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 わざと素っ気ないメールを打つ。
 渉が夕方から講習会の講師をすると知っていて、絶対来られないような時間を指定する。
 『8時にいつもの店で』
 嫌な奴だと思うだろう。
 それでも渉が来てくれることを俺はいつも心のどこかで確信していた。
 「さて、どんな返事がくるかな……」
 無理な要求に必死で応えようとする姿が目に浮かんで一人で笑う。
 前向きで、努力家で、真っ直ぐで。
 入社したての頃から、それは変わらない。
 右も左も分からない頃からずっと見てきたから、渉のすることは手に取るように分かる。
 
 案の定、もう30分遅ければ来られると言う返事。
 講習会が予定通りに終わって急いでデスクに戻って片付けをして、なおかつ走ってくればなんとか間に合う時間。
 「……ふうん。そうか」
 間に合うように来てみろよ。
 そういう気持ちで受け取った。
 返事は送らない。
 それもいつものことだから。
 
 
 
 そして、こんな風に呼び出した時はたいてい彼女の話しかしない。
 渉もそんなことは承知している。
 『今度はなんだよ』
 顔にそう書いてあるからすぐに分かる。
 いつもはそれが面白くて、ついからかってしまうのだが、今日はそんな気にもなれなかった。
 なんだかんだと言って延ばし続けてきた結婚話が再浮上していて、もう後には引けなくなっていたからだ。
 5年も付き合ってきた相手だから、情も移っている。その上、明るくて美人で気の利く非の打ち所のない女だ。結婚を拒む理由などないはずなのに。
 『30歳になる前にウェディングドレスを着たいな』
 昨日、電話で唐突にそんなことを言われた。それが彼女からの催促。
 「ああ、きっと似合うだろうな」
 そんなことを答えたかもしれない。
 自分の返事さえよく覚えていないのは気が動転していたからじゃなく、その会話に興味が持てなかったからだ。
 彼女にひとこと告げたら、このままあっという間に話は進むのだろう。簡単に予想できる1年後、5年後、10年後……
 料理が上手くて美人の妻、愛らしい子供。
 誰もが羨むような家庭になるだろう。
 
 だが……――――
 
 
 夕方、彼女との約束を「急な仕事が入って」とキャンセルした。
 「いいのよ。いつでも会えるんだから。仕事、頑張ってね」
 彼女の返事を思い出すと、また溜息が出る。
 物分りもいい。わがままもめったに言わない。他のヤツらなら羨ましく思うだろう。だが、俺は憂鬱だった。
 
 そして、渉にメールをした。
 
 
 真面目な悩みなど他人に聞かせるものじゃない。
 そうは思っても、気が滅入る。逃げ場がなくて、そんな時に思いついた相手は結局渉しかいなかった。
 「アイツなら嫌々ながらでも聞くだろうしな……」
 些細な楽しみは、そんな話に渉がどんな反応をするかということ。
 不機嫌を隠さずに相手をする渉の顔が思い浮かんで、少しだけ気持ちが楽になった。
 自分勝手だとは思うけれど。
 結局、俺は4つも年下のコイツに甘えているんだろう。
 
 
 
 「なんで溜息なんかついてるんだよ。せっかくメシ食ってるのに」
 渉は俺の表情には敏感で、すぐに事情を察したようだった。
 「ん、まあ、いろいろな。オトナの悩みなんだよ」
 言いながら、またため息が漏れる。
 渉にはこの先ずっと関係のない悩み。それはそれで他の悩みが尽きないのだろうけれど、今夜ばかりは羨ましく思った。
 「なんだよ。話してみろよ」
 あっさりとそう聞いてきた渉に、どんな言葉を返そうか迷ったけれど。
 「おまえはいいよな。『結婚しないの?』とか言わねえし」
 そんな言葉で仄めかす。
 わずかに表情は動いたけれど、渉はごく普通に返事をしてきた。
 「さっさと結婚しちまえば? そしたら言われなくなるだろ」
 本当にそれだけなのか、と問い返す気にはなれなかった。
 渉を傷つけるだけの関係を、今日まで引き摺ってきたのは俺だから。
 
 
 
 
 自分の中で結論が出ないまま、数日後、結婚することを告げた。
 予想に反して渉は少しも驚かなかった。
 「そっか。おめでと」
 簡単すぎる祝福が俺を落胆させる。
 「それだけか?」
 引きとめてくれるのでは、と淡い期待をしていた自分に気づいて呆然としたけれど。
 「他に、なに言えって?」
 渉はいつになく無表情で、何を考えているのか分からなかった。
 「……まあ、そうだけどな」
 せめて少しでも残念そうな顔をしたなら、その先を告げることができたかも知れないのに。
 
 ――――今なら、まだ、キャンセルできるけどな、と。
 
 そして、渉がその言葉にほんの少しでも嬉しそうにしてくれたなら……
 
 
 
 心のどこかで結婚なんてと思っているくせに、自分で決断することはできなかった。断わる理由が思い浮かばなかったからだ。
 いつかは結婚して、子供の父親になって。それが自分の将来だと疑わなかった。
 「……渉、これから、どうする?」
 ほんの少しも悲しくはないのだろうか。
 俺と別れたら、また他の男を好きになればいいだけなのだろうか。
 「もう、帰るよ」
 まるで普段と同じ口調。素っ気なく答える渉に少し苛立ちながら。
 「そうじゃなくって、……この先の話だ」
 俺はまだ拘っていた。
 渉とのことがどこかで燻っていた。
 「……これで、終わりってことだろ」
 当然だと言わんばかりの返事の中に読み取れるものは何もない。
 また、ため息が漏れる。
 
 ―――俺は……何を期待していたんだろう。
 
 「じゃ、俺、帰るから」
 そう言って席を立つ渉の腕を無意識のうちに掴んでいた。
 「……弘……佳……」
 その時だけ、渉は少し驚いた表情をした。
 「待てよ。送ってく」
 そのまま無理やり駐車場に連れていくと、仕事で使った車に乗せた。
 大人しく隣りに座ってはいたけれど、渉はあまりにも無表情だった。
 俺が結婚という言葉を口にした瞬間に、渉の中ではもう終わったのだろうと思った。
 わかっていながら、俺は言い訳を並べた。
 「本当はずっと前から決まってたんだ。渉に会うよりずっと前だ」
 もしかしたら、引き止めてくれるかもしれないと思いながら。
 「ふうん」
 チラリと目をやっても、渉の表情は変わらない。
 『だから何?』
 そんな横顔だった。
 もう、終わったんだ。
 いや、俺が終わらせたんだ。
 渉じゃなくて、彼女を選んだことで。
 
 信号とヘッドライトがチラチラ映る窓に見えるのは薄っぺらな未来。
 祝福された結婚。可愛い子供。誰もが羨ましがるような幸せな家庭を作るために、努力をし続ける俺がいる。
 
 「そんな話、初めてじゃないんだろ?」
 渉がうんざりしたように吐き捨てた。
 「ああ」
 「言ってくれれば、もっと早く別れてやったのに」
 渉は携帯のメールを読みながら、投げやりにつぶやいた。
 まるで、もうどうでもいいことのように響く乾いた声。
 「おまえに……言う必要なんかないだろ?」
 言えなかったんだと、告げることができたなら。
 まだ迷っているんだと伝えられたなら。
 
 わずかでいい。
 チャンスが欲しかった。
 けれど。
 
 「そうだよ。俺にはなんの関係もないよ」
 渉は遠くを見たまま、携帯をポケットにしまってシートに沈み込んだ。
 
 
 
 
 渉が入社した時、研修担当を任された。
 初めてのことで俺も張り切っていた。
 渉はそれほど器用な方ではなかったけれど、努力家で一生懸命な奴だった。俺にも課長にも、へたをすると部長にまではっきり意見した。
 納得するまでは絶対に自分の考えを曲げなかったけれど、それでも俺の言うことはちゃんと聞いた。
 そんな渉を可愛く思い始めたのはいつだっただろう。
 けれど、男に特別な気持ちなど抱くはずはないと信じていたから、周囲にはいつも「後輩は素直が一番だよな」と笑いながら話していた。
 
 転機は半期の打ち上げの日。渉が入社して半年経った夜だった。
 「ったく、しっかりしろよ。俺に家まで送らせる気か?」
 ふらつく体が熱いことも、しなだれかかる渉の様子がおかしいことも気づいていた。
 なのに、渉を家に泊めて。その夜、渉と関係を持った。
 渉は自分の体さえまともに動かせないほど酔っていたけれど。
 俺は少しも酔ってなどいなかった。
 「……どういうつもりだよ」
 貸してやったパジャマを脱いで、俺に抱きついた渉の意図など百も承知の上で、一度は突き放したけれど。
 「……ずっと、好きでした……今夜だけ……そしたら、忘れますから」
 酔った口調と上気した頬。
 苦しげにつぶやく渉の口元が妙に艶かしく映って、何も言わずにベッドに押し倒した。
 酔っていたと言えば、それで済む。そんな安易な言い訳を用意して。
 
 そして、翌朝、俺はその通りを渉に告げた。
 「酔ってたんだ。おまえに関心はない」
 それで終わると思っていたのに、渉は真正面から俺を見て「それでもいいです」と答えた。
 側にいられるなら、どんな関係でもいいと。
 予想していなかった答えに一瞬の空白ができた。
 いつだって、どこかに打算があって、そんな風に誰かに求められたこともなかったから。
 世間から見たら、俺は一流企業の社員でそれなりの給料で見た目もそこそこで、結婚するには体裁の良い相手。
 そして、俺が相手に求めたものも同じ。美人で明るくて気の利く、いい嫁さんになりそうな女ばかりを彼女にしていた。
 けれど、渉は違った。
 価値観も。相手に求めているものも。全部。
 「……身体だけでいいなら、相手してやるよ」
 こんなふざけた言い草に激怒しないヤツはいないだろうと思った。
 渉らしい返事。「バカにするな」か「最低だな」が俺の予想だったけれど。
 それは覆された。
 渉はしばらく唇を結んだままうつむいていたけれど、一度目を閉じてから顔を上げた。
 「……それで、一緒にいてくれるなら……」
 真剣な瞳がまっすぐに俺を見ていた。
 その後の短い沈黙の間に後悔と罪悪感が押し寄せた。
 面白半分で言うセリフじゃなかったと思った時には全てが手遅れだった。
 「俺から仁藤さんを誘ってもいいんでしょう?」
 こんな時でさえ前向きな姿勢は変わらない。
 「……好きにしろよ。気が向かなければ断わるだけだ」
 どう返すべきなのかを量りかねて、斜に構えてそんな返事をした。
 
 
 
 
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