その先の、未来
-2-




バタバタと数日が過ぎた。
仕事が忙しかったせいもあり、あれから弘佳に会うこともなかった。
だから、駅でバッタリと弘佳に会った時、俺は声も出せないくらいにうろたえていた。
「待ち伏せしてたわけじゃないぞ」
弘佳は普段と変わりなく笑った。
「……んなこと、思ってねーよ」
そう返したものの、俺はまだどこかが強張っていた。
「みんなで飲みに行くんだ。おまえもメシ食って帰ろうぜ。奢るからさ」
弘佳はこんなにも簡単に平然と俺を誘えるんだ。
分かっていたけど悔しかった。
「いらねー。俺、まっすぐ帰るから」
早くその場を逃げ出したかった。
けれど、切符を買って戻ってきた他の先輩に掴まってしまった。
「まあ、まあ。週末なんだからさ。いいじゃん、ちょっとだけな?」
腕を掴まれて逃げられなくなる。
「……ホントにメシ食ったら帰りますよ?」
「ぜんぜんOK。じゃあ、行こうか」
店は弘佳のマンションの近く。手打ちのパスタが有名なダイニングバーだった。
「滝さんちって、反対方向じゃないんですか?」
「うん。けど、実家が隣りの駅。今日はそっちに帰るからさ」
先輩が屈託のない笑顔を向けた。
俺はぜんぜん笑える気分じゃなかった。
「僕らは杉下さんの実家に泊めてもらうんです。明日、部屋の模様替え手伝わされるんで」
こんなにギクシャクしていても、他人には気付かれないものなんだな。
不思議な気持ちで目の前を行き交う会話を流した。
「仁藤も手伝ってくれよ」
杉下さんに頼まれても、弘佳は笑っているだけだ。
「はは、まあ、頑張れよ」
返事はいつもと変わりないけれど。
弘佳は俺の顔を見ないようにしていた。
だったら、誘わなきゃいいのに。
間がもたなくてつい目の前のグラスに手が伸びてしまう。
食欲はなかった。
目の前にいる弘佳と目を合わせないように、よそ見ばかりしていた。
「直井、飲みすぎじゃないか?」
そういいながらも滝さんは俺にビールを注いだ。
「あ? ん、大丈夫ですよ。もう、帰って寝るだけだし」
「おまえ、家遠いだろ?」
「遠いって言っても、ここからならタクシーで3000円くらいですから」
酔ってなければ、弘佳がいる所でまともに話なんてできなかったかもしれない。
心の裏側で、酔った振りをして全部暴露してしまうことを考えた。
けれど、そんなことしても弘佳が俺のものになるわけじゃない。

誰にも気付かれないように溜息をついた。
こんな苦い気持ちになるくらいなら、この先ずっと誰も好きにならなくていいと思った。
バカだと思うけど。
どうにもならなかった。



「……直井、おい、大丈夫か?」
先輩の声が遠くで聞こえた。
「いいよ、杉下。俺んちまで連れてって、車で送ってくから」
「仁藤、直井の家わかるのか? この分じゃまともな道案内なんてしないぞ?」
「わかるよ。大丈夫」
「そっか、仁藤って昔、直井のトレーナーだったんだっけな。じゃあ、任せた」
俺の腕が弘佳の肩に回された。
「しっかり歩けって」
「……歩いてるつもりだよ」
なんだかフワリとしていて自分の足じゃないみたいだった。
「意外と重いな」
「絶対弘佳より軽いよ」
クスクス笑う弘佳の声が耳元で聞こえた。
「こんだけ酔っていても、憎まれ口は叩くんだな」

玄関に入った所で、ドサリと降ろされた。
壁にガンッと頭をぶつけたが、痛みは感じなかった。
「なに、おまえ、痛くないわけ? 完全に酔っ払いだな」
笑いながら靴を脱がせ、斜めがけにされていた鞄を取った。
スーツの上着とネクタイとワイシャツとベルトと靴下を取って、脱がせたものだけ先に部屋に運んだ。
「なんで、俺が一番後回しなわけ?」
笑いながら戻ってくる弘佳は腹が立つほど楽しそうだった。
「一番大事だから、一番最後なんだよ」
「酔っ払ってると思って、適当な理由をつけるなよ」
自分が口にした言葉さえ言語として頭に入ってこないほど、俺は酔っていた。
「はいはい。じゃあ、もう一回立って」
「いいよ、ここで寝る」
「ダメだ。風邪を引くぞ」
「カゼ引いて死にたい」
「バカだな、おまえ」
また肩に腕を回されて、腰を抱かれた状態でベッドまで歩かされた。
弘佳の肩に回されていた手がうまく解けず、二人一緒にベッドに倒れこんだ。
スプリングが軋んで、身体がぶつかる。
そのままズボンとTシャツを脱がされた。
「ん、やめろって……」
「……大丈夫だ。無理はさせないから」
唇を塞がれても抵抗しないことを弘佳は『Yes』と受け取った。
身体が動かなかった。
考えることもできなかった。
残っていたのは、本能だけだった。


明け方、目を覚ました。
すっかり酔いは消えていて、妙な覚醒感さえあった。
起き上がろうとした時、身体が痛んだ。
首筋に口付けられた時の感触が蘇った。
―――――……結局、寝ちまったんだな
酔っていたなんて、言い訳にもならない。
「……起きたのか?」
背中に声が響いた。
無意識のうちに俺は弘佳から離れた。
顔を見られたくなかった。話もしたくなかった。
なのに、弘佳の手が俺の肩に触れた。
宥めるようにわずかに肌の上を滑る。
「怒ってるのか?」
「……別に」
返事をした時に、弘佳に気付かれてしまった。
不意に肩に乗せられていた手に力が篭り、俺の身体を無理やり自分の方に向けた。
堪えていた涙が重力に負けてこぼれ落ち、弘佳の手を濡らした。
「後になってグズグズ泣くくらいなら、ちゃんと断れよ」
そんなことで怒るなよ。
辛いのは俺なんだから。
「……うるせーよ。ったく、勝手なヤツ」
「おまえ、昨日は嫌なんて一言も言わなかっただろ?」
卑怯なヤツ。
最低だ。
まだ痛む身体を無理に起した。ベッドに腰掛けたまま下に脱ぎ散らかされていた服をかき集めた。
悔しくて、バカみたいで、涙が止まらなかった。
「帰るのか?」
涙を拭きながら服を着て、ネクタイを鞄に押し込み、上着を掴んで靴を突っかけたまま部屋を飛び出した。
幸い外は明るくて、電車も走っている時間だった。
人前で泣いたのなんて、何年ぶりだろう。
地面に踵が着くたびに、ズキンと頭に痛みが走った。
ひどい二日酔い。後頭部をぶつけた痛みも残ってた。
駅に向かう道をぼんやり歩いていたら、クラクションを鳴らされた。
避けようとして道の端に寄ったら、俺を追い抜いた車が前方で止まった。
「送るから、乗ってけよ」
弘佳だった。
「いらねーよ」
「身体、怠いだろ?」
「うるせーよ。もう、俺に構うな」
「わかったよ」
停められた車を追い越して、真っ直ぐ駅を目指す俺の背中に弘佳の声が降ってきた。
「渉、」
振り向かないと決めていた。
たとえそれがどんなに優しい言葉だったとしても。
「……わかったから、今日だけは乗っていけよ」
無意識のうちに俺の足は止まっていた。
車から降りてきた弘佳が俺の鞄を取り上げる。
鞄だけ持ってさっさと車に向かう弘佳の後を、少し遅れてついていった。

もう終わりなのに。
その瞬間だけ引き延ばしても仕方ないのに。

生ぬるい空気のこもった助手席に座り、ぼんやりと窓の外を見た。
こんなわずかな時間が、何になるというのだろう。
弘佳が、たとえば今すぐに結婚しなかったとしても、結果が変わることはないのに。


一方的に好きになった。
何度も食事に誘って、泊まりに行って……
最初は酔った勢いだった。
多分、弘佳は後悔していた。
そんな気はなかったと、翌朝、真正面から告げられた。
それでもいいと思った。
一緒にいられるなら。
そう告げた時、弘佳は視線を逸らした。
「……俺、彼女がいるんだぞ?」
いつでも自信家で、強気な表情を崩さないくせに、その時だけはっきりと困った顔をした。
「知ってます」
沈黙の後、身体だけでいいなら……と返事があった。
狡いと思った。
けれど、俺はそれを受け入れた。
抱かれている間は、一番近くに居られる。
ただ、それだけが欲しくて。
気持ちの距離など考えなかった。


信号が変わる。どんよりした天気のせいか、道路は空いていた。
「……渉、聞いてるのか?」
「話しかけんなよ」
「酷いヤツだな。送ってやってんのに」
「なら、車止めろよ。送って欲しいなんて思ってねーよ」
自分から離れられないから、弘佳に当たる。
もう俺の顔なんか見たくないと言われたなら、諦めもつくだろう。
「冗談だよ。そんなに突っかかるなって」
休日の早朝。
走り抜ていく通りに人影は少ない。
重い沈黙すら、気にならないほど俺はすべてを遮断していた。
なのに――――――
「……昨日のこと、悪かったな」
俺の気持ちを引き裂きながら、割り込んでくる。
今までに一度だって自分の非を認めたことなんてないヤツが、こんな場面でそんなことを言う。
狡い。
けど、そんな言葉は簡単に俺の気持ちを引き止めてしまう。

工事の終わった継ぎはぎの道路に車を止めた。
「コーヒー飲んでけって、言わないのか?」
「言わねーよ」
「俺のことなんて、もう忘れたか?」
弘佳の顔を見る事ができなかった。
それでも、どんな顔でその言葉を言っているのかは分かる。
せめて冗談めかして聞いてくれたなら、さらりと答えられたかもしれないのに。

―――もう、忘れたよ

たったそれだけの簡単な言葉が言えずに、黙ってアパートの階段に足をかけた。
こんな時でさえ、嘘をつけない自分が腹立たしくて、また涙があふれそうになる。
「……さっさと結婚しちまえよ」
吐き捨てて階段を駆け上がった。
俺を見送っている弘佳の視線を感じても、振り返ることはできなかった。



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