その先の、未来
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弘佳(ひろか)からの誘いはいつも簡単なメール。
『8時にいつもの店で』
俺も素っ気無い返事。
『8時半なら行ける』
それでOKなら、返事は来ない。
俺たちの暗黙のルール。


店に入って30分。
自分から誘ったくせに、弘佳はさっきから溜息ばかりついている。
「なんで溜息なんかついてるんだよ。せっかくメシ食ってるのに」
弘佳からの誘いなんて、久しぶりもいいところなのに。
俺はちょっとムッとしていた。
「ん、まあ、いろいろな。オトナの悩みなんだよ」
愚痴を聞いて欲しい時くらいしか、食事には誘わない。
そんなことは分かっている。
弘佳は仕事のことで愚痴を言うような奴じゃない。
だから、本当は聞きたくないのだけれど。
「なんだよ。話してみろよ」
「聞かない方がいいと思うけどな」
やっぱり、彼女のことなんだ。
俺に言わせれば弘佳の愚痴なんてノロケてるだけなんだけど。
俺が不愉快になるのが分かっていて、なのに、わざと俺に聞かせる。
嫌な奴。
「子供でもできたのか?」
一番最悪のところから入ってみた。
これで『うん』なんて言われたら、ズタズタになるのは分かっているのだけれど。
「バカか。そんなんじゃないよ」
まあ、そうだよな。
弘佳は狡い奴だから、絶対にそんなことはしないはずだ。
「じゃあ、なんだよ」
「まあ、たいしたことじゃないんだけどな」
なのに、また溜息だ。
「じゃあ、溜息つくなよ」
あーあ、といいながら俺の顔を横目で眺めて。
「おまえはいいよな。『結婚しないの?』とか言わないし」
「当たり前だろ。バカじゃねーの?」
男同士で結婚の話なんて。
「だからさ、おまえといる方が気楽でいいって話だよ」
そんなことを言われても嬉しくはない。
一生公然と隣りにいられる唯一のチャンスが自分にはないって事を再確認するだけだ。
「さっさと結婚しちまえば? そしたら言われなくなるだろ」
こんなことを言い返す俺も俺だけど。
「まあ、結婚するなら今の彼女がいいけどな」
ズキン、と胸が痛んだ。
「けど、今はまだ結婚したくないんだよな」
弘佳はいつか結婚する。
分かっていても、俺にはそういう未来がないことが悔しかった。
「まあ、おまえが女だったとしたら、『結婚しないの』なんて聞かれても『ふざけんな』って笑い飛ばす自信があるんだけどな」
彼女は、ソファでテレビを見ている弘佳のところまで歯磨き粉を付けた歯ブラシを持ってくるような人だ。
前に弘佳が自慢げに話していた。
彼女の家にいたら、弘佳は王様気分で何一つ自分ではやらなくていいのだと。
「どうせ俺は気が利かないよ」
男として考えても、俺は気が利く方じゃない。
弘佳と比べてもその辺は格段に鈍い。
「だから、ほら、『紙ナプキン取ってくれ』って、口で言ってやるよ」
「当然だ。言われなきゃわかんねーよ。そんなこと」
面倒くさそうにナプキンが立ててあるケースを弘佳の前に置いた。
「普通は一枚だけ渡さないか?」
笑いやがった。
こんな風にいちいち彼女と比べられるのも面白くない。
けど、弘佳が欲しいのは、自分を王様でいさせてくれる相手なんだから仕方ない。
俺が遊び相手にしかなれない理由なんて、数え始めたらキリがないんだけど。
まあ、こうしてメシに誘ってもらえる関係になっただけでも十分って思っていないといけないのかもしれない。
「弘佳、……俺、何番目?」
「何が?」
「彼女の次? それとも他にもまだ……」
この不安はなんだろう。
「彼女と比べられるかよ。バカじゃないのか?」
そうなんだけれど。
でも、2番目と言って欲しかった。



その数日後だった。
告白は突然だった。
「結婚、することにした」
空白になる自分をなんとかここに留めて、投げやりに言葉を返した。
「そっか。おめでと」
いつもの店、いつもの時間。
カウンター席で、すぐ隣りにいる弘佳。
俺は、どんな顔をしているんだろう。
「それだけか?」
それだけって、なんだよ。
「他に、なに言えって?」
「まあ、そうだけどな」
なんで、弘佳がそんな返事をするんだよ。
「渉、これから、どうする?」
俺の顔色を見ながら、探した言葉。
「もう、帰るよ」
「そうじゃなくって、……この先の話だ」
分かっているけど。
わざと外したんだ。
言いたくなかったから。
認めたくなかったから。
けど、どうしようもないってことも、分かっている。
「……これで、終わりってことだろ」
自分で言い出したくせに弘佳は何も答えなかった。
さっさと自分の未来だけ決めて、それに付き合えと言うつもりだったのだろうか。
「じゃ、俺、帰るから」
席を立つ俺の腕を掴んで引き止めた。
いつもなら、絶対、人前でこんなことはしないのに。
「待てよ。送ってく」
車のキーを取り出して、また溜息をついた。

車の中で、弘佳は珍しく俺に言い訳をした。
「結婚、本当はずっと前から決まってたんだ。渉に会うよりずっと前だ」
「ふうん」
無関心を装う。
もう、終わったのだと弘佳に思い込ませるために。
弘佳がそう思ったら、俺も諦められる気がしたから。



結婚の噂を聞いたのは先週のことだった。
式場となるホテルの前で、彼女と歩いている弘佳を見かけたと同じ部の女の子が騒いでいた。
「もう、5年付き合ってる彼女がいるんですよ、仁藤さん。結婚の話もかなり前からあったらしいですよ」
「かなりって?」
「2年くらい前にもけっこう具体的な話までしてたんだけど、ほら、転勤のこととかあって、それに彼女のおじいさんが亡くなったりとかで、延ばし延ばしにしてたみたい」
「ヘえ……」
入社した時、弘佳は俺の研修担当者だった。
仕事はもちろん、会社のこと、社会人のなんたるかまで、全て弘佳から教わった。
彼女がいることも知っていた。
けど、結婚を考えていたなんて話は聞いたことがなかった。
俺に言わなかったことを責める気はなかった。
もしかしたら、弘佳ももう少し俺と一緒に居たいと思ってくれたのかもしれないと淡い期待を抱いていたから。

けど、本当の所はそうじゃなかった。
信号待ちの間に何気なく尋ねた。答えは簡単だった。
「おまえに言う必要なんかないだろ?」
こんな風にあっさり否定されることも想定しなかったわけじゃない。
それでもショックを受ける。
ほんのわずかな期待だったのに。
残酷な現実は、今に始まったことじゃないのに。
「……そうだよ。俺にはなんの関係もないよ」
忘れられるはずなどないけれど。
「とにかく、おめでとう」
弘佳から自分の気持ちを切り離すために、繰り返す言葉。
「渉……」
「もう、いいよ」
わかっていた。いつかこんな日がくることも。
覚悟もしていた。
思っていたより、少し早かったけれど。
「いいよ。弘佳のことは忘れるから」
「もう、会えないってことか?」
結婚するまでにはまだ何ヶ月もある。
それでも、もう、続けていかれない。
「ただの彼女と婚約者じゃ、やっぱ違うだろ?」
そこまで決めた相手がいるのに、これ以上付き合って何になる。
弘佳が、一生を共にすると決めた相手に敵うはずなどない。
引き摺りたくはなかった。今、どんなに辛くても、このままズルズルと付き合うよりはずっとマシな未来があると思ったから。


信号が変わって車が走り出す。
二つ先の信号を曲がれば俺のアパートに着く。
これで、最後だ。
「じゃあ」と言う代わりに、「さよなら」と言って車を降りればいい。


信号を曲がると『工事中』の看板が目に入った。アパートまではあと2ブロック。だが、歩行者以外は通れないようになっていた。
「いいよ、ここで」
車が停まると、ドアに手をかけた。
「さよなら」
振り返ったら、泣きそうな気がした。
背中を向けたまま車を降りると窓が開いた。
「渉……っ!」
呼び止める声に条件反射で振り返った。
瞬きをしたら、涙がこぼれただろう。
無言で立ち尽くしている俺に、弘佳は「またな」と言い残して車を出した。


卑怯なヤツだと思った。
思っても、嫌いになれなかった。



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