えにいけってか?』
ちょっと面倒くさそうなのは、まあ、仕方ないとして。
「うん。会社の人が待ってるから」
『誤解されたらどうする?』
「なんの?」
『バレンタインに男が迎えに来るなんて、どう考えてもそれっぽいだろ?』
「俺、カッコいいしな」と真面目な声でふざけたことを言う高也に呆れ果てながらも、
「それは俺が説明するから、お迎えお願いします」
いつになく低姿勢で頼んでみた。
なんとなく電話の向こうで高也が笑ってるのはわかったけど。
『おまえがイイコトしてくれるなら、車出してもいいけどな』
やっぱりそういう発言だけは忘れない。
「……それはあとで話そうよ」
こうして俺は――たぶん自分の体を張って――姉貴を迎えにいく足を確保してしまったのだった。
もちろん迎えの報酬が本当にそれっていうのは絶対にダメなので、代わりのものでお礼をするつもりだけど。


高也はいかにも部屋着っぽいセーターとパンツという格好で現れた。
「あんまりカッコイイとまずい場合もあるからな」
冗談にしてもどうかと思ったが、頼みごとが片付くまでは俺も反抗的な態度は取らないことにした。
「よろしくお願いします」
一応頭なんかも下げてみたりして。
「そんで、お礼は姉貴がするから」
そういうことにしてしまえと思ったのに。
「俺はトモから欲しいんだけど」
高也がどうしてもそれは譲らないというので、渋々頷いておいた。
どうせ後で姉貴に話すから、きっと何とかしてくれるはず。そう思って軽く流そうとしたのに、
「じゃあ、最初に前金3%」
いきなり抱き寄せられて、「チュッ」と軽くキスされた。
「そーゆーことすんなよ」
いくら車の中とは言え、誰が見てるかわからないだろって怒ったけど。
高也は「こんな暗いのに見えるかよ」って知らん顔してた。



電話で言われた場所まで30分。
店を覗いてみたら、姉貴はまだ酒を呷ってた。でも、目つきが怪しい。
そして、席には男の人と姉貴の二人だけ。
「もっと大人数かと思ったよな」
高也もそんなことを言っていた。
「ってことは、ちょっとここで様子見た方がいいか」
そう言うと、店の人に断わってから、俺の腕を引っ張って入り口付近の長椅子に腰掛けた。
「なんで?」
「……おまえ、ホントに鈍いよな」
それほどいい雰囲気には見えなくても、実はなかなか良い感じの間柄ってこともあるかもしれないだろ、と言われて「ふうん」と気のない返事をした。
だって。
「……男同士に見えるのって俺だけ?」
高也の顔を見ながら確認したら、「俺にもそう見えるけどな」って笑ってたけど。
「それにしても、朝子、声でかいよな」
店内が割りと混んでいるにもかかわらず、姉貴の声はとてもよく聞こえた。
「あれさ、弟が作ってくれたんだ。……ホントはそれほど器用じゃないのに。っつーか、そーとー不器用なんだけど」
多分、その話はもう何度もしているんだろう。向かいに座っている男の人は「はいはい」って感じで笑っていた。それでも十分大人の対応だと思うんだけど。
「んだよ、その返事はぁー?」
姉貴ときたら、もうどう見ても酔っ払いオヤジで絡みまくってて。
見てるこっちが恥ずかしくなった。
なのに。
「優しい弟さんですね」
稲田さんという人はきっとすごくいい人なんだろう。
姉貴が「でも、ホモなんだよな」なんてよけいないことを言った時でさえ、ずっとニコニコしながら聞いていた。
「……ねーちゃん、最低」
俺は顔から火が出そうなほど恥ずかしかったけど、姉貴の話はどうやらそこから離れないらしく。
「ねー、稲田。ホモってそんなにダメかあ?……どう思う、な?」
稲田さんは笑いながら、「ダメなことないですよ」を繰り返していたけど。
「なー、稲田ぁ」
「はいはい」
その後もずっとこんな感じで姉貴はオヤジ状態。
もうなんでもいいから早く連れて帰ろうって思ったその時、
「ね、稲田」
少ししんみりした姉貴の声が聞こえて、思わず足を止めた。
「なんですか?」
すごく心配そうな稲田さんに「ごめんなさい」と心の中で謝りながらも立ち尽くしていたら、
「……あの子さ、他の子と同じように、ちゃんと幸せになれるんかな……」
そんな言葉が俺の頭の中を通り過ぎた。
その時の姉貴の目が少しだけ潤んでるように見えて、どうしていいのか分からないまま、なんとなく高也を振り返ったら、ポンと頭に手を置かれた。
「……大丈夫ですよ。入谷さんがついているんですから」
二人で向かい合って座ったまま、稲田さんは一生懸命姉貴を慰め続けていた。
姉貴が心配してくれてることは分かってたけど、でも、こんなふうに目の当たりにしてしまうと本当に「ごめん」と思うばかりで。
帰ったら姉貴にお礼くらいは言っておこうって決めたのに。
「少しでも相談相手になればと思って連れてきたのに、あのバカ、勉強教えてるだけで何の役にも立ってないし、それどころか最近は朋宏のこと可愛いとか言い始めて……ああああっ、ったく、思い出したら腹立ってきた」
姉貴は泣きながら怒りはじめて、それから、突然バッタリとテーブルの上に突っ伏した。
つまり、潰れた。
「ねーちゃん……」
嬉しいんだか、恥ずかしいんだか、よく分からない気持ちで立ち尽くす俺の横で、
「酒癖悪ぃ……泣き上戸で絡み酒。最低だな」
高也は本当におかしそうに笑い転げてた。



姉貴が完全に潰れたのを確認してから、高也は稲田さんに声をかけた。
「はじめまして」程度の簡単な挨拶をしてすぐ、
「すみません、車まで運びますから」
稲田さんにはなぜかいきなり謝られてしまって。
「え……あ、いえ、こちらこそ、いろいろと……」
この場合、身内の俺が謝るべきなんじゃないだろうかと思ったんだけど。
でも、稲田さんは酔っ払い姉貴の話を聞いていたときと同じように穏やかに笑って付け足した。
「クッキー、僕がいただきました。ごちそうさまです。とてもおいしかったですよ」
「あ……いえ……」
姉貴が無理に食べさせたと思ったらなんだか申し訳なくて、俺はやっぱり「すみません」と言いながらうなだれてしまった。
その時、稲田さんはちょっとビックリした顔になったけど、なんで謝られたのかは分からなかったみたいで、俺に向かって「すみません」と謝り返していた。
それを見て、なんか本当にいい人なんだなと思った。
でも。
「―――……好きな人には渡せなかったってことだよな」
姉貴を車に運ぶ稲田さんの背中を見ながらこっそりつぶやいたら、高也に頭を小突かれた。
「朝子が言ってた男が彼本人だったらどうするんだよ」
そう言うんだけど。
「でも、本当に好きな人だったら弟が作ったってバラした挙句にムリヤリ食わせて、しかも酔っ払って絡んで潰れたりしないだろ?」
ついでに堂々と「ホモ」とか言って。
顔を合わせる俺の立場にもなって欲しいものだ。
なのに、高也は「まあ、その辺は朝子だからな」って言いながら、ただ稲田さんを見てた。
「それにしてもよくもまあ朝子みたいなデカイ奴を運べるよな」
172センチの姉貴。
それよりもさらにずっと背が高い稲田さん。
見た目にはけっこう似合ってる。
……俺だけそう思っても仕方ないけど。


「じゃ、車出すからな」
普通、介護役は家族がするものだと思うのに、なぜかリアシートに姉貴と稲田さんで俺が助手席。
「いいんだよ、やらせておけ」
ニマッと笑ってエンジンをかける高也に流されて、姉貴は稲田さんに任せることにした。
結局、家に着いた後も稲田さんが姉貴を部屋まで運んでくれたけど。
「久々に入ったけど、朝子の部屋ってホントに男の一人暮しみたいだよな」
高也の言葉に稲田さんがちょっと複雑な顔をしてたから。
「……あ、あの高也は―――」
すっかり忘れてたけど、ちゃんと誤解のないようにしておかないと……と慌てて口を開いたら、
「あ、俺は朝子の大学時代の後輩で、この近所に住んでます」
高也がそんな説明をした。
それはよかったんだけど、その後が。
「で、ついでにホモの弟、朋宏の家庭教師兼彼氏です」
吹き出しそうになっている俺の頬に高也はいきなりキスをして、ついでに耳元でこっそりささやいた。
『朝子と俺の関係、誤解させるわけにいかないだろ?』
おまえもここはひとつ頑張って演技をしておけと言われて、引きつった笑顔で「そうなんです」と答えてみた。
稲田さんが明日姉貴に「本当なんですか」って聞いたりしたらどうするんだよ、って思ったけど、そこは高也だから抜かりはなかった。
「でも、朝子はトモのことをすごく可愛がっているので、俺とのことに大反対しています。だから、そのことは口にしないでください。ものすごく機嫌が悪くなりますから」
ひどく真剣な様子で話す高也の言葉を稲田さんもとても真面目な顔で聞いて、そのあと「そうですね、気をつけます」と深刻な口調で頷いていた。
本当に真面目で誠実そうな人だよなと思うにつけ、高也がものすごく悪い大人に見えた。
……今日に限ったことじゃないけど。


その後、稲田さんはタクシーで帰っていったのに。
「なんで高也は泊まっていくわけ?」
歩いても帰れる距離なのに……と抵抗してみたけど。
高也はそれには答えずに、「じゃ、寝るとするか」と言っただけ。
しかも、いきなり俺のベッドにもぐりこんできた。
「……狭いよ」
「それがいいんだろ?」
「……よくわかんないんだけど」
「ま、深く追求するな。残りは97%だぞ」
「何が?」
「まだ前金3%しか受け取ってない」
そう言われてやっとお礼のことを思い出した。
迎えに来てくれたことは本当に感謝してたんだけど、それはそれ。
「……お礼は姉貴が―――」
もう一度そう言ったけど。
「トモが大学入るまで待ってやるから、ちゃんと払えよ」
「あのさ、俺の話ちゃんと聞いてよ」
なのに、高也は笑ったまま「聞いてるよ」って言っただけ。
結局流された感じだった。
でも、高也も疲れてるみたいで、今日は俺をいじめそうな気配もなかったから、
「……もういい」
諦めてこの状態で寝ることにした。


静かな部屋に高也と二人……だったら、ちょっとドキドキしてしまいそうだったけど、廊下の方からかすかに姉貴のいびきが聞こえて、到底そんな気分にはならなかった。
高也もそれに気づいてクスクス笑ってたけど。
「……でも、まあ、よかったな」
突然そんなことを言った。
「何が?」
「朝子が言ってたのって、たぶんアイツのことだ」
そう言われても、俺の頭の中には酔っ払って稲田さんに絡みまくってる姉貴の姿。しかも、向かい合って座ってる姿はどう見ても男同士。
とてもそんな相手とは思えなかったけど。
「どうしてわかるわけ?」
「いかにも手作りチョコが好きそうなタイプだろ?」
高也は自信満々って顔だった。
「……そうかなぁ」
「それにな、朝子の好みっぽいだろ?」
手作りが好きそうとか姉貴の好みとか、本当はぜんぜん分からなかったけど。
「……うん」
そうだったらいいなと思ったから、頷いておいた。
「優しそうだしね。あんな人がにーちゃんだったら――――」
いいんだけどな、と言う前に高也に頬をつままれた。
「なにすんだよ?」
高也の手を振り払って、頬をなでながら文句を言ったけど。
「トモ、ああいう男が好きか?」
なぜかそんな質問で。
「そりゃあ、優しい人がいいよ。にーちゃんになるかもしれないんだから。結婚まではしなかったとしても、姉貴の彼氏になってくれるなら、やっぱ優しそうな人がさ……」
そこまで言った時、急に涙目になってた姉貴を思い出して、不意に嬉しい気持ちと少し寂しい気持ちがごちゃごちゃになった。
「トモ、なーんでそこで涙ぐむんだよ?」
「……なんか、ホッとして……それから……あとはよくわかんないけど」
俺の顔を見ながら高也はさんざん笑ったけど。
その後、『三点セット』と称して、腕枕をして、涙を拭いて、おでこにキスをした。
それから、俺が眠くまるまでずっと背中をトントン叩いてくれた。
「シスコン」って散々バカにされたけど。
でも。
「朝子がブラコンになる理由は分かるような気がするな」って。
途中でそんなことをつぶやいて、にっこり笑った。



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