その先の、未来
-5-




週末。
俺が一番会いたくない男が駅で待っていた。
「渉、」
呼び止めた弘佳の手には、俺が出したハガキがあった。
「なんだよ」
「本当に来る気か?」
「嫌なら招待するなよ」
「そういうことじゃない。もう、いいのかって聞いてるんだ」
いいわけないだろ。
そんなこと、分かってるくせに。
だけど、今更、他の返事はできない。
「いいよ」
「そうか」
弘佳はハガキをポケットにしまうと、代わりに切符を渡した。
「なら、来いよ」
「……どういうつもりだよ……?」
「もう、なんとも思ってないなら大丈夫だろう?」
どこまで傷つければ、気が済むんだろう。
悔しいのに。
俺は切符を受け取った。

側にいたかった。
一秒でも長く。
ズタズタに傷ついてもいいから。
ずっと忘れられなくてもいいから。



見慣れた弘佳の部屋。
なのに殺風景に感じられた。
「う……っ、あ、んんっ……」
抱き締める腕がキツイ。
「渉、力抜いて」
飛びそうになる意識を繋ぎとめるために、必死で弘佳の腕を掴む。
爪を立てても、指を噛んでも、弘佳は怒らない。
ただ優しく抱き締めるだけだ。
俺がここにいる理由を分かっているから。
自分が酷い事をしているってことも、分かっているから。
「……愛してる……渉……」
謝罪の代わりに囁かれる言葉を真に受けて、気持ちが真っ白になる。
「あ、……弘佳っ……っ」
震える身体をギュッと抱き締めて、一緒に果てる。
荒い呼吸を繰り返すだけの俺の肩に唇を当てて、また「愛してる」と呟いた。



週末のたびに弘佳は駅で待っていた。
切符を買って。
黙ってそれを差し出した。
一度も断わらなかった。
情けないと思いながら。
いつまでこうしていられるのだろうと思いながら。


式まであと二ヶ月弱。
弘佳がシャワーを浴びている間にカレンダーをめくった。
新しい生活のスタートとなるはずの日に、何の印しもついてはいなかった。
もう一ページめくると、真ん中にオレンジの蛍光ペンで丸がついていた。
自惚れでないとするなら、その日は俺の誕生日。
なんのつもりでこんなことをするのか。
期待など持たない方が傷つかないのに。
楽しいのだろうか。
安穏とした生活を得る傍らで、俺を束縛することが。
愛してるなんて安っぽい言葉で、簡単に引きとめられてしまう俺を笑うのが。
「何が欲しい?」
不意に後ろで声がした。
弘佳が、髪を拭きながら立っていた。
「……何のことだよ……?」
「おまえの誕生日に決まってるだろ?」
「いらねーよ」
「言えよ。なんでも好きな物をやるから」
他に欲しい物なんてないのに。
それを言えるはずなんてないのに。
「……楽しいかよ?」
「何が?」
感情なんて麻痺したと思っていた。
このまま押し殺して深いところに埋めてしまえると……
「分かってるんだろ?俺が弘佳のこと忘れられないって。だから、こんな風に……」
「おまえが、忘れたって言ったんだ。もういいって」
そんなの強がりに決まってるのに。
……帰らないと、また泣き出しそうだった。
「渉、」
弘佳の横を擦り抜けようとすると、腕を掴まれた。
「放せよ、もう、俺に構うなっ!!」
部屋を出る前に、涙はこぼれた。
それが悔しくて、涙が止まらなくなった。
強がりなんて、何にもならなかったってことだ。
弘佳は涼しい顔で俺を見下ろしていた。
「好きだって、言えよ」
「何言ってんだよ……?」
「俺のこと、好きなんだろ?」
腕は指の痕がつきそうなくらい強く掴まれていた。
もう片方の手が俺の頬を拭った。
いつ見ても、細くて長い指。
「……言っても、仕方ないだろ」
なんで弘佳が。
今更、そんな言葉を欲しがる?
「どうして?」
「どうしてじゃねーよっ……言ったらどうにかしてくれんのかよっ!?」
弘佳の手が頬を包む。
「してやるから、言ってみろよ」
静かに見つめたまま、俺の返事を待っていた。
「……好きだよ……っ、弘佳が、好きだ」
弘佳はにっこり笑った後、腕を引き寄せて深く口付けた。
「なら、こんなこと、これで最後にしてやるよ」
頭に来るくらい落ち着いた声だった。
けど、頷くしかなかった。
「……俺、やっぱり、式には行かないから……」
「わかってるよ」
今すぐ弘佳の腕を飛び出して、違う未来を探したいと思った。


けど、できなかった。



一週間がめまぐるしく過ぎていった。
新規システムの導入が始まり、支店説明会のアシスタントに駆り出された。
「直井は西地区にある14支店。終わったら都内の手伝いをしてくれ」
4日連続の出張の後に都内の支店巡り。
それが、終わってようやく自分の席に戻ってきた時には7時を回っていた。
「お、直井、お疲れさま。どうだった?」
「覚悟はしてましたけど、質問攻めで。留守中も問い合わせが凄かったんじゃないですか?」
この後、アンケートの集計と要望事項の取りまとめが待っていた。
「全社分のまとめは先にフォームだけでも作っておきましょうか。要望事項を考慮して拡張した場合の経費の見積もりってどの稟議でしたっけ? 先々週の役員会だったかな……?」
ファイルを探して中を確認したが、概要しか承認されていない。これでは使い物にならない。
「この分だと再稟議が必要ですね。システム担当と打ち合わせしないといけないのか。……面倒だな」
俺の溜息に先輩も苦笑いだ。
「まあなぁ……。しばらくはあちこち調整しないと。まあ、仕方ないだろ。それよりさ、仁藤が……」
先輩が慌てて口をつぐんだ。
視線の先に弘佳と部長がいた。応接室から出てきたところだった。
遠目に見ても分かるほど、弘佳は深刻な顔をしていて、部長は苦笑いをしながらも弘佳を宥めている。
「何かあったんですか?」
「ああ、あいつ、結婚止めたらしいんだ」
「……え……?」
耳を疑った。
「なんで、そんな……」
「気が乗らないからってさ。凄い理由だろ?」
「そんなの理由になりませんよ、何考えて……」
呆然とする俺を置いて、先輩はそそくさと自分の席に戻ってしまった。
目の前に弘佳が立っていた。
「結婚、止めたって……?」
思わず立ち上がった。
俺の顔を見て、弘佳が少し笑った。
「ああ、本当だ」
「何で、そんな……」
「……なんでだろうな?」
弘佳は少しだけ微笑むと、ポケットから切符を取り出して俺の机の上に置いた。



その夜、弘佳は饒舌でいつになくいろんな話をしたけれど、結婚を止めた経緯については何一つ話してくれなかった。
そして、いつもよりずっと優しく俺を抱いたけれど、「愛している」とは言わなかった。
「もう寝たのかよ」
返事もしないまま。
忙しかった一週間の疲れが出て、一度抱かれた後、すぐに眠り落ちた。
笑いながら腕枕をする弘佳がやわらかく耳を噛むのを感じながら―――


まどろみの中で電話が鳴り、夢から引き戻された。
弘佳が俺を腕に抱いたまま電話を取った。
「……ああ。もう話したよ」
苛立つ声が電話から漏れてきた。
彼女からだと分かって、ベッドを出ようとした俺を弘佳の腕が引き止めた。
一瞬、電話から顔を遠ざけ、俺の耳元に口を寄せた。
「行くなよ。すぐ終わるから」
促されるままに、また腕に頭を乗せた。
けれど、電話はなかなか切れなかった。
火曜日に弘佳が彼女の家に謝りにいったことも、父親に殴られたことも、その会話で知った。
「分かってる。何度謝っても許されないと思う。けど、もう俺のことは忘れて欲しい」
電話越しに彼女が泣いているのが伝わって、思わず顔を背けた。
「一生、誰とも結婚しない。そう決めたから。……ホントに、ごめん」
弘佳の言葉が終わらないうちに、彼女の方から電話を切った。


勝手な奴だと思う。
けど……
「嘘にはならないから、いいよな」
いきなりの問い掛けが何を指しているのかわからなくて、弘佳の顔を見上げた。
「何がだよ?」
「一生、結婚しないってこと」
返事ができなかった。
その言葉に、俺はどこまで期待していいんだろう。
弘佳が笑いながら俺を抱き締める。
「渉、」
「……なんだよ」
「欲しい物、考えておけよ。まだ二ヶ月あるんだから」
現状に精一杯で、二ヶ月も先のことを考える余裕はなかった。
「……いらねーよ」
「ホントにいいのか? 俺はおまえにちゃんと請求するぞ?」
今まで一度だって誕生日プレゼントなど要求されたことが無かった。
あげると言っても「彼女に貰うからいいよ」と言い返されるだけだったのに。
「弘佳は、何が欲しいんだよ?」
「ん〜? そうだな」
どんなに高くても、どんなに手に入れにくいものでもいいと思った。
なのに。
「……可愛い男の子」


酷い奴だと思うけど。
多分、一生、嫌いになれない。
「嘘だよ。おまえでガマンしといてやるから、いい子にしてろよ?」
「……バカじゃねーの??」
笑い転げる弘佳の頬にそっと拳を当てる。
その手を掴んで口付ける弘佳が真っ直ぐに見つめる視線の先。
「分かってないな、渉」
「何が?」
「さっきの、プロポーズだぜ?」
手に、入らないはずだった。
どんなに望んでも。
「……指輪、買ってくれねーの?」
「渉におそろいでして歩く勇気があるなら、買ってやってもいいけど?」
うん、なんて言うはずないと思っているんだろうけど。
「じゃあ、誕生日プレゼント、それでいいから」
たまには困らせてみたいと思ったのに。
弘佳は苦笑しながらもOKをした。
「じゃ、来週末にでも一緒に見に行こうか?」
どちらが先に降参するかなんて、わかっていて言うんだから。
「……やなヤツ」
「でも、好きなんだろ?」
本当に、酷いヤツだと思うけど。
頬に触れる唇は、優しかった。


外は憂鬱なくらいの土砂降りだったけれど。
昨日までとは違う未来が、待っているような気がした。



                                    end


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