いつ来てもきちんと片付いた弘佳の部屋。
不思議なことに彼女の物は一つも置かれていない。
歯ブラシも一本だけだ。
「なんでも付き合ってやるから。さっさと忘れろよ」
俺の投げやりな言葉に弘佳が苦笑した。
「なら、シャワー浴びてこいよ」
俺と弘佳の間には清算する物なんてない。
寝なくなれば、全部終わりだった。
いつになく激しいセックスの後も弘佳の腕は俺の体を抱いたままだった。
チェストの上で弘佳の携帯が鳴る。最初は無視していたが、3度目にようやく手を伸ばした。
彼女の明るい声が俺の耳にも届いた。
写真の笑顔がチラついて離れない。
「ああ、会社の後輩と飲んでたんだ」
普通の会話。
幸せなはずなのに。
弘佳はなんでそんな苦しそうな顔をするんだろう。
「大丈夫、考えておくよ。うん」
弘佳の溜息に彼女は気付いているのだろうか。
「わかってるよ。ああ」
耐え切れなくなって、ベッドを出ようとした。上半身だけ起き上がった時、弘佳の腕が俺の腰に回された。
逃げるなと言うことなんだろう。
仕方なくもう一度横になった。
弘佳から逃げるように壁を向いて目を瞑る。
「いや、任せるよ。ああ、そうだな」
弘佳が片手で俺の身体を引き寄せて、自分の方に向けた。
ベッドが軋んだ。
電話はまだ続いている。
けれど、弘佳は俺の目を見ていた。
彼女の楽しそうな声が俺の耳にもはっきりと聞こえた。
どんなドレスがいいとか、弘佳にも白のタキシードを着て欲しいとか、そんな話だった。
弘佳はたまに適当な相槌を打つだけだ。
彼女と話しながら、ずっと俺から視線を外さなかった。
堪らずにフイッと顔を背けても、すぐに頬を押さえられ、無理やり引き戻される。
弘佳の身体が俺を押さえつけた。
払いのけようとした時、唇を塞がれた。
息が苦しくても、声は出せない。
目の奥が痛くなって、キュッと瞼を閉じた。
ほんの数秒間だったが、相槌さえ打たない弘佳に彼女が返事を求めたのだろう。
「え?……ああ、悪い。ちょっと疲れててさ」
まだ唾液で濡れている唇が気だるく呟いた。
もっと彼女と楽しそうに話したなら、きっぱりと諦められたかもしれないのに。
―――……それでも、弘佳はこの人と結婚するんだ。
「ああ。じゃあ、おやすみ」
電話を切るとすぐに俺に覆い被さり、また唇を塞いだ。
勝手なヤツ。
俺がどれだけ苦しんで居るかなんて知らないくせに。
遊びの関係を清算するために、こうして俺を抱くなんて。
「渉、」
名前を呼ばれるたびに、ギュッと胸が絞られる。
閉じている目を開いたなら、すぐにでも涙が溢れるだろう。
声を殺して、涙を隠して、キリキリと胸が痛んだ。
頼むから、名前なんて呼ばないでくれ。
呼ばれるたびに声が深く刻まれていく。
「渉、」
返事なんてしてやらない。
勝手な事ばかり。
別れる時だけ優しくするなんて。
苦しくて、悲しくて、達くこともできなかった。
俺が達しない理由なんてお見通しだろうに、弘佳はさっさと自分だけ昇りつめて、果てる直前に俺を切り刻んだ。
「……愛してる」
今まで一度も言わなかった言葉を、ギュッと抱き締めながら耳元で何度も呟いた。
俺は一度も達けないまま、ただ、声を殺して泣いていた。
翌朝、弘佳が目を覚まさないうちに部屋を出た。
自分の部屋にも戻らず、会社にも行かなかった。
携帯を弘佳の部屋に忘れてきたことに気づいたのは、会社に電話を入れようとした時だった。
仕方なく公衆電話から電話をかけて、体調が悪いから休みたいと告げて切った。
ズル休みなどしたことがなかった。
ぽっかり穴が開いたような気持ちで平日の町を歩いた。
少しの罪悪感と、わずかな開放感。
あとは空白だった。
したいことも何もなくて、だからと言って部屋にも帰りたくない。
延々と真っ直ぐな道路を歩き続けた。
寝不足で、めまいがした。
子供の声が聞こえて、そこが公園の前だと言うことが分かる。
照り付ける陽射しの中で噴水の水を掛け合う子供と、それを笑いながら見ている若い母親たち。
夕方には家に帰り、食事の用意をして玄関の明かりをつける。
「ただいま」と言って子供を抱き締める弘佳の姿が重なった。
ベンチに腰掛けると、子供が近寄ってきた。
「おにいちゃん、かいしゃ、おやすみ?」
スーツ姿でフラフラとしている俺が珍しいのだろう。
「さぼっちゃっただけ」
子供相手に正直に答える。
俺の現実とは無関係な世界。嘘の笑顔。
子供は母親と妹の眠るベビーカーの元に戻ると、リュックサックから何かを取りだした。
母親に向かって一言二言話をする。母親の視線が俺に向けられた。
彼女から見れば、仕事中に一休みしている営業マンに見えるだろう。
にこりと笑って幼い息子を送り出した。
「はい、おにいちゃん」
差し出されたのは、子供用の小さなりんごジュースのパックだった。
二つ持っているという事は、一緒に飲む気なんだろう。
少し高いベンチに一生懸命上ろうとしていた。
俺はジュースを受け取ってから、男の子を抱き上げてベンチに座らせた。
木漏れ日にキラキラ光る目が笑う。
「おにいちゃん、ジュース、すき?」
「うん……好きだよ」
ストローを通ってくる甘い液体は思っていたよりも冷たくて、すっと喉に沁みていった。
母親が微笑んで見ていたから、少しだけ会釈をした。
飲み終わると子供はベンチを下りた。
「おにいちゃんのもね、ポイしてくる」
「ありがとう」
礼だけ言って、彼の首から下がっていた帽子を被せてやった。
ゴミ箱と変わらない背丈で、背伸びをしてパックを手から離した。
陽射しが強くなってきていた。
昼はとうに過ぎただろう。
腕時計も弘佳の部屋に忘れてきていた。
けれど、時間なんてどうでもよかった。
大きく手を振りながら、少年が去っていく。
手を振り返しながら、まだ覚束ない足取りを見送った。
弘佳は、こんな未来を欲しいと思ったのだろうか。
俺とでは決して得られないもの。
それなら、諦められるような気がした。
夕方、重い足取りでアパートに戻った。
そう何日も現実逃避はできない。
明日は会社に行かなければ。
弘佳にさえ会わなければ、日々を流していくことくらいはできるだろう。
階段を上がって突き当たりを曲がると、弘佳がいた。
時間は定かではないが、少なくとも5時よりは前だ。会社は終わっていない。
「何してんだよ」
もう気持ちが擦り減っていて、弘佳に対しての感情も麻痺していた。
自分の言葉が遠く聞こえるほど。
「……どこへ行ってた?」
「別に。フラフラしてただけ」
ポケットから鍵を取り出し、差し込んだ。
「なんで会社を休んだんだ?」
咎めるような口調。仕事でミスをした時と同じだな。
「弘佳には、関係ない」
「関係あるだろ?どれだけ心配したと思ってるんだ?」
弘佳のこんな顔も久しぶりだ。
入社間もなくの頃は、いろんなことで大失敗をして、いつも弘佳を心配させていた。
真夜中まで居残って仕事をしていて怒られたこともある。夜中の一時に弘佳は会社に戻ってきて、今日とまったく同じセリフを言った。
「……もう、俺のことは心配しなくていいよ」
微笑んでドアを開ける。振り返らずにドアを閉めようとすると、肩を掴まれた。
「……忘れ物だ」
手渡された携帯と腕時計。
それと、結婚式の招待状。
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
どれだけ傷つけられても、嫌いになれない。
バカだと思いながら、微笑んでそれを受け取った。
背中でドアが閉まった時、全てが切れたような気がした。
弘佳の足音が遠くなり、カンカンと階段を降りていく。
聞こえなくなった時、やっと涙がこぼれた。
未来なんて要らない。
今すぐに忘れさせてくれるなら、何と引き換えてもいい。
そう思った。
あれから何日経ったんだろう。
就業時間になっても部長はスピーチを考えていた。
「直井も呼ばれてるんだって?」
滝さんが俺の肩を叩いた。
「はい」
出席すると書いた返信ハガキは、招待状を受け取った翌日に投函した。
あの日から感情はどこか麻痺したままだった。
だから、式に出ても泣かないでいられるような気がした。
花嫁と並んで歩く弘佳は、俺の現実とは無関係に映るはずだと信じて。
「花嫁のお友達も美人だといいなぁ」
みんな目指しているところは同じなのだ。
俺とは無関係の場所。
こんな風に遠くから見ているしかない。
一人で。
このまま何の感情もなくなってしまえばいいのに……
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